白羽神社(しろわじんじゃ)は 社伝によれば゛旧社地は 御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年(531)11月鎮座 仁明天皇 承和元年(834)3月神様のお諭しにより宮処を廻り相応の処を定め 承和四年(837)2月現地に遷座した゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
白羽神社(Shirowa shrine)
【通称名(Common name)】
お白羽様(おしろわさま)
【鎮座地 (Location) 】
静岡県御前崎市白羽3511
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天津日高日子穂穂手見命(あまつひだかひこほほでみのみこと)
豊玉毘賣命(とよたまひめのみこと)
玉依毘賣命(たまよりひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・交通安全・自動車清祓い・家内安全・商売繁盛・大漁満足・海上安全・初宮・七五三・厄除け等
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
白羽神社 略記
一、鎮座地
静岡県御前崎市白羽三五一番地一、御祭神
天津日高彦穂々出見命(あまつひだかひこほほでみのみこと)〈山幸彦〉
豊玉毘賣命(とよたまひめのみこと)〈海神の女神〉
玉依毘賣命(たまよりひめのみこと)〈農耕守護神〉一、例祭日
四月十日(四月十日に近い日曜日)一、由緒
旧社地は、御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年十一月鎮座。
仁明天皇 承和元年三月神様のお諭しにより宮処を廻り相応の処を定め、承和四年二月現地に遷座した。武門武将の崇敬篤く、源頼朝以来白羽地区全域が神領であり、市内佐倉地区に貫高二十九貫二百文の土地を有した。(之に要する用水池を今日も白羽池と称している。)
永禄年間、今川義元まで武将代々の朱黒印の寄進もあったが、元亀年間、武田信玄がこの地に出兵乱入の際、所伝の古文書類はもとより社殿等兵火に罹り、全て焼失したが、御神体のみ島田市中川根白羽山に疎開、戦乱平定後、武田氏は神威を畏れ社殿を再建し、元亀三年十月十四日御神体を還幸した。また、神主 滝玄蕃幸嗣は前々より神領所有の事情を武田氏(武田勝頼)へ上申し、天正二年七月九日付を以って神領を寄進せられた。
武田氏滅亡後は徳川氏の崇敬を受けて、慶長八年九月十九日付、朱印高一〇五石と改める寄進があり当地方最高位となった。このことについて近年白羽柑子との関係が脚光を浴びている。
太古より白羽大明神と称せられ、延喜式榛原郡五座の内白羽村鎮座の白羽大明神を以って服織田神社なりと考証されている。(『神名帳考証、巡礼旧神祠記、遠江国式内社摘考、大日本神祇志、遠江風土記伝、神祇志料、特選神名牒』等に依る)
また、当社附属の神宮寺もあり、神社所蔵の棟札に神宮寺社僧の名前が見え、当時社僧を置かれていたことが知れる。当社は延喜式に云う白羽官牧に発生した牧場(馬)の守護神として古来より馬持ちの参詣する者が多いために、祭典を白羽馬祭と称し、遠近より参詣の馬は何れも装飾の美を競い、境内は馬と人で埋まったと云う。近代、農業が機械化され、馬の姿すら見られなくなったが、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣であり、自動車交通安全にと信仰が変わっている。
遠江しるはの磯と贄の浦と あいてしあらば 言もかよはむ
万葉集遠江歌 丈部川相当社前方が海辺で、万葉歌人の詠まれたものを見ても、古来より名高い所であった。
明治六年三月 郷社
明治四十四年八月十一日 神饌幣帛料供進社に指定
昭和五年二月十一日 県社に昇格
昭和二十一年十一月三十日 宗教法人令による神社を設立
昭和二十九年四月二十六日 宗教法人法による神社を設立登記した神社配布紙より
【由 緒 (History)】
神社名 白羽神社(しろわじんじゃ)
通称 お白羽様(おしろわさま)
御祭神
1.天津日高日子穂々手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)
2.豊玉毘賣命(とよたまひめのみこと)
3.玉依毘賣命(たまよりひめのみこと)御神徳
1.山幸彦として知られる神様 (海上安全・大漁満足)
2.山幸彦の妻で、海神の娘
3.豊玉毘賣命の妹御由緒
仁明天皇承和四年(838)二月元宮である岬の駒形神社より遷る。延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ、旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる。残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。式内服織田(はとりだ)神社とも云われ、旧縣社として古くより信仰が厚い社である。また当社は、往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため。旧社地は、御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年11月鎮座。
仁明天皇承和元年3月神様のお諭しにより宮処を廻り、青龍・白虎・朱雀・玄武の魔除の四神相諮り相応の処を定め、承和四年2月現地に遷座した。武門武将の崇敬篤く、源頼朝以来白羽地区全域が神領であり、市内佐倉地区に貫高二十九貫二百文の土地を有した。(之に要する用水池を今日も白羽池と称している。)
永禄年間、今川義元まで武将代々の朱黒印の寄進もあったが、元亀年間、武田信玄がこの地に出兵乱入の際、所伝の古文書類はもとより社殿等兵火に罹り、全て焼失したが、御神体のみ島田市中川根白羽山に疎開、戦乱平定後、武田氏は神威を畏れ社殿を再建し、元亀三年10月14日御神体を還幸した。
また、神主 滝玄蕃幸嗣は前々より神領所有の事情を武田氏(武田勝頼)へ上申し、天正二年7月9日付を以って神領を寄進せられた。
武田氏滅亡後は徳川氏の崇敬を受けて、慶長八年9月19日付、朱印高一〇五石と改める寄進があり当地方最高位となった。太古より白羽大明神と称せられ、延喜式榛原郡五座の内白羽村鎮座の白羽大明神を以って服織田神社なりと考証されている。(『神名帳考証、巡礼旧神祠記、遠江国式内社摘考、大日本神祇志、遠江風土記伝、神祇志料、特選神名牒』等に依る)
また、当社附属の神宮寺もあり、神社所蔵の棟札に神宮寺社僧の名前が見え、当時社僧を置かれていたことが知れる。当社は延喜式に云う白羽官牧に発生した牧場(馬)の守護神として古来より馬持ちの参詣する者が多いために、祭典を白羽馬祭と称し、遠近より参詣の馬は何れも装飾の美を競い、境内は馬と人で埋まったと云う。近代、農業が機械化され、馬の姿すら見られなくなったが、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣であり、自動車交通安全にと信仰が変わっている。
遠江しるはの磯と贄の浦と
あいてしあらば
言もかよはむ万葉集遠江歌 丈部川相
当社前方が海辺で、万葉歌人の詠まれたものを見ても、古来より名高い所であった。
明治6年3月 郷社
明治44年8月11日 神饌幣帛料供進社に指定
昭和5年2月11日 県社に昇格
昭和21年11月30日 宗教法人令による神社を設立
昭和29年4月26日 宗教法人法による神社を設立登記した御祭典
例祭 4月10日(4月10日に近い休日)午前9時
年間一番大切なお祭り。国の繁栄を祈る祭。神輿の市内白羽地区巡行が行われる。大祓 6月・12月晦日
正月(7月)から6月(12月)までの罪穢が祓われる。茅の輪くぐりが行われる。秋祭り 10月連休初日の土曜日 午前10時
年間一番にぎやかなお祭り。秋の収穫(豊かな日々)を感謝する祭。市内白羽地区6基の山車が昼夜、おはやしとともにねり回される。七五三、成育祈願祭 11月15日(11月中)
これまでの成長に感謝し、今後の健やかな日々が送られるよう神様にお願いする祭。節分祭 2月3日午後3時
節分の神事に続き、歳男歳女による豆まきが行われます。また、各種景品が当たる福餅も蒔かれ、境内は賑わいます。静岡県神社庁HPより
http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4408001
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・稲荷神社《主》倉稲魂命
・白霊神社《主》護国の英霊,地域の物故者
・西の宮八幡神社《主》品陀和気命,息長帯比売命,帯中日子命
・大神宮《主》天照皇大神,豊受比売神
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)遠江国 62座(大2座・小60座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)蓁原郡 5座(大1座・小4座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 服織田神社
[ふ り が な ](はとりたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hatorita no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「服織(はとり)」とは
服織(はとり)とは 機織(はたおり)の変化した語で 機(はた)を織ること および それを生業とする人を指します
又 服部(はとりべ)は 大化の改新以前に機織の技術をもって朝廷に仕えた品部です
機織部(はたおりべ)が転訛したもので のちに「部(べ)」の音がとれ「促音」が入り「はっとり」とも発音されるようになりました
服部(はとりべ)について゛服部天神宮゛の記事を参照してください
・服部天神宮(豊中市服部元町)
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『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載の「服部神社(ハトリノカミノヤシロ)」について
『延喜式神名帳(927 AD.)』には 同名の神社が 3つあります
①大和國(ヤマトノクニ)城下郡(シキノシモノコオリ) 服部神社二座(ハトリノカミノヤシロ フタクラ) 鍬靫
・服部神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
➁加賀國(カガノクニ)江沼郡(エヌマノコオリ) 服部神社(ハトリノカミノヤシロ)
服部神社(山代温泉)の記事をご覧ください
③因幡國(イナバノクニ)法美郡(ハフミノコオリ) 服部神社(ハトリノカミノヤシロ)
服部神社(福部町)の記事をご覧ください
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他に『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載されている 音が同じ「ハトリノカミ」を含む神社としては
・攝津國(セッツノクニ) 嶋上郡(シマカミノコオリ) 神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)
伊勢國多氣郡 服部伊刀麻神社(はとりの いとまの かみのやしろ)
・服部伊刀麻神社 舊地(松阪市出間町)
〈二十五柱神社に合祀された服部伊刀麻神社の旧地〉
・〈二十五柱神社に合祀された服部伊刀麻神社〉二十五柱神社(松阪市柿木原町)
伊勢國多氣郡 服部麻刀方神社二座(はとりのまとまの かみのやしろ ふたくら)
・須麻漏賣神社舊地 麻刀方神社舊地(松阪市垣内田町)
〈二十五柱神社に合祀された松方社(麻刀方神社)の舊地〉
・〈二十五柱神社に合祀された松方社(麻刀方神社)〉二十五柱神社(松阪市柿木原町)
・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)
『延喜式神名帳(927 AD.)』所載社の内゛服織神(はとりのかみ)゛を祀る三ヶ所の神社について
①延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社 三社について
『延喜式神名帳』奄芸郡「服織神社」の論社は 付近一帯が 古代には 服部(はとり)郷であったので 諸説が生れたと云われる
・服織神社(鈴鹿市御薗町)
・服織神社(河芸町久知野)
・酒井神社(鈴鹿市郡山町)
〈酒井神社に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり〉
※江戸時代の諸書には 郡山村 酒井神社境内の服織神社を称えるものが多かった
②延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)
・服織神社(浜松市東区豊町)
③延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)
・服織田神社(牧之原市静波)
・白羽神社(御前崎市白羽)
・駒形神社(御前崎市御前崎)
〈白羽神社(御前崎市白羽)の旧鎮座地〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR浜松駅からR150号を東へ御前崎を目指します
10月9日18:00過ぎ 辺りは真っ暗の中 参拝でした
白羽神社(御前崎市白羽)に参着
社号標には゛縣社 白羽神社゛と刻字
一礼をして鳥居をくぐります
手水舎と社殿には 明かりが灯っています
清めて参道を進みます
参道の途中には 狛犬
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
暗くて本殿には近づけませんので 説明書きを
白羽神社本殿
御前崎市指定有形文化財(建造物)
白羽神社本殿
昭和四十四年六月二十五日指定
白羽神社は、社伝によると平安時代の承和四年(837)二月に現在の社地に鎮座したと伝えられる。
本殿は間口三間、奥行二間の入母屋流造で、様式上から江戸中期から後期前半あたりの時代的傾向が認められる。屋根は柿葺で、地垂木と飛えん垂木の二軒で、いずれも繁垂木で構成されている。流れ屋根は四本の向拝柱(方形)で受け、柱をつなぐ頭貫は三梁の化粧虹梁を使用している。頭貫の中備は蟇股となっており、構造上の役は無く、表裏の彫刻が異なった特殊な装飾であり珍しい。木鼻は象形の丸彫の掛鼻で飾られている。
母屋〔本殿〕は台輪建てであり、台輪上に大斗をのせ出三斗で丸桁をささえる構造で、母屋柱は縁上の切目長押・その上に重なる戸口下の半長押・戸口上の冠木長押をもって柱を内外から挟み、横揺れを止める耐震的な構造をなしており、これは平安時代の意匠でたいへん珍しい造りになっている。母屋柱は方形より格の高い丸柱であり、いずれも亀甲形の彩色が施されたことが見て取れる。
柱間装置は、板唐戸一板扉の上下に端喰を入れ、扉の合わせ部の定規縁の面取りも大きく、古来の意匠を継承したものである。板壁は横嵌めであり、板壁に連花と欄間部分には花鳥の彩描が施され、神仏習合の思想が如実に表れている歴史的に見て大変貴重なものである。
御前崎市教育委員会
拝殿前の案内板より
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 服織田神社について 式社考には 海邊ニアル白羽村白羽大明神〈現 白羽神社(御前崎市白羽)〉としているが
鈴鹿連胤が考えるには かつての服織田村〈現 服織田神社(牧之原市静波)〉にあるのではないか?と疑問投げかけています
【抜粋意訳】
服織田神社
服織田は 波止利太と訓べし
〇祭神 猿田彦神、天鈿女命、風土記〇惣國風土記四十八残缺云、遠江國 蓁原郡 服織田神社、景行天皇□□所祭猿田彦與 天鈿女命也、圭田三十三束、
式社考云、海邊ニアル白羽村白羽大明神也、参考同卜云、
連胤、按るに、惣國風土記 此神社の前に、服織田村云々とあり、この村名絶たるか尋ぬべし、白羽は万葉廿に、等倍多保美志留波乃伊宗とある所にて、古今共に白羽といへば、服織田とは別ならん、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 服織田神社について 所在は 白羽村の海邊にあり 白羽大明神〈現 白羽神社(御前崎市白羽)〉と記しています
【抜粋意訳】
服織田(ハトリタノ)神社
今 白羽村の海邊にあり、白羽大明神と云、蓋是也、
凡祭三月十一月中午日 之を行ふ、遠州一統志、遠江風土記傳、巡拝舊祠記、式社摘考、
蓋 長白羽神を祀る、子後拾遺
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 服織田神社について 遠江風土記傳 式社考 共に 白羽村白羽大明神〈現 白羽神社(御前崎市白羽)〉としているが
注進状に柏原村(植松村・柏原村・川崎町村・柏原町・勝十新田が合併して静波町)〈現 服織田神社(牧之原市静波)〉とあり 尚良く考えるべきと記しています
【抜粋意訳】
服織田(ハトリタノ)神社
祭神
祭日
社格所在
今按 遠江風土記傳 式社考 共に白羽村白羽大明神なりと云る 白羽は古語拾遺に令 長白羽神(ヲサシラハノカミ)種 麻ヲ以爲ニ青和幣(アヲニギテ)ヲ云々とある 注文に今俗 衣服ヲ謂フ之 白羽(シラハト)とみえて 此の服織田神社によしありて聞ゆるを
注進状に柏原村と定めたるは波取山の名に據たるにや 詳かならず猶考ふべし
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
服織田神社(牧之原市静波)について 白羽神社と共に 式内社 服織田神社の論社であると記しています
【抜粋意訳】
郷社 服織田(ハトリダノ)神社
祭神 麻立比古(アサダチヒコノ)命 天八千々比賣(アメノチチヒメノ)命
合祭 忍穂耳命(八王子神社) 市杵島姫命(辮天神社)
木花開耶姫命(勝間田神社)速玉男命(熊野神社)
猿田彦神(猪鼻神社) 蛭児命(西宮神社)
石長比賣命(白岩淺間神社)大山祇命(山神社)
猿田彦命(十二所神社) 少彦名命(藏王神社)創立年代詳ならず、但社傳は、景行天皇七年の勧請とすと雖も、偽書総國風土記に証拠せるものなるが故に信ずるに足らず、明治六年三月郷社に列せられ、明治七年五月近郷の八社を合祀す。
社殿は本殿、拝殿、其他社務所等を具備し、境内は570坪(官有地第一種)あり、明治四十三年御料林一反十三渉を境内に編入許可せらる。
明治維新 神社取調の際、本縣より上申せる注進状には、当社を以て式内社服織田神社なりとせるが、其理由は特選神名牒に、「波取山の名に據たるにや」と見え、明細帳には「地名も往古は服織田村と称せしが、年月詳ならず、柏原町と改めしと」と見えたり、兎に角 白羽神社と共に、後考を俟だざるべからず。境内社 稲荷神社 津島神社
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
白羽神社(御前崎市白羽)について 服織田神社(牧之原市静波)と共に 式内社 服織田神社の論社であると記しています
【抜粋意訳】
〇靜岡縣 遠江國 榛原郡白羽村字砂原
郷社 白羽(シラハノ)神社
祭神
天津日高日子穂々出見(アマツヒダカヒコホホテミノ)尊
豊玉毘賣(トヨタマヒメノ)命
玉依毘賣(タマヨリヒメノ)命創立年代詳ならず、但し、明細帳には「仁明天皇 承和元年三月勧請の由、舊記に見えたるが、元亀年間 武田晴信 当国乱入の際、傅を失ひし」と記せり、当時 古書旧記は素より、社殿悉く兵災に羅り、御神體のみ僅に免かるるを得、本郡上長尾村に奉遷せり、乱平らぎだる後、武田氏社殿を再建し、朱印若干を附せりと、徳川時代は社領百五石を有せしこと、諸社御朱印写に見えたり、
「白羽大明神社領、遠江国榛原郷白羽村之内百五石事、任慶長八年九月十九日、元和三年二月二十八日、寛永十三年十一月九日、先判之旨、永不可有相違者也、仍如件、寛文五年七月十一日」
古来此の地の産土神にして、明治の初年郷社に列せられたり。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、楼屋、籠屋等を具へ、境内は2216坪(官有地第一種)あり、当社は伴氏神名帳考証に「今曰 白羽神、此守在相良立御崎、去横須賀五里、俗云、此神来自新羅国」と見え、古来式の服織田神社と言ひ傳へ、
遠江國風土記傳には「白羽村白羽大明神、称式内服織田神社」と見え、
遠江国式内社摘考に、「服織田神社、是は海邊にある白羽村の白羽大明神なりといへども、未詳、」と見え、
特選神名牒には「今按、遠江国風土記伝、式社考共に、白羽村白羽大明神なりと云へる白羽は、古語拾遺に、令長白羽神種麻以為青和幣云々とある注文に、今俗衣服謂之白羽とみえて、此服織田神社によしありて聞ゆるを、注進状は柏原村と定めたるは、波取山の名に拠りたるにや詳かならず、猶考ふべし」と見えたるが、
神祇志料は、「今白羽村の海邊にあり、白羽大明神と云ふ」と断定せり、然れども、当社を以て式社なりとするには、如上の事項のみにては、徽証十分なりといふべからず、猶後考を侯つ。境内神社 熊野神社 小駄方神社 高根神社 日月神社
【原文参照】
白羽神社(御前崎市白羽)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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