島穴神社(しまあなじんじゃ)は 第12代 景行天皇の御代 日本武尊が東征の時 走水の海で暴風に遭われ 弟橘姫命が大和国の風鎮神 龍田の神を拝み 海中に身を投じ暴風が止んだ 無事に上陸ができた尊は 妃のご祈誓に従い ここに風鎮の神 志那都比古尊を祀られたと云う『延喜式』嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)です

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目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
島穴神社(Shimaana shrine)
【通称名(Common name)】
・島穴様(しまあなさま)
【鎮座地 (Location) 】
千葉県市原市島野1129・1130番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》志那都比古尊(しなつひこのみこと)
《配》日本武尊(やまとたけるのみこと)
倭比賣尊(やまとひめのみこと)

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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
当宮は、「延喜式」所載の上総国五社の内の一社であり、古くからこの地方の格式ある名社として崇められてまいりました。
今からおよそ1800年あまり前の景行天皇の40年(西暦114)、日本武尊命が東征のみぎり、相模国走水より上総国へ航行中、にわかに暴風に見遭われ、あやうく船が覆りそうになった時、同乗されていた妃君の弟橘姫命が大和国の風鎮めの神・龍田大社を遥かに拝み、安全に上総国まで航行させてくれるならば、必ずその地に風鎮めの神を祭り報恩感謝の誠を尽くしますと祈りながら海中に身を投ぜられました。
するとたちまち暴風は止み、ぶじ上総国へ着くことができたので 日本武尊命は、弟橘姫命のご遺志の通り この地に志那都比古尊を祭る当宮をご創祀されたのであります。
のち景行天皇が当地へ行幸の折(127年)日本武尊命、倭比売尊を合祀されました。
また陽成天皇8年(884)には朝廷より正五位上勲五等の神階を授けられ、下って明治12年(1879)、千葉県の県社に列格されたのであります。現地に掲げられている案内板より

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【由 緒 (History)】
島穴神社 (シマアナジンジャ)
《旧社格》 県社 [ 市原 支部 | 本務神社 ]
■ 御祭神
志那都比古尊
日本武尊
倭比賣尊■ 御由緒
神階正五位上勲五等。当宮は「延喜式神名帳」所載の上総五社の内の一社。
景行天皇40年(114)日本武尊が東征の折、相模国走水より上総国へ航行中、にわかに暴風に遭われ、危うく船が覆りそうになった時、同乗されていた妃君の弟橘姫命が大和国の風鎮神龍田の神を遥かに拝み、海中に身を投ぜられると暴風は止み、一行は無事当地へ着くことができた。尊は妃のご祈誓に従いこの地に風鎮の神志那都比古尊を創祀された。
のち景行天皇が当地へ行幸(127)の折 日本武尊、倭比賣尊を合祀された。また陽成天皇8年(884)には朝廷より正五位上の神階を授けられ、明治12年(1879)に県社に列格、今日に至る。監修 千葉県神社庁「神社のひろば」より抜粋
https://hiroba.jinja.ne.jp/ycDB/Board.cgi/001/db/ycDB-pc-jinja_detail.html?mode:search=1&search:method=1&search:field=jinja_id&search:expr=^$&search:word=2052
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・島穴神社 社殿

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島穴神社 社殿改築記念碑
島穴神社は「延喜式」所載の上総五社の内の一社で、景行天皇の四十年(約一八〇〇年前)日本武尊(やまとたけるのみこと)が風鎮めの神 志那都比古尊(しなつひこのみこと)を奉祀、のち同天皇が当地に行幸の折、日本武尊・倭比売尊(やまとひめのみこと)を合祀されたのが初めである。
社殿は今から約五百年前の戦国時代に一度焼失し、現本殿は約二百年前の天明年間に再建、旧拝殿は約百四十年前の嘉永年間に再建され、明治二十五年茅葺屋根から銅板に葺替えられた。
近年老朽化甚しく氏子から改築の議起こり改築委員会を結成、氏子崇敬者からの浄財約六千万円をもって本年一月着工、工程終始順調に進み十一月半ば本殿改築、幣殿・拝殿新築、境内整備を終え十一月十八日夜御神霊を本殿に遷し、本日雲一つない好天のもと氏子総出で盛大な奉祝祭を挙行、事業の完成を祝った。
今後とも末永く鎮まりまして当地域の平安と発展に輝かしい貢献をなされるように祈ります。
平成元年十一月二十六日 島穴神社社殿改築委員会
現地石碑文より

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・〈拝殿前〉狛犬

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・〈向かって右〉狛犬・奥に〈境内社〉疱瘡神社

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・〈向かって左〉狛犬・奥に〈境内社〉祓神

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・〈境内社〉八雲神社《主》須佐男之命

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・〈境内社〉〈覆屋の中に3つの石祠〉子安神社 愛宕神社 淡島神社

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・〈境内社〉天神社《主》菅原道眞公

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・〈境内社〉大六天神社《主》面足尊・惶根尊

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・〈境内社〉浅間神社《主》木花開耶姫命
〈大正4年 ・古川神社(字古川:月夜見命)・十七夜神社(字海保:月夜見命)を八雲神社に合祀〉
・〈境内社〉厳島神社
〈・日宮神社(字北土手向:天照大御神)・諏訪神社(字下諏訪:事代主命、建御名方命)を厳島神社に合祀〉
・その他 石祠・石碑多し〈・道祖神社《主》八衢彦命,《配》八衢姫命,久那斗命〉
・社務所

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・鳥居・手水舎

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・社頭・宮之橋(大正八年建設)

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・島穴神社の旧鎮座地〈島穴社原地碑〉
天長3年(826)島穴神社が 現在地に遷座するまでの旧鎮座地
・島穴社 旧鎮座地(市原市島野)
・島穴神社と同じ創建の由緒を持つ 延喜式内社 姉埼神社(市原市姉崎)
日本武尊が東征の折 走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭い 妃の弟橘姫の犠牲によって上総に上陸することができた
日本武尊は 弟橘姫をしのび 風の神を祀ったのが創建と云う
延喜式内社 上緫国 海上郡 姉埼神社(あねさきの かみのやしろ)
・姉埼神社(市原市姉崎)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
嶋穴ノ神と記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷卅一 元慶元年(八七七)五月十七日丁巳
○十七日丁巳
授に
上総國
從四位上勳五等 玉埼ノ神に正四位上
從五位上勳五等 姉前ノ神 嶋穴ノ神 飯富ノ神 橘樹ノ神に 並に正五位下
從五位下 神氏神に從五位上を
【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上総國 5座(大1座・小4座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)海上郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 嶋穴神社
[ふ り が な ](しまあなの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shimaana no kaminoyashiro)
【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
『延喜式』巻第二十八 兵部 隼人 に記される伝承
【抜粋意訳】
諸国驛傳馬
東海道 上總國驛馬
大前 藤猪 島穴 天羽 各五疋
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『延喜式』 URI : https://www.digital.archives.go.jp/img/4354341より

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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
日本武尊と弟橘比賣命の゛走水(はしりみず)゛の伝承に ゆかりの式内社について
房総半島には 日本武尊と弟橘比賣命の伝承が 数多く残っていますが ゆかりある式内社もありますので ご紹介します
・姉埼神社(市原市姉崎)と島穴神社(市原市島野)は 同じ創建の由緒を持ちます
姉埼神社と島穴神社の共通の創建由緒について
日本武尊が東征の折 走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭い 走水の海が荒れたのは龍神の怒りであると悟った妃の弟橘姫は 大和国 龍田大社の風鎮めの神に 船の安全航行を祈願し 成就した時には この地に神社を建立することを約束し 海原に身を投じた この犠牲によって 日本武尊は 無事に上総に上陸することができたと『記紀神話』に述べられています
この弟橘姫を慈しみ 日本武尊は 弟橘姫をしのび 風の神を祀ったのが 姉埼神社と島穴神社の創建と伝わります
姉埼神社と島穴神社の御祭神について
かつては 神輿が 両社を行き来していたと云われてています この関係の深い両社の御祭神は
島穴神社の祭神は 志那津比古尊(しなつひこのみこと)
姉崎神社の祭神は 支那斗辨命(しなとべのみこと)
両神は 夫婦神(姉弟神とも)とされています
姉埼神社には 夫婦神としての伝承があります
この事にまつわる伝承の一つとして 姉埼神社(市原市姉崎)の境内には 松(マツ)が一本も植えられていません
これは祭神 志那斗弁命が 夫神である島穴神社(市原市島野)の祭神 志那都彦命に大変待たされ「待(マツ)つ身はつらい」と言ったと伝わり この゛待(マツ)゛の音が通じている゛松(マツ)゛を避けたためと云われます
姉埼神社(市原市姉崎)の氏子は 正月に門松を立てず 竹と榊を用いた飾りを立てる風習があり 又 かつては 松(マツ)を薪(まき)としなかった これらは皆 神の忌給うによると伝わっています
姉埼神社と島穴神社は 両社ともに 上緫国 海上郡の延喜式内社です
延喜式内社 上緫国 海上郡 姉埼神社(あねさきの かみのやしろ)
・姉埼神社(市原市姉崎)
延喜式内社 上緫国 海上郡 嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)
・島穴神社の旧鎮座地〈島穴社原地碑〉
島穴神社が 現在地に遷座する天長3年(826)までの旧鎮座地
・島穴神社(市原市島野)
延喜式内社 下緫国 千葉郡 蘇賀比咩神社(そかひめの かみのやしろ)
荒れた走水の海に弟橘姫と共に入水した゛5人の姫達を祀る 式内社 蘇我比咩神社゛について
日本武尊が東征の折 走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭い 走水の海が荒れたのは龍神の怒りであると悟った妃の弟橘姫は 大和国 龍田大社の風鎮めの神に 船の安全航行を祈願し 成就した時には この地に神社を建立することを約束し 同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じました
身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる比咩がおり この方がこの地(現在の千葉市中央区蘇我)の海岸に打ち上げられました 里人等の手厚い看護で蘇生することが出来 無事に都に帰りました
この里人等の行為に深く感激した第十五代応神天皇は 特別の命により蘇我一族をこの周辺の国造として派遣し政治をおこなわせました 蘇我一族は 代々「春日神社」「比咩神社」を守護神として 両神社の御分霊をいただき「蘇賀比咩神社」を建立したと伝わります
・蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)
延喜式内社 上総國 長柄郡 橘神社(たちはなの かみのやしろ)
弟橘比賣命の櫛が 流れ着き 弟橘媛のの櫛を納めて御陵が作られた橘樹神社(茂原市本納)
橘樹神社(茂原市本納)の社伝では 日本武尊が弟橘媛の御陵を作り 弟橘媛の櫛を納めて 橘の木を植えて祀ったことを創始と伝えます
・橘樹神社(茂原市本納)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR内房線を下るように南南西へ約4.6km 車で11分程度
内房線が前川を渡る辺り 正面の左側に見えているのが鎮守の杜です

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島穴神社(市原市島野)に参着
社頭の宮之橋を渡ります

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社号標があり 鳥居に一礼をして 参道を進みます
すぐ右手には手水舎があります

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灯籠の立つ参道の正面には 南を向いて拝殿が建てられています

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かつて 境内には゛古木いちょう゛があったようです
● 御神木・いちょうの由来
名あるもの 古木いちょう。島穴神社の社内にあり、その木は朽ちて皮のみ存したが、分れて一本宛の木となれり…
天保年間(一八三〇~)「房総三州漫録」に記されている。● 向かって右の碑
表 勅願所 嶋穴神社 延喜式内上総国海上郡嶋穴神社 今属市原郡
裏 寛政元巳酉祀林鐘吉旦
(寛政元年巳酉の年六月の吉き日に祀る—-の意)
*この碑は右の年に一の鳥居側に建てられたが、そのご損傷のため現在地に移された。現在一の鳥居際の「勅願所碑」は弘化四年に再建されたものである。● 中央の碑
四方の海に仰げばさぞな
もみじにも花にも
風はさはらざりけり
弘化四年(一八四七)千種有功卿(公家・歌人)献詠、明治十三年建立● 向かって左の碑
太敷くも建てて護れる島穴の
ふた柱こそ世々に動かね
嘉永元年(一八四八)堀川康親卿(公家・歌人)献詠、明治年間建立現地案内板より

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拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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鳥居の先には 石橋の宮之橋があり その先には前川に架かる朱色の島穴神橋が見えています

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社頭には゛急ぐとも 止まって拝む 宮の前゛の立札があり
神社の前では 一礼をする心得を伝えています

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 島穴神社について 所在は゛島野村に在す、今 市原郡に属す、゛〈現 島穴神社(市原市島野)〉と記しています
【抜粋意訳】
島穴神社
島穴は志萬奈と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕島穴、〔印本鳴穴に誤る〕
〇祭神級長津彦命、〔地名記〕
〇島野村に在す、今市原郡に属す、〔同上〕例祭月日、
○式廿八、〔兵部〕上総國驛馬、島穴五疋、
神位
三代實録、元慶元年五月十七日丁巳、授に上総國 從五位上 島穴神 正五位下、
【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 島穴神社について 所在は゛今 市原郡島野村にあり、島野明神と云ふ゛〈現 島穴神社(市原市島野)〉と記しています
【抜粋意訳】
島穴(シマナノ)神社
今 市原郡島野村にあり、島野明神と云ふ〔房総志料、巡拝祠舊記、神名帳考土代、〕
陽成天皇 元慶元年五月丁巳、従五位上勲五等 島穴神に正六位下を授く、〔三代実録〕
【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 島穴神社について 所在は゛島野村〔字島穴 〇今属 市原郡〕(市原郡東海村大字島野)゛〈現 島穴神社(市原市島野)〉と記しています
【抜粋意訳】
島穴神社
祭神 級長津彦命
今按 社記 日本武尊 蝦実を征にいでます時 海中暴風忽ち起りて 御船漂蕩しかば 日本武尊 此神を祭らせ玉ふ由を記せり 之に由て考るに 此時 暴風のことによりて風神を祭られしなるべし 姑附て考に備ふ
神位
陽成天皇 元慶元年五月十七日丁已 授上總國從五位上勳五等 烏穴神 正五位下祭日 六月初午日
社格 村社(縣社)(明細帳 縣社とあり)所在 島野村〔字島穴 〇今属 市原郡〕(市原郡東海村大字島野)
【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
島穴神社(市原市島野)について 縣社として記されています
【抜粋意訳】
〇千葉縣 上總國 市原郡東海村大字島野
縣社 島穴(シマナノ)神社
祭神 志那都比古(シナツヒコノ)命
相殿 日本武(ヤマトタケルノ)尊 倭比賣(ヤマトヒメノ)尊創建は景行天皇四十年十一月なりと云ふ、
特選神名牒に曰く、
「今按、社記、日本武尊蝦夷ヲ征討ニイデマス時、海中暴風忽チ起リテ、御船漂蕩シシカバ、日本武尊、此神ヲ祭ラセ玉フ由ヲ説ケリ、之ニ由テ考ルニ此時暴風ノコトニヨリテ、風神ヲ祭ラレシナルベシ、姑附テ考ニ備フ、」と、
次いて 同五十三年、天皇東幸の時、日本武尊 倭比売尊を相殿に奉祀す、
淳和天皇 天長三年六月、從五位上動六等を授けられ、〔〇社伝〕
三代實録に陽成天皇 元慶元年、正五位下に進み給ふ由見え、此の年七月祈雨の奉幣あり、〔〇社伝〕
延喜の制、式内の小社に列せらる、實に当國五座の一に坐ます、
朱雀天皇 天慶三年三月、勅して平將門降伏の祈願を修す、
安徳天皇 治承四年八月、源頼朝 神領三十六石を寄せられしが、正親町天皇 天正中、北條氏の兵火に罹り、社殿を始め神寶 社記 及 寄附状 等悉く 灰燼に帰す、爲めに神田を失ふ、後ち 徳川家康 関東を領するに及び、当社の由緒を徴す、司祝所縁を知らす、訛て春日明神なる旨を答申す、故に長く神田を寄せられずと雖も、
仁孝天皇 文政六年松平定信 當社を厚く崇敬し自筆の編額を納め奉らる、蓋し定信初て富津海防を修むるに際し、祈る所ありしに因るなり、其の扁額 今尚存せり、爾後 毎歳幣帛を奉らる、
神殿は後水尾天皇 元和七年再建せられ、次いて仁孝天皇 天保十三年以來、領主 神殿修復料として廩米若干を寄進せり、
古來 當村及白塚村の鎭守にして、明治四年十一月郷社に列す、次いて十二年十月更に縣杜に昇格す。社殿は本殿、幣殿、拝殿等あり、境内は二千四百二十坪、(官有地第一種)たり、社側に一根の老松ありと、上総國誌に曰く、
「社傍有に古松一株、松下有穴、將嵐則雲気起に于穴中、今尚然否、」
と、境地古松老杉、蒼翠天外に聳ゆ、船舶 常に航路の目標とす、四周田圃發浪風に翻り、稻雲日に映す、遙か西方に富十箱根の諸山、海色に連り、白帆点々波間に隠見す、千種有功卿詠あり。
「島穴社によみて奉る 有功
四方のうみに仰はさぞなもみちにもはなにも風はさはらさりけり」当社 寶物としては、假面、古鉾、鏡及松平定信卿の扁額、文政九年の奉納に係る領主 大岡忠愛の扁額(動五等と書す)等あり、因みに記す、姉崎村の姉崎神社は当社と創立同うし、風神の陰神 志那斗弁命を奉祀す。
境内神社
八雲神社 加具土神社 子安神社 淡島神社 水祖神社 厳島神社 道祖神社 疱瘡神社
【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244
島穴神社(市原市島野)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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