延喜式神名帳
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御穗神社(静岡市清水区三保)〈駿河国三之宮〉
御穗神社(みほじんじゃ)は 世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の内『芸術の源泉』としての構成資産゛三保松原(みほのまつばら)゛に含まれます その創建は古く〈927年12月編纂〉『延喜式神名帳』所載 駿河國 廬原郡 御穂神社(みほの かみのやしろ)です 「羽衣伝説」ゆかりの社としても名高く 朝野の崇敬をあつめてきました
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妻沼聖天山 歓喜院(熊谷市妻沼)
妻沼聖天山 歓喜院(めぬましょうでんざん かんぎいん)は 治承3年 (1179) 斎藤別当実盛公が 守護神としていた歓喜天を『延喜式神名帳』所載 武蔵國 幡羅郡 白髪神社が祀られていた鎮守の杜゛大我井の森゛に祀り創建されました その後 白髪神社は 聖天社に合祀され 明治維新後 独立分離し 大我井神社として再興しています
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大我井神社(熊谷市妻沼)
大我井神社(おおがいじんじゃ)は 明治維新の神仏分離令により 聖天様より新たに分離独立した伊弊諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を 太古に白髪神社を祀ったとされる゛大我井の杜゛と呼ばれる現在地に再興したものです 古くは聖天宮(妻沼聖天山)に合祀されていたと伝わる 二つの延喜式内社〈・白髪神社(しらかみの かみのやしろ)・楡山神社(にれやまの かみのやしろ)〉の論社となっています
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調神社(さいたま市浦和区岸町)
調神社(つきじんじゃ)は 社伝『調宮縁起』によれば 第九代 開花天皇乙酉三月 所祭奉幣の社として創建 第十代 崇神天皇の勅命により 神宮斎主 倭姫命が参向 此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられたと伝わります 延喜式内社 武蔵國 足立郡 調神社(つきの かみのやしろ)とされます
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古天神遺跡〈古天神公園〉(調布市布田)
古天神遺跡(ふるてんじんいせき)は 文明九年(1477)多摩川の洪水を避けて この地から現在地〈布多天神社(調布市調布ケ丘)〉へ遷座した『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 多磨郡 布多天神社の旧鎮座地゛古天神の地゛です 遺跡の発掘調査では 1万年位前の旧石器・4、5千年前の縄文時代の人々の生活跡・5世紀頃の墓、7世紀の堅穴住居などが発見されています
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布多天神社(調布市調布ケ丘)
布多天神社(ふだてんじんしゃ)は 社伝によれば 創建は第11代 垂仁天皇の御代(BC29~AD70年頃)と伝わる古社 御祭神は天津神の 少名毘古那神(すくなひこなのかみ)を祀る゛延喜式内社゛です 文明九年(1477)多摩川の洪水をさけ 古天神という所から現在地へ遷座 その折 相殿に 菅原道真公を配祀され現在に至ります
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川島杉山神社(横浜市保土ケ谷区川島町)
川島杉山神社(かわしますぎやまじんじゃ)は 旧 川島村の鎮守社 口碑によれば 天文年間(1532~1555年)当地で北条氏康が 上杉朝定と戦い一祠を建て武運長久を祈り 果して凱旋し 直に社殿を新築したのが創建と伝わるが 延喜式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の論社との説もあります
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鶴見神社〈杉山大明神〉(横浜市鶴見区鶴見中央)
鶴見神社(つるみじんじゃ)は 社伝によれば 創建は 第33代 推古天皇の御代〈593~628年〉と伝えられます 古くは゛杉山大明神゛と称されましたが 大正9年(1920)゛鶴見神社゛と改称しています 延喜式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の論社でもあります
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勝田杉山神社(横浜市都筑区勝田町)
勝田杉山神社(かちだ すぎやまじんじゃ)は 中原街道が早淵川南岸の台地に上がる地点に鎮座 この台地から考古学発掘調査で 奈良・平安時代の竪穴住居址 掘立柱建物址からなる集落址゛勝田原遺跡゛が発見されました 杉山神社の論社とされる茅ヶ崎社・西八朔社・吉田社にはこうした基礎となる集落が判明しておらず 勝田社を式内杉山社の有力候補と推定する説があります
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杉山神社(横浜市港北区新羽町)
杉山神社(すぎやまじんじゃ)は 口碑に伝えるには゛その創立は上古根古屋の庄荷場の郷と唱う水郷一帯の時代 景行天皇の御代四十年東方十二国御平定の折 日本武尊 此の地方を御通過され 尊崩御の後 村民 其の御徳を慕い奉いて祠を造り奉斎したと云う゛と伝えています
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星川 杉山神社(横浜市保土ケ谷区星川)
星川 杉山神社(ほしかわすぎやまじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 高台にあり 横浜港に灯台が設置される以前は港へ入る船の指標ともされ 地域の人々だけでなく海で働く人々の守り神としても尊ばれていた 『江戸名所圖會(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉には゛延喜式内 都筑郡 杉山神社(すきやまのかみのやしろ)是(これ)なり゛と記され 式内社の論社とされています
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戸部 杉山神社(横浜市西区中央)
戸部 杉山神社(とべすぎやまじんじゃ)は 社伝では 白雉3年(652)当地を開拓した杉山氏族が 出雲大社 大己貴命の御分霊を「塩田の浜」に祀ったのが始まりと伝え 当社の創建後に 近隣に「杉山」の名が付く神社が多くなったとしている 式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の元宮であるとの伝になります
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杉山神社(横浜市都筑区茅ケ崎中央)
杉山神社(すぎやまじんじゃ)は 社伝に 天武天皇の御代 白鳳三年(663)安房国 安房神社 社主 忌部勝麻呂が 神託に依り朝廷に奏上し 武藏国杉山の國に神籬を立て 大神を奉齋せしめた それ故杉山神社というとあり 式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の有力な論社とされます
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杉山神社(横浜市港北区新吉田町)
杉山神社(すぎやまじんじゃ)は 安房の忌部氏によって武蔵国南部 都筑郡に祭祀され 同郡の鶴見川とその支流の早淵川流域の開拓によって広く分祀されていったとされます 神社南側は旧字名を杉山と称した事 武蔵国総社 大國魂神社の社家 猿渡氏の出自がこの吉田村界隈と推測される事 地勢上などから 式内社の有力論社とされて明治六年(1873)に都筑郡の郷社に定められました
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大棚・中川 杉山神社(横浜市都筑区中川)
大棚・中川 杉山神社(おおだな・なかがわ すぎやまじんじゃ)は 旧大棚村(おおだなむら)杉の森に鎮座していた 式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の論社です 明治六年(1873)郷社に列しましたが 都市開発の中 遷座を繰り返し 平成7年(1995)10月 現在地に遷座しました
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宇賀神さま(富岡市神成)〈宇藝神社旧鎮座地 磐境〉
宇賀神さま(うがじんさま)は 宇賀神〈宇迦之御魂神の別称〉を祀る磐座で 宇藝神社の旧鎮座地とされ 現在の宇藝神社(富岡市神成)より西方500m程 神成山中腹 峻立した岩壁の割れ目に小祠が祀られ その横に゛延喜式内社 宇藝神社磐境゛と刻字された石碑が建立されています
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杉山神社(横浜市緑区西八朔町)
杉山神社(すぎやまじんじゃ)は 武蔵国の総社 大国魂神社の六之宮とされ 式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の有力な論社とされます 但し 都筑郡(横浜市北部)と周辺には70社程の゛杉山神社(杉山社 椙山神社)゛があり その数多い式内社 論社の所在についても 諸説があり しかも いずれも證(あかし)はなく 未だに比定がなされていません
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稲荷神社(上里町八町河原)
稲荷神社(いなりじんじゃ)は 中世後期の創建を伝え 宝徳年中(1449-1452)天文年中(1532-1555)天正年間(1573-1592)の勧請と諸説あります 延喜式内社ではないだろうか とも伝わっていますが これは式内社の゛稲実(いなみ)゛と゛稲荷(いなり)゛の音が通じているための誤りであろうとされています
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今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)
今城青坂稲実池上神社(いまき あおさか いなみいけがみ じんじゃ)は 社伝によれば 和銅四年(711)に勧請と伝わる 延喜式内社 今城青坂稲実池上神社(いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)の論社です 社名の「いまき」は今城すなわち新来の意で 渡来系氏族が当地に高度な稲作技術を導入し゛稲魂゛を祀ったものとされ 江戸時代には゛稲荷社゛と呼ばれていました
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熊野神社(上里町堤)
熊野神社(くまのじんじゃ)は 式内社 武蔵國 賀美郡 今城青坂稲實荒御魂神社であると伝わっていますが 証はなく 町内にある他の熊野神社が中世の武士団の信仰と関わりがあり付会ともされますが 本殿のすぐ後ろが 熊野神社古墳(東堤古墳群8号墳)となっていて この古墳を祀る故に熊野神社が勧進される以前に式内社があった可能性を示唆し 式内論社とされています