倭神社(大津市滋賀里)〈『延喜式神名帳』倭神社〉

倭神社(しどりじんじゃ)は 赤塚古墳の上に鎮座しています 被葬者が倭姫〈第38代 天智天皇の皇后〉だとする伝承があり 御祭神となっています 学術的に推定される築造年代は5世紀前半とのことで 7世紀の天智天皇の時代とは食い違いはあります 延喜式内社 近江國 滋賀郡 倭神社(しとりの/やまとの かみのやしろ)の論社です

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

倭神社(Shidori shrine

通称名(Common name)

赤塚明神(あかつかみょうじん)

【鎮座地 (Location) 

滋賀県大津市滋賀里(しがさと)3-223

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》不詳 (伝 倭姫皇后)〈第38代 天智天皇の皇后〉

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

(しどり)神社の由来

 倭神社は、大津市滋賀里三丁目字天塚に所在し、
京阪電鉄滋賀里駅の北方約五〇〇mの小丘上に位置する。
祭神は天智天皇の皇后である倭姫(やまとひめ)と伝えるが、おそらく この小丘上の本殿の改築の際、朱の痕跡が認められる花崗岩の 板石が五~六枚発見されたことなどから古墳と考えられ、 その被葬者が倭姫だとする伝承によるものであろう。
江戸時代の記録によると、天正十九年(一五九一)及び 宝永七年(一七一〇)に赤塚大明神として再興されたという。

 現在、墳頂には南向きの一間社流造りの簡素な本殿が建ち、本殿へいたる参道の石段付近の東側にクスノキ、 西側にケヤキの巨木がみられ、それらは昭和五一年(一九七六)十二月一日付けで大津市保護樹木に指定されている。

 また、この古墳は「赤塚古墳」と命名され、地籍図等の復原による東向きの前方後円墳か、もしくは近年の測量調査による直径三〇~四〇m、高さ二・五~四・〇mを測子円墳と思われ、築造年代は古墳時代中期の五世紀前半頃と推定されている。

 この神社は、通称「赤塚の明神さん」の名で滋賀里地区全域の住民に親しまれており、御例大祭は九月二十三日で、宵宮祭には江州音頭による踊りが平成年まで催されていましたが、現在は行われていません。

〈年中行事〉
一月 一日 午前十一時 歳旦祭
二月十一日 午前十一時 紀元祭
七月十六日 午後 三時 神湯祭
九月二十三日  午前十時 火焚祭

平成十一年三月吉日

境内案内板より

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【由  (History)】

倭(シドリ)神社

御祭神 不詳 (伝 倭姫皇后)

御神紋 左三ツ巴

御由緒

 中世の争乱により、社殿、文書類焼失して由緒不明なるも、慶長七年の検地帳に差渡し十二間四尺、百坪除地とある。天正十九年及び宝永七年に赤塚大明神として再興されている。鎮座地を古来赤塚と称するのは、赤塚古墳があるからであり、天智天皇の皇后倭姫がこの地に葬られたと伝えられている。

本殿・境内建物
〔本殿〕一間社流造 間口三尺 奥行二尺五寸 覆屋あり

〔その他〕
境内社(摂社・末社)樹下神社

祭礼日 9月 23日

滋賀県神社庁HPより
https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=50

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

倭神社 本殿覆い屋

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・手水鉢?

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・鳥居

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本殿へ参道石段

東側にクスノキ 西側にケヤキの巨木昭和五一年(一九七六)十二月一日付けで大津市保護樹木に指定

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・神社は赤塚古墳の上に祀られています

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)滋賀郡 8座(大3座・小5座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 倭神社
[ふ り が な ]しとり/やまとの かみのやしろ
[Old Shrine name]Shitori no/Yamato no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 近江國 滋賀郡 倭神社(しとりの/やまとの かみのやしろ)の論社について

社名の「倭」の文字の読みは 倭神社(大津市坂本)は「やまと」なのに対して 倭神社(大津市滋賀里)は「しどり」と読みま

・倭神社(大津市坂本)

・倭神社(大津市滋賀里)

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

京阪石山坂本線 滋賀里駅から北方向へ約500m 徒歩7分程度

江戸時代には赤塚大明神と呼ばれていたことから 赤塚古墳と呼ばれる古墳の上に祀られています

赤塚古墳被葬者が倭姫〈第38代 天智天皇の皇后〉だとする伝承があり 御祭神となっています
学術的には 推定される築造年代は5世紀前半とのことで 7世紀の天智天皇の時代とは食い違いはあります

倭神社(大津市滋賀里)に参着

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鳥居の扁額には゛倭神社゛とあります

一礼をして鳥居をくぐると 本殿へ参道石段があり 東側にクスノキ〈樹齢は推定約400年〉 西側にケヤキの巨木があり それらは昭和五一年(一九七六)十二月一日付けで大津市保護樹木に指定されています

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本殿は 覆い屋の中に祀られています 覆い屋の前面が拝殿となっています

拝殿にすすみます

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本殿の向かって左横には 境内社も祀られています

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 倭神社について 祭神・所在について詳らかではない と記しています

説として゛ 上坂本大和庄の鎮守、本社は往古より故ある社なれば、此社の外 大和社と申べき社なしと云り゛〈現 倭神社(大津市坂本)〉を記しています

【抜粋意訳】

倭神社

倭は夜末刀と訓べし、秘釈倭文に作る、(志止利と訓ず)

○祭神在所詳ならず

 天正元年 禰宜祝部行丸記云、日吉社外百八社記、於大和庄拝社地未詳、」
部希烈卿云、志賀郡大和と云地名 他に有事を聞ず、今 上坂本大和庄の鎮守、本社は往古より故ある社なれば、此社の外 大和社と申べき社なしと云り、
にも倭神社は大國御魂神といひて、大和大和社を引り、連胤按に、倭大國魂神を祭る所他にあらず、且秘に倭文とありて、倭文神は國々に祭る所多し、然れぱ倭文神社の文の字の脱たるに非ずやと思へど、其徴外に見ねば、何れとも定めがたし、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 倭神社について 所在は゛大和庄阪本村字森下にあり、本社と云ふ、゛〈現 倭神社(大津市坂本)〉と記しています

【抜粋意訳】

(シトリノ)神社

〔〇按 本書に、倭をしとりと訓たるに據らは、倭の下攻文字を脱せるに似たり、然れど山家要畧記、滋賀郡倭庄を常住明王に入の時は、は地名にして、倭文にあらざる事著し、姑附て考に備ふ〕

 大和庄阪本村字森下にあり、本社と云ふ、神社覈録、滋賀縣注進状〕

【原文参照】

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『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 倭神社について 所在は゛阪本村〔字森本〕(滋賀郡坂本村大字坂本)゛〈現 倭神社(大津市坂本)〉と記しています

参考として別説゛赤塚村大明神を倭神社云説あれど 更になし゛〈現 倭神社(大津市滋賀里)〉を挙げています

【抜粋意訳】

(シトリノ/ヤマトノ神社 稱 森本社

 社  日本武と云るは 倭字に附会したること著く  倭文神 建葉槌神るは 秘釋に倭文に作るを以て云出たるなれば 共に従がたし 猶よく学べし

祭日 八月十五日
社格 (無格社)
所在 阪本村〔字森本〕(滋賀郡坂本村大字坂本)

 按 赤塚村大明神を倭神社云説あれど 更になし こは 淀藩より式 倭神社と定むべき由を命したよりの誤なれば今とら
 阪木村にもさしてなけれど森本社と云ひて 日吉摂社なるが神社覈録に正元年 禰宜祝部行丸 日吉社 外百八社記於大和庄 拜地未」祝烈郷云 志賀郡大和と云地名に有事を 今上坂本大和庄の 本社は往古より故ある社なれば 此社の外 大和社と申べき社なしとみえ 注進状にも此方據ありと云る正ければに従

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

倭神社(大津市滋賀里) (hai)」(90度のお辞儀)

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近江国 式内社 155座(大13座・小142座)について に戻る

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