忍坂坐生根神社(おっさかにいますいくねじんじゃ)は 忍坂山(外鎌山)を神体山として遥拝する古い祭祀様式で 本殿を持ちません 天平二年(730)正倉院文書『大倭國正税帳(やまとのくにしょうぜいちょう)』の記録には「生根神」として載る古社で 式内社 大和國 城上郡 忍坂坐生根神社(大月次新嘗)(をしさかにゐます いくねの かみのやしろ)に比定されています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
忍坂坐生根神社(Ossakaniimasuikune shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
奈良県桜井市忍阪487
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》少彦名命(すくなひこなのみこと)
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・医薬の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
第二十六代 継体天皇(けいたいてんのう)在位:西暦507年〈継体天皇元年2月4日〉~531年〈継体天皇25年2月7日〉が 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に即位〈526年〉される以前におられた処 意柴沙加宮(おしさかのみや)」の地ともされ
天平二年(七三〇年)の正倉院文書『大倭國正税帳(やまとのくにしょうぜいちょう)』に「生根神」として記される古社です
【由 緒 (History)】
忍坂坐生根神社(おっさかにいますいくねじんじゃ)
祭神
一、少彦名命(すくなひこなのみこと)
一、天津彦根命(あまつひこねのみこと)境内社
一、神女神社(しんにょじんじゃ)大宮女(おおみやめのみこと)を祀る
一、愛宕神社(あたごじんじゃ)火産霊神(ほむすびのかみ)を祀る
一、天満神社(てんまじんじゃ)菅原道真(すがわらのみちざね)公を祀る当社は天平二年(七三〇年)の「大倭国正税帳(やまとのくにしょうぜいちょう)」に、また延長五年(九二七年)の「延喜式内社(えんぎしきないしゃ)」にも名前がみえる古社で、本殿を持たず宮山(みややま)をご神体とし拝殿の北側に神が鎮座する「石神(いしがみ)」と称する自然石十数個を並べた「磐座(いわくら)」があります。
ここ忍阪の地は隅田八幡宮(すみだはちまんぐう)所蔵の国宝 人物画像鏡(じんぶつがぞうきょう)に刻まれた「意柴沙加宮(おしさかのみや)」の地ともされ、第二十六代 継体天皇(けいたいてんのう)が磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に即位される以前におられた処とされています。
また忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)や衣通姫(そとおりひめ)が居られたとも伝わり、「大和志料」では額田部(ぬかたべ)氏の祖 天津彦根命(あまつひこねのみこと)を祀るとも記され、平安時代の医書「大同類聚方(だいどうるいじょうほう)」に当社相伝の「以久禰薬(いくねくすり)」(額田部連の上奏)のあることを伝えています。その薬の製法は昭和の初期まで伝わり、また額田部氏(ぬかたべし)が居住したとするこの地で額田王(ぬかたのおおきみ)と鏡女王(かがみのひのみこ)姉妹との繋がりや息長足日広額天皇(おきながたらし ひびろぬかの すめらみこと)(第三十四代 舒明天皇 じょめいてんのう)の陵墓があることから息長氏の大和での拠点の一つであったとされています。
拝殿への石段の左右には境内社の「神女神社(しんにょじんじゃ)」と「愛宕神社(あたごじんじゃ)」を、北側には「天満神社(てんまじんじゃ)」を祀ります。
石燈籠二十四基の最古のものは拝殿下左右の延宝(えんぽう)二年(一六七四年)、正面登り口の石橋は正徳(しょうとく)五年(一七一五年)の刻銘があります。また年代不詳の陰陽石(いんようせき)が一基あり、静かに村の安全と繁栄を見守っています。境内には万葉集巻一三ノ三三三一(作者不詳 洋画家・有島生馬(ありしまいくま)氏の揮毫)による万葉歌碑があります。
「こもりくの泊瀬(はくせ)の山 青幡(あおはた)の忍坂(おしさか)の山は走出(はしりて)の よろしき山の 出(い)で立ちのくわしき山ぞ あたらしき山の荒(あ)れまく惜しも」平成二十三年九月 桜井市忍阪区
現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・神女神社(しんにょじんじゃ)《主》大宮女(おおみやめのみこと)
・愛宕神社(あたごじんじゃ)《主》火産霊神(ほむすびのかみ)
〈石垣の前に立ち並ぶ石灯籠 その石垣の上に左右に鎮座 その奥は瑞垣〉
・天満神社(てんまじんじゃ)《主》菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
〈石垣の向かって一番左手〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
畿七道諸神 総267社と共に大和國の神々として 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申 京畿七道諸神、進階及新叙。惣二百六十七社。奉授
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品
・・・
・・・
・・・大和國
從一位 大己貴神 正一位
正二位 葛木御歳神。從二位勳八等 高鴨阿治須岐宅比古尼神。從二位 高市御縣鴨八重事代主神。從二位勳二 大神大物主神。從二位勳三等 大和大國魂神。正三 位勳六等石上神。正三位 高鴨神 並從一位
正三位勳二等 葛木一言主神。高天彦神。葛木火雷神 並從二位
從三位 廣瀬神。龍田神。從三位勳八等 多坐彌志理都比古神。金峰神 並正三 位
正四位下 丹生川上雨師神 從三位
從五位下 賀夜奈流美神 正四位下
從五位下勳八等 穴師兵主神。片岡神。夜岐布山口神 並正五位上
從五位下 都祁水分神。都祁山口神。石寸山口神。耳成山口神。飛鳥山口神。畝火山口神。長谷山口神。忍坂山口神。宇陀水分神。吉野水分神。吉野山口神。巨勢山口神。葛木水分神。鴨山口神。當麻山口神。大坂山口神。伊古麻山口神 並正五位下
從五位下 和爾赤坂彦神。山邊御縣神。村屋禰富都比賣神。池坐朝霧黄幡比賣神。鏡作天照御魂神。十市御縣神。目原高御魂神。畝尾建土安神。子部神。天香山大麻等野知神。宗我都比古神。甘樫神。稔代神。牟佐坐神。高市御縣神。輕樹村神。天高市神。太玉命神。櫛玉命神。川俣神。波多甕井神。坐日向神。卷向若御魂神。他田天照御魂神。志貴御懸神。忍坂生根神。葛木倭文天羽雷命神。長尾神。石園多久豆玉神。調田一事尼古神。金村神葛木御縣神。火幡神。往馬伊古麻都比古神。平群石床神。矢田久志玉比古神。添御縣神。伊射奈岐神。葛木二上神 並從五位上
无位 水越神 從五位下河内國 從一位勳三等 枚岡天兒屋根命 正一位
・・・
・・・
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大 社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城上郡 35座(大15座・小20座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 忍坂坐生根神社(大月次新嘗)
[ふ り が な ](をしさかにゐます いくねの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Woshisakaniimasu Ikune no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 生根神社と同じ名称を持つ 式内社の類社として
摂津国 住吉郡 生根神社(大月次新嘗)(いくねの かみのやしろ)
・生根神社(大阪市住吉区)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄大阪線 大和朝倉駅から 南下約1.4km 車5分程度
忍坂山(外鎌山)の西麓 忍坂の集落
忍坂街道〈大和の国中(奈良)と宇陀を結ぶ〉沿いに 石垣が積まれている所があり 当社の境内の縁になります
忍坂山(外鎌山)の西麓なので 境内は西を向いています
境内の西面の擁壁は石垣となっていて 境内入口は石段となっていまが 石段は 境内中央と南側の二ヶ所あり 正式な参拝口は 本社社殿の真正面にあたる中央の石段だと思われます 鳥居はありません
中央の石段には 二本の樹木が入り口の両脇に植えられていて その枝に縄が掛けられ そこから杉の枝を添えている注連縄が三本垂れ下がっています 特殊なもので 今まで見たことがありません
もしかすると注連縄柱の原型なのかもしれない などと想いながら 三本の注連縄の前で一礼をして くぐり抜け境内へと進みます
忍坂坐生根神社(桜井市忍阪)に参着
境内は 整地され白砂が敷かれていて 忍坂山(外鎌山)の西麓 山裾に石灯籠が立ち並びます
山裾に石灯籠の後ろに 更に石垣があり 境内社が祀られていて その奥に瑞垣があります
瑞垣へと通じている石段は二つあり 向かって左手は 境内社の天満神社
中央が本社です
この石段の前にも石段の両脇の樹木に注連縄がわたされて紙垂が懸けられています 正しく注連縄の前で 一礼をして石段を上がり 拝殿にすすみます
石段の上には 赤い前掛けを付けた古い親子の狛犬が座しています その奥には鳥居が建ち 拝殿があります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 本殿は無く 神体山として忍坂山(外鎌山)を遥拝する 古い祭祀様式です
自然石が並べられた磐座が石神として祀られている とのことでしたが 縄が張られた中に石が並んでいた処がそうなのか?
磐座に一礼をして 石段を戻ろうとすると 鳥居越しに 西陽が差し込んできました
境内の北側にあった歴史を感じさせる老木は 見つめていたらとても心が安らぎましたが 御神木なのだろか
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『大和名所図会(Yamato Meisho Zue)』〈寛政3年(1791年)刊〉に記される伝承
忍坂坐生根神社(桜井市忍阪)を式内社としています
【抜粋意訳】
恩坂坐生根神社(をしさかにますいくねのじんしゃ)
忍坂村にあり神名帳及び三代實録に出
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 忍坂坐生根神社の所在について 忍坂村〈現 忍坂坐生根神社(桜井市忍阪)〉と記しています
【抜粋意訳】
忍坂坐生根神社 大月次新嘗
忍坂は 於佐加と訓べし、和名鈔、(郷名部)忍坂、(假字上の如し)
日本紀、神武天皇戊午年十月條、作ニ大室於忍坂邑、
○生根は 伊久禰と訓べし
○祭神詳ならず
〇忍坂村に在す、(大和志、同、名所図会)、
類社
撮津國住吉郡生根神(大月次新嘗)神位
三代実録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授 大和國從五位下 忍坂生根神從五位上、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 忍坂坐生根神社の祭神について 生根神 と記しています
【抜粋意訳】
忍坂坐生根(ヲサカニマスイクネノ)神社 大月次新嘗
祭神 生根神
神位 清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申、奉授 大和國從五位下 忍坂生根神從五位上祭日 七月十八日
社格 村社
所在 忍坂村 字宮下(磯城郡城島村大字忍坂)
【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
忍坂坐生根神社(桜井市忍阪)は 式内社 忍坂坐生根神社であるとして
その祭神について 額田部氏が神職家であろうから その祖神として天津彦根命を祀っているだろう 又 神社の薬法は その家で伝授している・妊娠女性の不調に用いる「以久禰薬(イクネクスリ)」・激しい咳で胸や肩が痛む際に用いる「志紀乃加美薬(シキノカミクスリ)」などについて 詳しく記しています
【抜粋意訳】
忍坂坐生根(ヲサカニマスイクネノ)神社
櫻井町大字忍坂にあり、延喜式神名帳に「忍坂坐生根神社 大月次新嘗」と見ゆ、今村社たり。
祭神
忍坂山ノ内字宮山を以て神体となし別に宝殿の設なし、其の故實を詳にせず。今 少彦名命を祭る。何に據るを知らず。案ずるに大同類聚方に当社相傳の生根薬(イクネクスリ)と称するものを載せ、額田部氏の奏上せしものなりと、額田部氏何人なりしや詳ならざれども、同書を通読するに、総て神社の薬法は其の神職 若しくは氏人の奏上に係るもの甚だ多かれば、疑らくは氏は当社の神職なるべし。よし神職たらざるも既に当社の薬法を其の家より奏上するは必ず深き縁故を有するならん。而して額田部氏は天津彦根神より出づ、彦根、生根、其の男子の美称にして義に於いて相異なるなし。然らば則ち古忍坂に額田部氏の住するあり、其の祖 天津彦根命を祭りて生根社と称せしものなるべし。因に云ふ、大同類聚方に「城上郡生根之里」と見ゆ、生根之里何れの據なるを知らず。倘くは当社所在の地を古斯く称せしか、後考を俟つ。神戸
天平二年 大倭国正税帳曰・・・・・雑事
大同類聚方曰 以久禰薬(イクネクスリ)大和國城上郡 忍坂坐生根神社の辺りにして天額田部連の上奏するところの・・・・・・・・
又曰 志紀乃加美薬(シキノカミクスリ)大和國城上郡 忍坂坐生根神社に伝わる古い・・・・・・
【原文参照】
『奈良県史』第5巻 神社〈平成元年発行 奈良県史編集委員会編集〉 に記される伝承
忍坂坐生根神社(桜井市忍阪)について 外鎌山(高円山)を神体山(神奈備)とする神殿のない古代の祭祀形態そのものの神社 と記しています
【抜粋】
忍坂坐生根神社 大月次新嘗
近鉄大阪線朝倉駅の南方約1キロメートルの字宮山の通称 外鎌山(高円山)を神体山(神奈備)とする神殿のない古代の祭祀形態そのものの神社である。
祭神は少彦名命で、『日本書紀』の一書に、大己貴命の国土経営に協力した外、病苦を抜除する医薬の神として信仰され、しかも石として出現される神であることは、『古事記』仲哀天皇の条の歌謡の「常世に坐す 石立たす 少彦御神の 神寿ぎ」や『日本書紀』神功皇后の条に「此の御酒は吾が御酒ならず神酒の司 常世に坐すいわたたす少御神の豊寿き・・・・」とあることからも理解できる。境内の磐座(石神)は普通二一個といわれ平べったい丸石で幅30-50センチ、地上の高さ40-10センチ、花崗岩で、宮座の人々が毎月三回神酒を供え、秋祭りには「キョウの飯」という御供と「ドヘ」の御幣を供えるという(『桜井市史』)。例祭は十月十八日。宮座文書の「忍坂庄神事勤帳」は延徳四年(1492)以降のものが揃っている(同前)。
当社の神宮寺 円福寺の外に摂社として合祀された天満神社の神宮寺として元禄二年(1689)に建立された石位寺薬師堂があった。前者の観音堂に祀られていた本尊の木像の千手観音立像・薬師如来坐像はじめ七軀の仏像は明治の廃仏棄釈で赤尾村興善寺へ、後に石位寺から長野県の清水寺へと転々とした(式内社調査報告書)。
忍坂坐生根神社(桜井市忍阪)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)