延喜式神名帳

都麻津姫神社(和歌山市平尾若林)

都麻津姫神社(つまつひめじんじゃ)は 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉日前・國懸の両神宮に和歌山市秋月の社地を譲り 山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へと遷座 大宝2年(702)に分遷した三社〔伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売〕の一つです 亥の森から遷座後は 三社は各々 式内社の名神大社となりましたが 都麻津姫神社の所在地は不明となり 論社は現在三ヶ所です

都麻津姫神社(和歌山市吉礼)

都麻津姫神社(つまつひめじんじゃ)は 当初は三社〔伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売〕で一つの神社でした 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉日前・國懸の両神宮に和歌山市秋月の社地を譲り 山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へと遷座します 大宝2年(702年)三社は分遷 亥の森から遷座 各々が 式内社の名神大社となりました 都麻津姫神社の論社は 現在三ヶ所あります

大屋都姫神社(和歌山市宇田森)

大屋都姫神社(おおやつひめじんじゃ)は 当初の鎮座地は 日前・國懸両神宮(和歌山市秋月)の地 その後 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉両神宮に社地を譲り 山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へ遷座します 大宝2年(702年)伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売3社の分遷により 亥の森から現社地の北方 古宮に遷座した後 現在地に遷座と伝えています

水門吹上神社(和歌山市小野町)

水門吹上神社(みなとふきあげじんじゃ)は 『古事記』に云う゛男之水門゛であると伝えられる地〈神武天皇が御東征のみぎり 御兄の彦五瀬命が 和泉で長髄彦の流失に当り 出血甚だしく 崩御されたと言われる旧跡地〉に鎮座します 延喜式内社 紀伊國 名草郡 伊達神社(いたての かみのやしろ)の論社でもあります

伊達神社(和歌山市園部)

伊達神社(いたてじんじゃ)は 『六国史』に゛伊達神゛と記載 『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 伊達神社(いたての かみのやしろ)と載る名神大社です 神名「伊達」は伊太氏により山東庄に鎮まる伊太祁曾神と同神とされます 志磨神社 静火神社と共に紀州三所神とされ その一之宮として里人は゛一宮大明神゛とも゛園部一の宮゛とも称え奉ると云う

志磨神社(和歌山市中之島)

志磨神社(しまじんじゃ)は 神功皇后の創建との伝承があり 正史の『六国史』に゛志摩神゛と記載 『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 志磨神社(名神大)(しまの かみのやしろ)と載り 伊達神社 静火神社と共に紀州三所神と呼ばれた名社です 中世に廃絶 所在不明となり 元和年間(1615~24年)中之島の小祠゛九頭明神゛を志磨神社と定め 紀州徳川家により再興されました

静火社 舊地(和歌山市和田)

静火社 舊地(しずひのやしろ きゅうち)は 神功皇后の御創建とされる 延喜式神名帳 名神大 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)の旧鎮座地です 静火社の御社殿は古来より度々の浸水に遭い 今は天霧山の山上に祀られていますが 和田の氏神の社として永くこの地に祀られていた事を後世に伝えるために石碑が建てられていました 老朽化のため再建されました

静火神社(和歌山市和田)〈延喜式内社 名神大社〉

静火神社(しずひじんじゃ)は 『六国史』に゛靜火神゛『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)と載る名社ですが 永仁以前(~1293年)には既に廃絶して社伝・創建年代等は不詳 『国造家記』の記録には「日前神宮・國懸神宮」境内「草ノ宮」で「静火祭」の神事祭祀が 暦応~應永年間(1338~1428年)も継続していたと記されます

小俣神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉&八柱神社(伊勢市小俣町元)

小俣神社(おばたじんじゃ)は 『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に載る古社で 豊受大神宮(外宮)の摂社です 中世に頽廃するも 産土神として八王子祠と称し里人に祀られてきました 小俣神社は 寛文三年(1663)現地に一社両殿として再興されました 明治6年(1873)境内を〈神宮側・村側〉の二等分にして現在に至ります

宇須乃野神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〈御同座 縣神社(外宮 末社)〉

宇須乃野神社(うすののじんじゃ) 〈御同座 縣神社(あがたじんじゃ)〉は 豊受大神宮(外宮)の摂社・末社で 両社ともに『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に載る古社です 中世に廃絶し社地も不明となり 寛文三年(1663)宇須乃野神社は現在地に再興され 明治三年(1870)縣神社は御同座されました

今社(伊勢市宮町)

今社(いまのやしろ)は 『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に載る「清野井庭神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉」の旧鎮座地とされる古社です 今社(いまのやしろ)と呼ぶのは 井庭の社(いばのやしろ)の訛とも伝わります

清野井庭神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

清野井庭神社(きよのいばじんじゃ)は 『止由気宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に載る豊受大神宮(外宮)の摂社で 『延喜式神名帳〈927 AD.〉』には伊勢國 度會郡 清野井庭神社(しのゐての かみのやしろ)と所載される古社です 中世に頽廃し社地不明となりました 現在の社地は 寛文三年(1663)大宮司・河邊精長により 再興されたものです

廣瀬神社(狭山市広瀬)

広瀬神社(ひろせじんじゃ)は 社記によると景行天皇の御代 日本武尊東征の折 当地を流れる入間川が大和国 広瀬河合の地によく似ていることから大和國 廣瀬坐和加宇加乃賣命神社より 若宇迦能賣命を移し祀ったと伝えています 『文徳実録』嘉祥3年(850)6月条に官社に列したと記される 延喜式(927年12月編纂)所載 武蔵国 入間郡 廣瀬神社(ひろせの かみのやしろ)です

疋野神社(玉名市立願寺)

疋野神社(ひきのじんじゃ)は 玉名郡司〈大宝律令(701年)〉日置氏(へきうじ)の守護神〈氏神〉として゛へきの神社゛が゛ひきの神社゛となったとされます 平安時代(840年)官社となり 延喜式内社 肥後国 玉名郡 疋野神社(ひきの かみのやしろ)でしたが 日置氏の没落後には衰退・廃絶し 社殿の跡さえ不明となったものを江戸初期 熊本藩主細川氏が再興し 現在に至ります

六柱神社(大分市佐賀関)

六柱神社(むはしらじんじゃ)は 早吸咩女神社の社伝には 神武天皇の東遷の時 地主神の二神〈黒砂(いさご)真砂(まさご)〉が神劔〈御神体〉を献じ 天皇みずから建国の請願を立てたと云う 創建の地゛古宮゛と伝わります 早吸咩女神社が遷座(701年)後も 里人が祠を建てて祀ってきました

早吸日女神社(大分市佐賀関)

早吸日女神社(はやすひめじんしゃ)は 社伝には 神武天皇の東遷の時 地主神の二神〈黒砂(いさご)真砂(まさご)〉が神劔〈御神体〉を献じ 天皇みずから建国の請願を立てたと云う 創建の地は 西方1.8kmの古宮〈当社と同じ祭神を祀る 現在の六柱神社の場所〉と伝わり その後 現在地へと遷座 式内社 早吸日女神社(はやすひめの かみのやしろ)の論社です

阿曽隈社(香春町採銅所)〈阿曽隈遺跡〉

阿曽隈社(あそくましゃ)は 香春岳(かわらだけ)の三つの峯(第一岳・第二岳・第三岳)の山頂に奉祀した゛香春の三神゛〈辛国息長大姫大目神・忍骨神・豊比咩神〉内の三ノ岳の東麓 阿曽隈に豊比咩神を祀った旧跡とされ 和銅二年(709)には この地に古宮八幡宮の元宮が祀られ 一ノ岳の南麓には゛新宮〈香春神社〉゛が創建されました これらの旧跡とされています

古宮八幡宮(香春町採銅所)

古宮八幡宮(こみやはちまんぐう)は 和銅二年(709)創祀 旧鎮座地は香春三ノ岳の麓 阿曽隈という所から慶長四年(1599)現在地に遷座 養老四年(720)宇佐八幡宮の託宣で神鏡〈三ノ岳の銅を掘り鋳造〉を宇佐八幡宮放生会に奉納した この縁で貞観元年(859)応神天皇 神功皇后を勧請して八幡宮を号する 式内社 豊前國 田川郡 豊比咩神社(とよひめの かみのやしろ)の古宮です

香春神社(香春町香春)

香春神社(かわらじんじゃ)は 元々は香春岳(かわらだけ)の三つの峯(第一峰・第二峰・第三峰)の山頂に〈・辛国息長大姫大目神・忍骨神・豊比咩神〉の三神を奉祀したのが創始 三座は三つの山頂から遷座されて 和銅2年(709)゛新宮゛と称し『延喜式神名帳〈927年〉』所載の豊前國 田川郡の三座〈・辛国息長大姫大目神社・忍骨神社・豊比咩神社〉となり現在に至ります 

御勢大靈石神社(小郡市大保)

御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ)は 伝承では 第14代仲哀天皇が熊襲征伐にあたり前戦を廻られて流矢に当られて崩御されたが 深く秘して仮に御殯葬申上げた行宮跡で 神功皇后が三韓征伐にあたり天皇の御魂代の石を軍船に乗せ戦勝 凱旋の時 この地に甲冑御衣を納め三韓鎭撫神として この石を祀ったものが 御勢大靈石(みせのおほみたまいし)と伝えられます

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