小内八幡神社(おうちはちまんじんじゃ)は 貞観年間(859~877)の草創といわれ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社とされます 永禄4年(1561)社殿が 戦火にかかり烏有に帰し 寛文5年(1665)飯山藩主松平忠倶により再建されました 明治6年4月には郷社に列しました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
小内八幡神社(Ouchihachiman Shrine)
(おうちはちまんじんじゃ)
[通称名(Common name)]
八幡さん(はちまんさん)
【鎮座地 (Location) 】
長野県中野市安源寺572−1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》応神天皇(Ojin tenno)
大気都姫神(Ogetsuhime no kami)
神功皇后(Jingu Kogo)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)
由緒
第五六代 清和天皇、貞観年間(八五九~八七七)の草創といわれ、近隣八カ村の総鎮守でありました。「延喜式神名帳」記載の高井郡六社の内、「小内神社」は当社であることは、神祇志料・神社覈録・大日本史(神祇志)・信濃地名考・大日本地名辭書等の記載からもあきらかであります。
庄(小)内八幡神社は、高梨氏が支配領を北に伸ばしたことに伴い片山社家も、くぬぎ原荘 (小布施町)から移って参りました。「神社明細帳」によれば、川中島の合戦の最中、永禄四年(一五六一)社殿が戦火にかかり、烏有に帰しました。合戦後に高梨氏から社領の寄進を受けましたが、その後の領地替えで庇護を受けることが出来なくなりました。寛文五年(一六六五)飯山藩主松平忠倶は、小内八幡神社を再建し、馬市の開催も許可をしました。九月の例祭を挟んで二週間開催された馬市は日市も併せて開かれ、木曾の漆器類も見られました。県外からも多く集まり、時の田中角栄首相も馬子として参った記録も残ります。
本殿は、桁行319センチ 梁間210セ ンチ 向拝418センチの三間社流造で、江 戸時代前期の建築である。母屋は円柱で、縁 長押・内法長押・頭貫・台輪をつけている。 正面3間に黒漆塗の両開きの板唐戸を取り付 け、両側と背面の二方は板壁とし、白く塗彩 した上に、猿・兎・菊・菖蒲の絵を描いてい るが剥落がはげしい。 組物は出三ツ斗で中 備には本蟇股があって松・桃・蓮の彫刻があ る。軒は二軒繁垂木である。向拝柱は角柱の 面取りで、頭貫を通し、組物は出三ツ斗で中 備には本蟇股をおき彫刻は牡丹と唐獅子であ る。屋根は板葺きで、棟の両側に鬼板をつけ ている。 創立年代は不詳であるが延喜式内 社に比定され、 本殿の立地する丘は由緒が あって旧石器時代以降の一人複合遺跡である。 飯山藩主松平忠倶が寛文5年(1665)に造営 した。
上述の如くすぐれた建築様式をもつ本殿は、 領主や庶民の尊崇をあつめ参道は長く、境内 は広く、しかも社叢はうっそうと茂るなかに 鎮座している。戦前の社格は郷社であった。
小内八幡神社公式HPより https://www.ouchihachiman.com/blank
【由 緒 (History)】
社家片山文書
指定市有形文化財/1978年3月23日
所在地中野市大字安源寺
所有者個人市の有形文化財に指定された文書は、巻物一巻と神道裁許状一通です。巻物一巻の中には、天正10年(1582)から天正17年(1589)までの高井郡庄内八幡宮神主に宛てた高梨頼近の宛行状、判物・安堵状が一通ずつ含まれています。
上杉景勝の北信侵攻に従って中野に復帰した高梨頼親は、天正10年(1582)年8月に安源寺(中野市)などに2,000貫文を与えられ、これをうけて頼親は庄内八幡宮(現小内八幡神社)へ社領10貫文を寄進し、翌年3月、厄除・祈祷札の領内配布を許しています。そして、天正17年(1589)10月には旧来通り社領100貫文を寄進しました。
片山家の伝承によると、先祖は安源寺に来る前には六川(小布施町)で神主を務め、中野地域に復帰した高梨氏が安源寺へ呼び寄せたと伝えられています。庄内八幡宮は延喜式内社であったと伝えることから、当時から相当の規模を持った神社であったと推定され、文書に使用されている「如前々」「前々」「如先規」という文言は、頼親の寄進や許可が前例に従った処置であるものと考えられます。慶長8年(1603)6月の神道裁許状は、片山家所蔵の神道裁許状の中で最も古いものです。
上杉景勝に仕えていた高梨頼親は、2,665石余を知行する大身の家臣でしたが、越後侍として把握されており、かつてに比べると在地(中野市)とのつながりは弱められていました。慶長2年(1597)には、景勝から勘気をこうむって、本庄顕長ら大身の家臣が一斉に改易される事件があり、頼親もこの時に改易されています。
社家片山家文書と片山家の伝承は、一次資料が乏しい戦国時代末期の中野地域のようすを知るうえで貴重なものであるといえるでしょう。中野市役所公式HP 文化財係より
https://www.city.nakano.nagano.jp/docs/2014021200125/
中野市指定有形文化財 小内八幡神社本殿
本殿は、桁行(けたゆき)319センチ 梁間(はりま)210セ ンチ 向拝(こうはい)418センチの三間社流造で、江戸時代前期の建築である。母屋は円柱で、縁長押(ふちなげし)・内法(うちのり)長押・頭貫(かしらぬき)・台輪をつけている。 正面3間に黒漆(うるし)塗の両開きの板唐戸を取り付け、両側と背面の二方は板壁とし、白く塗彩した上に、猿・兎・菊・菖蒲(しょうぶ)の絵を描いているが剥落(はくらん)がはげしい。 組物は出三ツ斗で中 備(なかぞなえ)には本蟇股(かえるまた)があって松・桃・蓮の彫刻がある。軒は二軒繁垂木(しげたるき)である。向拝柱は角柱の面取りで、頭貫を通し、組物は出三ツ斗で中備には本蟇股をおき彫刻は牡丹と唐獅子である。屋根は板葺きで、棟の両側に鬼板をつけている。 創立年代は不詳であるが延喜式内社に比定され、 本殿の立地する丘は由緒が あって旧石器時代以降の一人複合遺跡である。 飯山藩主松平忠倶が寛文5年(1665)に造営した。
上述の如くすぐれた建築様式をもつ本殿は、 領主や庶民の尊崇をあつめ参道は長く、境内は広く、しかも社叢はうっそうと茂るなかに鎮座している。戦前の社格は郷社(ごうしゃ)であった。
平成4年度設置中野市教育委員会境内案内板より
中野市指定無形民俗文化財 昭和四七年一二月二五日指定
小内八幡神社青獅子 おうちはちまんじんじゃ あおじし
小内八幡神社で九月一四日の夜、秋祭りの宵宮(よいみや)に舞う青獅子は、長野県内でも特色のある珍しい獅子舞です。
獅子神楽の中の青獅子は、神事的なものから興行的な要素の多い内容に変遷し、獅子頭は、板を二枚合わせた形で色が青いことから青獅子と呼ばれています。
獅子神楽の順序は、少女による浦安の舞(うらやすのまい)、豊栄の舞(とよさかのまい)に始まり、ヨタン舞、オンベ舞、鈴神楽、刀の舞へと続きます。子供たちの舞が終わると不気味な青い顔をした板獅子が登場します。二人立ちを親獅子、一人立ちを子獅子と呼び、手、口、尾に煙硝筒を持ち乱舞したり、曲芸、軽業といえるような舞をします。
由来は、江戸時代の寛文五年(一六六五)の社殿の再興のおり、江戸神楽を舞ったもの。定期的に演じられていた旅芸人から教わったもの。伊勢の御師(おし)系の芸能者から教わったものなどがありますが、定かではありません。 青獅子の獅子頭は板獅子系の他ではみられないもので、民俗芸能の原始的なものの一つです。また曲芸的な要素 についても歴史的な変遷過程の一部として貴重なものです。平成15年10月設置 中野市教育委員会
境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
本殿の左右に鎮座 天満社には鳥居あり
・天満社《主》菅原道真
・諏訪社《主》健御名方命
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)信濃国 48座(大7座・小41座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)高井郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 小内神社
[ふ り が な ](をうちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wouchi no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の
「信濃國 高井郡 小内神社」の 3つ論社について
・小内神社(長野市若穂綿内)
・小内八幡神社(中野市安源寺)
・欅原神社(小布施町六川)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
信州中野駅から 県道29号を西へ約3.5km 車10分程度
西南に向いて境内はあり その境内前には 木立の中を200m程の長い参道が伸びています 途中には 屋根付きの瑞橋などもあって趣があります
参道の終わり辺りに 注連縄の掛かるケヤキの神木があって 根元が空洞になっていて 子供ならば中に入れそうです
参道の終わりと随神門の間には車道が横切っています
社頭には社号標が立ち「延喜式内 小内八幡神社」と刻まれています
小内八幡神社(Ouchihachiman Shrine)に参着
階段を上がり 隋神門の前で一礼をしてから 門をくぐります
隋神門を振り返ると 瓦屋根で中々に味のある造りです
拝殿にすすみます
石畳みの参道が真っ直ぐ その先に拝殿が建ち 左側には 天満社の鳥居が建ちます 拝殿にすすみます
拝殿内の扁額には「小内八幡宮」と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿の左右に鎮座する境内社にもお詣りをして 参道を戻ります
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)(931年 - 938年)のからの引用を記しています
【意訳】
小内(ヲウチノ)神社
和抄 小内 乎宇奈
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
『和名類聚抄』の郷名の引用 祭神はわからないと記しています
【意訳】
小内神社
小内は 乎宇知と訓ずべし
和名鈔 郷名部 小内 乎宇奈
〇祭神 詳らかならず
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』2
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
式内社 小内神社の所在は 安源寺村〈現 小内八幡神社(中野市安源寺)〉と記しています
【意訳】
小内神社 (明細帳に小内八幡社 郷社とあり)
祭神 大宜都比賣命(オオゲツヒメノミコト)
今按〈今考えるに〉
本社由緒書に 当地 近隣諸村は笠原御牧を始め牧場多きを以って 牧馬蕃育農桑祐護の為に この神を斎き祭る由 云い伝えるとみえたり
古事記 須佐之男命の大宜都比賣神を殺し玉へる條に故 云々日本書記 月読命の保食神(ウケモチノカミ)を殺し玉へる條に云々
謂(イワレ)によりて 古へ貢馬の為に祭られしものなること著し
この大宜都比賣神は 保食神と同神にやあらん祭日 6月21日 7月27日
社格 郷社
所在 安源寺村 字長畝通石原(下高井郡高丘村大字安源子)
今按〈今考えるに〉
本社由緒上申に 安源寺村 旧名 小内村と唱え近郷地形悉く平地にて四方遥かに山を隔て その南方 古昔の小内郷にて 一里許の間は全く畝形なるを以って乎宇奈と称し 小内の字を借りたるなり
北は千曲川 南は篠井川を境とし 畝の南 両辺村々8ヶ村は一円小内郷にて 當村は その郷の元村なるか 今も畝伝に通行する道を長畝通りと云い 200年前の大道なり 然るに葛尾城主 村上氏 代々 當村 安源寺帰依寺なりしより 村民多く 寺百姓となり 小内の名相廃し 六川郷と称しも
寛延3年 吉田家にて 綿内村の神社へ小内神社号を許可したる時 当社神官より本所に出したる願書に慶長年中より 御裁許状頂戴 小内神社に相違なき由を記し 又 式社考 按に当社 小内神社なる事は 近隣の村々に於いても異説なしとあるもの証とすべし 故に 今之に従う
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』2
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承 1
綿内村の小内神社については 号名は小内神社とついているが 式内社としては 越智神社である
寛延年間の式内社定め時(1624~1644)論争を醸し 幸高村が旧社号 越智神社の許可を得たりと聞き驚き 小内神社の称号は未定であったためにそれを願い出て寛永3年(1624)現小内神社称号を拝載した下りが記されています
【意訳】
長野縣 信濃國 上高井郡 綿内村大字森
郷社 小内(ヲウチノ)神社
祭神 可美摩遅命(うましまじのみこと)健御名方命(たけみなかたのみこと)埴安命(はにやすのみこと)
創立の年代を詳らかにせず
口碑に云う 聖武天皇 天平9年 越智泰澄の勧請する所なり 今 綿内村の産土神たり 元綿内村宮王に鎮座せしを 永正元年2月 今の地に奉遷せり 而して 本社は宇妙徳山の山中にありて 可美摩遅命の像を安置せりと云う 元 越智神社と称せり 蓋延喜式神名帳の社たるべし
神社覈録に「越智神社 越智は 仮字なり 〇祭神 越智直(オチノアタイ)祖(オヤ) 歟(ヤ) 〇姓氏録 左京神別上 越智直 石上朝臣同祖 神饒速日命(カムニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)」神祇志料には「越智神社」旧趾 今 綿内村越智山に在り云々 光仁天皇 天慶元年10月巳亥 信濃地一戸を以って神封に充しむ 新妙格勅符とあるものならんか」
然るに寛延3年10月 吉田家より 同郡 幸高村の神社にその号を授けしより 本社は更に小内神社の称を許可せらるるに至れり(式内社に小内神社あれどそれとこれは自ら別なり)
明治6年4月郷社に列す
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』2
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承 2
【意訳】
長野縣 信濃國 下高井郡 高丘村大字 安源寺字石原
郷社 小内(セウナイ)八幡神社
祭神 応神(オウジン)天皇
大氣津姫(オホケツヒメノ)命
神功皇后(ジングウコウゴウ)創立の年月を詳らかにせず
清和天皇 貞観年間の草創なりと
現今 丸塚と称するは その旧跡なりと云う 然るに何時の代なりけん 武門の帰依に由りて 小内郷長畝の地に奉遷し 小内神社と称し 8ヶ村の総鎮守となねに至れり
今 高丘村の産土神たり 延喜式高井郡小内神社とあるは是なりとぞ
神祇志料「小内(ヲウチノ)神社 今 安源寺村にあり 小内八幡と云う 古の小内郷の地なり 堀河天皇 康和5年6月 御卜に小内神の神事を穢せる御祟あるを以って社司に中祓を科す即ちこれなり」神社覈録「小内神社 小内は 乎宇知と訓ずべし 和名鈔 郷名部 小内 乎宇奈 今按に小を乎宇と訓字は韻なり 奈はナイのイを略けるものなり 今 安源寺に小内(セウナイ)社あり 中野の西一里ほど」
大日本史神祇志「小内神社 〇今在 安源寺村石原の地 旧小内郷なり」
信濃地名考「小内(ヲウチノ)郷 その地未詳 或いは小内(ヲウチ)など訓点を加えたるものあり 誤りなり 更科 小内(ヲウチ)の條にていうごとく その地勢 山の畝(ウネ)のながれたる所なるべし 内(チ)は 昔の仮字なり 小畝の義と見えたり 或いは今の東江部西江部の辺にやともいへり」と 大日本地名辞書云「延喜式 高井郡 小内神社は今 中野西一里 安源寺(アンゲンジ)(今 高岡村と改める)に在りて 小内(セウナイ)八幡宮と云う 古言は訓読したるならん云々」
以上 諸書挙げる所に依りて 本社の所在 及び その呼称等知らるべきか社殿は 慶安年間 小舘の城主 高梨摂津守 再興ありしに 永禄4年9月 甲越の兵火に罹りて鳥有に帰し 以来久しく再建を見ざりしが 10代の神主 片山次郎左衛門晴久に至り 僅かに小祠を造営して 同7年7月家清より 社領若干の寄附を得たり 越えて天正年間頼親 家清頼親 共に出所を詳らかにせず思うに松平遠江守忠親の祖先ならんか 暫く社殿を再建し 更に百貫文の地を寄せたり
慶長8年 片山右之進 吉田家に具状して 式内 小内神社の称号を請ひしが 事停滞 更に小内八幡宮を得て 僅かに郷名をも存するを得るに至れり 尋て同家より 寛延年間 上高井郡 綿内村の社に小内神社の称号を許可せしより 綿内村争論に及び 後 屡(しばしば)同家に訴える所ありしも 遂にその裁決を見るに至らず 依りて原称に従うと云う
寛文5年 飯山の城主 松平遠江守忠親 資を寄せてこれを再興す 後 天保5年 中野支配所の代官 闢佳六源忠怒 応神門並びに鎮座門を造立す
明治6年4月郷社に列す
境内 老杉古松森々枝を交え 社殿その間に巌在し 静粛の風趣自ら端然たらしむものあり
社殿は本殿 拝殿 祝詞殿 随神門 瑞橋 鳥居等を具備し 境内地1070坪あり境内神社 天満(テンマンノ)社
例祭日 9月15日
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』3 『明治神社誌料』4
小内八幡神社(Ouchihachiman Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)