大井神社(おおいじんじゃ)は 西に約400mの所に゛山辺の御井(やまべのみい)゛もあり 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 大井神社二座(をほゐの かみのやしろ ふたくら)の論社となっています 明治44年(1911)川神社(鈴鹿市河田町)に合祀〈神社合祀令〉された後 地元の熱意によつて昭和26年(1951)3月に再興されました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大井神社(oi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県鈴鹿市山辺町 232
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)
《配》大雀命(おほさざきのみこと)〈第16代 仁徳天皇〉
天照大神(あまてらすおほかみ)
御井神(みいのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・牛頭天王と習合し「天王さん」の名で親しまれ疫神として崇拝された
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『三国地誌』大正5年(1916)に記される内容
【抜粋意訳】
三国地誌 巻之二十 伊勢國 河曲郡 神祠
大井神社二座
按、山邊村に坐す、俗天王と稱す、大井・御井相通ず、此地五十師御井あり、故に社號とする歟。
【神名帳頭注】大和國字陀郡御井、素戔鳥子也、母稻羽八上姫とあるに據れば此の二神を祭るとみえたり。
右二座、【神祇式】鈴鹿郡に属す、今更て木郡に移載す。
【原文参照】
【由 緒 (History)】
由緒
当社の創祀については詳かにし難いが、『式内社傍注』に始まり、『武内社考証』『徴古録』『三国地志』等では式内社と記録している。
その論拠は、社名の大井を『万葉集』で歌枕として著名な山辺の御井であるとし、その所在を当郡山辺町であると推定することに拠っている。
江戸時代においては、牛頭天王社或いは若宮八幡社と称し、俗に天王と称していたようである。
現在所蔵されている二一枚の棟札によると、江戸・明治・大正・昭和を通じ数多くの社殿造営が行われ、人々の崇敬の篤さを知ることが出来る。
慶応三年(一八六七)神戸藩生木多恵貫は境内裏のつつみ井に「山辺の御井の碑」を建立している。
明治四一年(一九〇八)境内社の若宮八幡社、山神社を合祀し、同四四年三月河田町の川神社に合祀された。しかし地元氏子の総意により昭和二六年(一九五一)分祀され、現在に至っている。
宝物等 練札二二枚(寛永七年《一六三〇》・文政一三年《一八三〇》・ 文政四年《一八二一》・文政三年・貞享五年《一六八八》・文化元年《一八〇四》・明和二年《一七六五》・天保一五年 《一八四四》・寛保元年《一七四一》・享保一三年《一七二八》在銘)、この他明治・大正・昭和在銘のものも存する。神鏡二面 小絵馬数枚 常夜燈二対 狛犬一対特記事項 昭和二七年(一九五二)名古屋大学考古学教室により、裏の崖から八世紀頃の墓地と認められる「山辺の横穴」が発見されている。
三重県神社・皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会HPより
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63798
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿と(本殿の両脇)境内社の祠二宇
※本殿の両脇の祠二宇は 明治41年(1908)境内社の若宮八幡社・山神社を合祀したとされるものか?
・拝殿
・境内社 山神の石碑
・社頭
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・山辺の御井(やまべのみい)
大井神社(鈴鹿市山辺町)から西に約400m
萬葉歌人 山辺赤人の屋敷跡があったと云う旧跡゛山辺の御井゛
※山辺の御井の旧跡は 他にも存在していて 何れも確証はない
・大井神社(鈴鹿市山辺町)の傍〈当地の御井〉
・都祁水分神社(大和国 山辺郡 都祁村)の境内
・物部神社(伊勢国 久居新家町)の境内
・伊勢国 一志郡嬉野など
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大井神社 二座
[ふ り が な ](をほゐの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Wohoi no kaminoyashiro Futakura)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
伊勢國 鈴鹿郡 大井神社二座(をほゐの かみのやしろ ふたくら)の論社
・関神社(亀山市関町)に合祀
・大井神社古社地(亀山市関町)
〈関神社に合祀された大井神社の旧鎮座地〉
・大井神社(鈴鹿市山辺町)
・江神社(亀山市下庄町)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR関西本線 河曲駅から線路に沿って西へ約500m 徒歩7分程度
大井神社(鈴鹿市山辺町)に参着
社号標には゛式内 大井神社゛と刻字があります
鎮座地は 鈴鹿川と浪瀬河との合流地点の手前で かつて川の氾濫などで削り取られた山が残っているような地形です ちょうど岬の先端のような場所の上境内があり その下に鳥居が建ちます
一礼をして鳥居をくぐり 境内への階段を上がります
当日は 激しい雨が降っていました
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には ブロック塀に囲まれて本殿が鎮座します
・本殿の両脇には 境内社の祠二宇
※境内社の祠二宇は 明治41年(1908)境内社の若宮八幡社・山神社を合祀したものか?
社殿に一礼をしてから 参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 大井神社二座について 所在は゛山辺村に在す、清水あり゛〈現 大井神社(鈴鹿市山辺町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大井神社二座
大井は於保為と訓べし
○祭神 稻羽八上姫神、御井神、〔考証〕
○山辺村に在す、清水あり〔考証〕今河曲郡に属す、
類社
山城國 乙訓郡 大井神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 大井神社二座について 所在は゛下之庄村 産神 東西二社あり゛〈現 江神社(亀山市下庄町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大井(オホヰノ)神社二座
今 下之庄村 産神 東西二社あり 即是也、〔式内社検録、本村検地帳、おおい谷の名あり、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 大井神社二座について 所在は゛大井神社二座と稱するもの 則此 東西両社なるか゛〈現 江神社(亀山市下庄町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大井神社二座
祭神
祭日
社格所在
今按るに 傍注に山邊村と註せるより 考證以下の諸書 これに從ふは妄なり 山邊は河曲郡にして 隷属差へり 其社も新地にして 千古の舊社に非す 又 再考には下庄村 井手明神に配す 併 其社地 山傍少にして 形狀舊祠とは見えす 又 按内記以後の諸書は 勢陽雑記に據て 古厩村に在とす 其社地も亦 狭隘容體 舊社にはあるへからす 傍注雑記等 大井の井を泉井の義として 山邊御井神馬洗井等に牽合するは從ふへからす
再考には堰埭の意とせるは是なり 下庄村は田茂川の北涯にあり 延寶七年檢地帳におおい谷一中七畝貮述拾八步と記し 都合四反九畝二步の地の字とす 村の産神は東西に二社地あり 西を江神社に配すれと明證なし 両社地 舊とは一聯の地勢にて中間を宮カ谷と唱ふ 鬱樹として千歳の舊社地たる事 瞭然たり 南を去て 山傍に井出明神の祠もあれは 大井神社二座と稱するもの 則此 東西両社なるか オオイ谷は大堰谷の謬借なるへけれは 愚據なきにしもあらす
【原文参照】教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155