関神社(せきじんじゃ)は 江戸時代には 熊野三所大権現と呼ばれていました 明治42年(1909)地域の各字の神社を合祀して 關神社と改号しました その時 古厩に鎮座していた二つの式内社①大井神社の論社・大井神社(亀山市関町古厩)②片山神社の論社・八王子祠 (亀山市関町古厩)も一緒に合祀されました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
關神社(Seki shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県亀山市関町木崎 675
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照大御神(あまてらすおほみかみ)
味内宿禰(うましうちのすくね)〈武内宿禰の弟〉
《配》伊邪那美命、天太玉命、天手力男命、大山祇神、火之迦具土命、菅原道真、木花佐久夜比賣命、倭比賣命、生井神、石凝姥命、金山比古命、応神天皇、天兒屋根命、月夜見命、天津彦根命、活津比古根命、熊野久須毘命、多紀理比賣命、栄井神、市寸嶋比賣命、大己貴命、建速須佐之男命、白山比賣命、武内宿禰、保食神、大山咋命、宇迦之御魂命、天宇受賣命、天忍穂耳命、天穂日命、多岐津比賣命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
関神社について
鎮座地 三重県鈴鹿郡関町大字木崎六七五
神 紋 五七の桐
御祭神
天照大御神・伊邪那美命・天太玉命・天手力男命・大山祇神・火之迦具土命・菅原道真・木花佐久夜比売命・倭比売命・生井神・石凝姥命・味内宿彌・金山比古命・應神天皇・天兒屋根命・月夜見命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・多紀理比売命・栄井神・市寸嶋比売命・大己貴命・宇迦之御魂命・天宇受売命・天忍穂耳命・天穂日命・多岐津比売命祭 祀 例祭 7月16日
建造物 本殿(神明造)・拝殿・社務所・手水鉢・倉庫
氏 子 坂下・加太・白木一色・鷲山・萩原・福徳を除く関町全域由緒・沿革
明治五年頃。この神社は熊野皇大神社と呼ばれていた。
昔関氏の祖、実忠が紀伊国熊野坐神社の分霊を勧請したものと伝えられ、境内の梛(ナギ)の木は、それに縁があるものと思われる。
江戸時代には、熊野三所大権現と呼ばれた。元和七年(一六二一)修造、その後寛永十四年(一六三七)更に元和四年(一六三九)にも大修理が行われた。
又、明治時代まで新所にも、笛吹大神社があり、江戸期、笛吹大明神と呼ばれ、もと鈴鹿山麓の総社として加行山に鎮座されていたが、文明十一年(一四七九)各郷が分離して新所村のみの氏神となった。
その他古厩に大井神社、久我に白石神社、宇佐八幡宮等周辺に小祠が多数あったが、明治四十二年七月二十三日に合祀され、同年九月関神社と改称された。昭和二十七年十二月一日「宗教法人」関神社となった。
夏祭り 毎年七月二十日すぎの土・日曜日に、神輿渡御・山車曳きが行われる。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
関の大庄家原久太夫家文書によれば 加行山に笛吹大神社があり 鈴鹿山麓七郷の総社であったが、文明一一年(一四七九)各郷に分祀したとある。
新所村は、従来の氏神であった笛吹明神を奉斎してきたが、その場所が鈴鹿川をへだてて参拝に不便な位置にあったため、新たに地蔵院の東郊に地所を得て社殿を新築して改めて奉祀した。ここを明神という。
明治四一年に小祠を悉くここに合祀して 関神社となった。
旧社地から明神の森へ御神霊を奉遷したことから、神輿の渡御を神事として今に伝えており、新所 加行山から下界をのぞみ、豊年を祝って声高らかに唄った歌は、現在も白丁姿の若衆によって歌い継がれている。『高い山から谷底みればノー 瓜やなすびの花盛りノー アレハ ドンドンドン コレハ ドンドンドン』三重県神社庁・皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会HPより
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63887
スポンサーリンク
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・拝殿
・二の鳥居・境内
・社頭・一の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
關神社(亀山市関町木崎)は 二つの式内社〈①大井神社二座②片山神社〉の論社を合祀しています
①伊勢國鈴鹿郡 大井神社二座
〈明治42年(1909)関神社に合祀された大井神社(亀山市関町古厩)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大井神社 二座
[ふ り が な ](をほゐの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Wohoi no kaminoyashiro Futakura)
②伊勢國鈴鹿郡 片山神社
〈明治42年(1909)関神社に合祀された八王子祠 (亀山市関町古厩)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 片山神社
[ふ り が な ](かたやまの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Wohoi no kaminoyashiro Futakura)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『関町郷土誌』昭和13年(1938)に記される゛関神社゛の合祀内容
【抜粋意訳】
神社佛閣 関神社
関町大字中町東部北側(木崎地区)に鎮座まします。明治四十年より同四十一年に亘り 左記各字 神社を合祀し 四十二年八月十五・六日の両日 合祀大祭を執行した。而して毎年の例祭日は七月十五・六日両日と定まったのである。
社殿の改築 従来の社殿も歳月を経るに従ひ 其の腐朽甚だしく且つは狭隘なりしたため 国民精神作興上より見ても遺憾の点多かりしため 茲に改築の議起こり、五千三百円の建築費を投じて荘厳なる社殿を造営することとなり 昭和七年工事に着手した。漸く竣工せしを以て 昭和八年五月十日午後八時より遷座祭が執行せられたのである。現在の社殿はそれである。合祀以前の神社は左の様である。
木崎に鎮座 熊野神社 祭神 熊野権現出羽権現・天満大神
古厩に鎮座 片山神社 祭神 五男三女神
新所に鎮座 笛吹神社 祭神 天太玉命
古厩に鎮座 大井神社 祭神 罔象女命・埴安姫命
久我に鎮座 白石神社 祭神 平資盛
【原文参照】
伊勢國 鈴鹿郡 大井神社二座(をほゐの かみのやしろ ふたくら)の論社
・関神社(亀山市関町)に合祀
・大井神社古社地(亀山市関町)
〈明治42年(1909)関神社に合祀された大井神社(亀山市関町古厩)〉
・大井神社(鈴鹿市山辺町)
・江神社(亀山市下庄町)
伊勢國 鈴鹿郡 片山神社(かたやまの かみのやしろ)の論社
・片山神社(亀山市関町)
〈放火により本殿瓦解(2002年)〉
・関神社(亀山市関町)
〈明治42年(1909)関神社に合祀された八王子祠 (亀山市関町古厩)〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR関西本線 関駅から北へ約600m 徒歩10分程度
関町には 旧東海道の街並みがあります
関神社(亀山市関町)に参着
一礼をしてから 一の鳥居・二の鳥居をくぐり抜けて境内に進みます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿の奥には 玉垣に囲まれて本殿が坐します
社殿に一礼をして 境内を戻ります
スポンサーリンク
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 大井神社二座について 所在は゛山辺村に在す、清水あり゛〈現 大井神社(鈴鹿市山辺町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大井神社二座
大井は於保為と訓べし
○祭神 稻羽八上姫神、御井神、〔考証〕
○山辺村に在す、清水あり〔考証〕今河曲郡に属す、
類社
山城國 乙訓郡 大井神社の條見合すべし
【原文参照】
式内社 片山神社について 所在は゛鈴鹿山に在す、今 鈴鹿御前と称す、゛〈現 片山神社(亀山市関町)〉と記しています
【抜粋意訳】
片山神社
片山は加多夜萬と訓べし
○祭神四座、瀬織津姫命、倭姫命、氣吹戸主命、速佐須良姫命
、一説 大比古命、〔社傳〕〇鈴鹿山に在す、今 鈴鹿御前と称す、〔俚諺〕
○弘仁元年 勅使記云、鈴鹿姫坐ニ路頭之北邊、
類社
尾張國 春日井郡、同国 山田郡 片山神社、各一座
近江國 淺井郡 片山神社二座、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 大井神社二座について 所在は゛下之庄村 産神 東西二社あり゛〈現 江神社(亀山市下庄町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大井(オホヰノ)神社二座
今 下之庄村 産神 東西二社あり 即是也、〔式内社検録、本村検地帳、おおい谷の名あり、〕
【原文参照】
式内社 片山神社について 所在は゛今 古厩村にあり、八王子と云う゛〈現 明治42年(1909)関神社に合祀された八王子祠 (亀山市関町古厩)〉と記しています
【抜粋意訳】
片山(カタヤマノ)神社
今 古厩村にあり、八王子と云う、〔本村検地帳、式内社検録、 〇按 社南 小山二嶽ありて、片山と唱へ、社火橿の田畠道も片山と字する 田畝あるもの証とすべし〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 大井神社二座について 所在は゛大井神社二座と稱するもの 則此 東西両社なるか゛〈現 江神社(亀山市下庄町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大井神社二座
祭神
祭日
社格所在
今按るに 傍注に山邊村と註せるより 考證以下の諸書 これに從ふは妄なり 山邊は河曲郡にして 隷属差へり 其社も新地にして 千古の舊社に非す 又 再考には下庄村 井手明神に配す 併 其社地 山傍少にして 形狀舊祠とは見えす 又 按内記以後の諸書は 勢陽雑記に據て 古厩村に在とす 其社地も亦 狭隘容體 舊社にはあるへからす 傍注雑記等 大井の井を泉井の義として 山邊御井神馬洗井等に牽合するは從ふへからす
再考には堰埭の意とせるは是なり 下庄村は田茂川の北涯にあり 延寶七年檢地帳におおい谷一中七畝貮述拾八步と記し 都合四反九畝二步の地の字とす 村の産神は東西に二社地あり 西を江神社に配すれと明證なし 両社地 舊とは一聯の地勢にて中間を宮カ谷と唱ふ 鬱樹として千歳の舊社地たる事 瞭然たり 南を去て 山傍に井出明神の祠もあれは 大井神社二座と稱するもの 則此 東西両社なるか オオイ谷は大堰谷の謬借なるへけれは 愚據なきにしもあらす
【原文参照】
式内社 片山神社について 所在は゛古厩村字片山(鈴鹿郡關町大字古厩 現在同郡同町大字木崎村社 關神社に合併)゛〈現 明治42年(1909)関神社に合祀された八王子祠 (亀山市関町古厩)〉と記しています
所在の考証を記していて ゛鈴鹿山ノ鈴鹿姫ハ坐ニ路頭之北邊ニ也゛〈現 片山神社(亀山市関町)〉は 當今の東海道は 弘治年問の新墾であり 今の鈴鹿権現ではないと記しています
【抜粋意訳】
片山神社
祭神
祭日
社格 村社所在 古厩村字片山
(鈴鹿郡關町大字古厩 現在同郡同町大字木崎村社 關神社に合併)今按るに傍注に今 鈴鹿姫社此乎とあるは 弘安元年公卿勅使記に鈴鹿山ノ鈴鹿姫ハ坐ニ路頭之北邊ニ也と注せる鈴鹿姫を 今の坂の下なる鈴鹿権現に混して註するなるへし 弘安頃の鈴鹿山路は 近江國 山女(アケビ)原より 伊勢國安樂村に越え到れるなれは 鈴鹿姫は其 路傍の北に在たるにて 今の鈴鹿権現にはあらす 當今の東海道は 弘治年問の新墾なれは 鈴鹿の坂路も其時の盤通ならむ さる新開の路頭に在る祠を延喜の式社に牽合するは 從難きを考證以下 是に雷同して 鈴鹿権現を本社に配せり 獨再考に 筆捨山の麓なる熊野祠に填たれと同し新街道の社なれは 振古のものに非る事決せり
是を以て探索するに古厩村の南の小山を占山と稱し 其麓にある産神社の兆域を田としたる地は 悉く片山と字する事 六段八畝二十二步載て 當村の検地帳にあり されは其 八王子と俗稱する産神 本社片山神の遺存井なる事 瞭然たり 社域今は偏小になりぬれと 古色あり以て 是に判定すへし
【原文参照】