延喜式神名帳
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田村神社(高松市一宮町)
田村神社(たむらじんじゃ)は 社記によれば 古くは 定水井(さだみずのい)という深淵に水神〈龍神〉を祀っていた 和銅二年(709)に行基によって その深淵の上に社殿が創建されたと伝わります 讃岐地方は 雨が少なく農耕には溜池を必要とする地域で この地に枯れることなく湧き出る水は 信仰と祭祀の根源に繋がったとされます
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大山祇神社(今治市大三島町宮浦)〈伊豫国一之宮〉
大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)は 社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称し 歴代朝廷の尊崇篤く 延喜式 名神大社に列し 伊予国一之宮とされ 全国津々浦々に御分社が奉斎される四国唯一の大社 創建は 神武天皇御東征の時 祭神の子孫 乎知命(おちのみこと)が 瀬戸内海 芸予海峡の要衝 御島(大三島)に鎮祭したと云う
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當島八幡神社〈相殿 多理比理神社〉(福山市駅家町上山守)
當島八幡神社(とうしまはちまんじんじゃ)〈相殿 多理比理神社〉は 大同二年(八O七年)豊後の国(大分県)宇佐八幡宮の御分霊を勧請して祀られた 延元元年(一三三六年)『延喜式神名帳927 AD.』所載の多理比理神社を相殿に合祀し 現在地に社殿を再建して以後 當島八幡神社として祭祀が執り行われています
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多理比理神社〈吉備津神社 境内〉(福山市新市町)
多理比理神社(たりひりじんじゃ)は 一説に もとは品治郡服部村大字服部本郷に鎭座していたが 何時の頃か社が荒廃し 吉備津神社の境内に移された また一説に 多理比理神社が 品治郡宮内村に当初より鎭座していて 後に分祠であった吉備津神社が備後一宮として移されたとする説もあります 『延喜式神名帳』には 多理比理神社は記載があり 備後吉備津神社は記載がありません
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吉川八幡宮(吉備中央町吉川)
吉川八幡宮(よしかわはちまんぐう)は 永長元年(1096)京都 石清水八幡宮の別宮として創建と伝わり その後 慶長年中(1596~1615年)に断絶したが 後光明天皇 寛永21年(1664)に寄付の記録があります 『備中誌』に 吉川村の村内に布郡(ふこほり)と呼ばれる地名があり ここが式内社 古郡神社(ふるこほりの かみのやしろ)の所在ではないかと記しています
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古郡神社(総社市総社)& 古郡神社々跡
古郡神社(ふるこおりじんじゃ)は 創建年代は不詳 正長元年(1428)の大風により倒壊し 久米村御崎神社に合祀奉遷された 嘉永四年(1851)足守藩木下利成の援助により 西山の旧社地に社殿を造営し再興された 明治初期造営の社殿は倒壊していて 現在は 小祠と古郡神社々跡の石碑が残ります
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池田神社(総社市槙谷市井谷)〈元槇谷鎮座 古郡神社を合祀〉
池田神社(いけだじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の備中国(びっちゅうのくに)賀夜郡(かやのこおり)古郡神社(ふるこほりの かみのやしろ)の論社であった 元 槇谷鎮座 村社 古郡神社を 大正二年(1913)十二月十三日に合祀していて 現在 式内社の論社となっています
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吉備津神社(岡山市北区吉備津)〈備中国一之宮〉
吉備津神社(きびつじんじゃ)は 社伝によれば 第十六代 仁徳天皇が吉備国に行幸された時 ゛大吉備津彦命〈第七代 孝霊天皇の皇子〉゛(第十代 崇神天皇の御代に吉備国に下られ 鬼の温羅(うら)を平らげた)を祭神として御創建になられたと云う 後に延喜式では 名神大社に列し やがて最高位の一品の位になり 一品吉備津宮ともいう
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阿蘇山上神社(阿蘇市黒川)
阿蘇山上神社(あそさんじょうじんじゃ)は 阿蘇神社の奥宮〈奥の院〉とされ 古くから阿蘇火山を鎮める神社として朝廷の崇拝を受けてきました 社記には「欽明天皇十四年三月(552)阿蘇山火起って天に接す阿蘇宮の御三社を祀り社家の内笠忠基をして奉仕せしむ これを天宮祝と云う」と伝わります
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美和神社(長野市三輪)〈『延喜式』美和神社〉
美和神社(みわじんじゃ)は 善光寺七社の一つで 長野電鉄本郷駅の西側に鎮座し付近の住所は三輪(みわ)と呼ばれています 社頭には三輪鳥居が構え 三輪山をご神体とする奈良県〈大和国〉の大神神社と同じく古代の大三輪氏大神一族によって祀られたとされている『延喜式神名帳927 AD.』信濃国 水内郡九座の筆頭に記される式内社です
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讃岐国 式内社 24座(大3座・小21座)について
讃岐国(さぬきのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 讃岐国 24座(大3座・小21座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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若狭國 式内社 42座(大3座・小39座)について
若狭国(わかさのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 若狭国には 42座(大3座・小39座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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出羽國 式内社 9座(大2座・小7座)について
出羽国(でわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 出羽国には 9座(大2座・小7座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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西寒田神社(臼杵市野津町西寒田)
西寒田神社(ささむたじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の式内社「豊後国大分郡 西寒多神社」の論社です・『豊後国志』・『太宰管内志』では こちらが本祠であって 応永15年(1408)3月に大友親世が現在地〈西寒多神社(大分市寒田)〉に遷座したと伝えています
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西寒多神社(豊後大野市犬飼町)
西寒多神社(ささむたじんじゃ)は 社伝によれば『延喜式神名帳927 AD.』所載の豊後國 大野郡一座大 西寒多神社であり 文化九年(一八一二) 白川神紙伯の「鎮國一宮 西寒田神社」の社号をうけていると伝えています 式内社の論社でもあり 豊後国一之宮の論社でもあります
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越後國(えちごのくに)の 式内社 56座(大1座・小55座)について
越後国(えちごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越後国には 56座(大1座・小55座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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天伊弉奈彦神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
天伊弉奈彦神社(あめのいざなひこじんじゃ)は 祭神の天伊弉奈彦大神が氣比大神の御子神であると『続日本後紀』承和7年(840)9月13日(乙酉)の条に「奉授 越前國 從二位勳一等 氣比大神之御子 无位 天利劔神 天比女若御子神 天伊佐奈彦神 並從五位下」と記される由緒格式ある古社です
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淡路国 式内社 13座(大2座・小11座)について
淡路国(あわじのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 淡路国 13座(大2座・小11座)の神社です 『古事記』『日本書紀』の記紀神話”国産み神話”によれば 日本列島で最初に生まれた島とされます
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天利劔神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
天利劔神社(あめのとつるぎじんじゃ)は 祭神の天利劔大神が氣比大神の御子神であると『続日本後紀』承和7年(840)9月13日(乙酉)の条に「奉授 越前國 從二位勳一等 氣比大神之御子 无位 天利劔神 天比女若御子神 天伊佐奈彦神 並從五位下」と記される由緒格式ある古社です
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安藝国 式内社 3座(並大)について
安藝国(あきのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 安藝国 3座(並大)の神社です