小田神社(おだじんじゃ)は 建立は1,400年前で 神領も多く朝野ともに尊敬の深かった式内社 紀伊国 伊都郡 小田神社(をたの かみのやしろ)と伝えられます その後の数々の兵乱に合い 社地も衰廃し 祠は焼失してしまいました 紀伊藩主 徳川頼宣公が元和年間(1615~1624)に旧境内本殿跡に石の宝殿を建て「小田神社」と刻し ご神体として後世に伝えさせ 現在に至っています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
小田神社(Oda shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
和歌山県伊都郡高野口町小田76
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》物之部武彦命(もののべのたけひこのみこと)
《合》市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
誉田別尊(ほんだわけのみこと)
大日霊尊(おほひるめのみこと)
素盞鳴尊(すさのをのみこと)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
和歌山県伊都郡高野口町大字小田字宮畑七拾六番地鎮座
村社 小田神社
一、御祭神 物部建彦命
厳島神社 市杵島姫命
八幡神社 誉田別尊
三大神社 大日孁尊
牛頭神社(八坂神社) 素盞嗚命
稲荷神社 倉稲魂命
大将軍神社 日本武命一、御由緒
小田神社は、饒速日尊の十三世の孫であり物部尾輿公の弟神・小田連公の祖とされる物部建彦命をお祀りしています。
平安時代中期の延喜式神名帳に「小田神社」として登載されている式内社(紀伊國で三十一社、伊都地方では二社)であると共に鎌倉時代初期の紀伊国神名帳にも「従五位上小田神」として記載されている官知社で、往古から神祇官の幣例に預かる格式高い神社として栄えました。その神域は四町四方もあったと伝えられ広大にして荘厳な社として、朝野ともに尊敬の深かった大社でありました。
しかし、数度の兵乱のために、社殿や宝物を失い、社地も荒廃して木陰に仮殿を設けてお祀りしていましたが、紀伊藩主徳川頼宣公が元和年間に旧境内本殿跡に石の宝殿を建て「小田神社」と刻し、ご神体として後世に伝えさせ、現在に至っております。尚、近年、右記の六社も合併してお祀りしています。
社務所
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
小田神社は、饒速日命の十三世の孫である物之部武彦(建彦)命を主祭神としてお祀りしている。
この神は物之部尾興連公の弟神で小田連等の祖である。
醍醐天皇の延長5(927)年に撰上された『延喜式神名帳』に、「小田神社」として記載されている式内社(紀伊国で31社、伊都地方では天野大社とともに2社)である。
又、平安末から鎌倉初期の編纂といわれる『紀伊国神名帳』には、「従五位上小田神」の名で神祗官の幣例に預かる官知神として伊都郡内5社の中に列せられている。
このように、往古の小田神社は、神域が4町四方(1町は109m)もあったと伝えられるほど、広大かつ立派な社としてその尊厳さは他社に及ぶものがなく、朝野ともに尊敬の深い大社であった。
しかるに、数度の兵乱のため社殿や宝物を失い、社地も荒廃して木陰に仮殿を設けてお祀りしていたが、紀州徳川の藩祖頼宣公が天和年中に旧境内本殿の跡に石の宝殿を建て「小田神社」の4文字を刻んで後世に伝えさせたという(これが現在の御神体となっている。
これによって「延喜式内社」の面目が作られ、江戸屋五兵衛なる町人が御神燈を献納したり、高野山から「式内社方角案内」の額が奉納されたりしている。
社名の「小田神社」は、地名に基づくものでなく、小田連公が大和からこの地に移り住み、その祖先である物之部武彦命を奉り祀りしことによる氏族名から付けられた名で、その建立は1,400年前と伝えられている。
江戸時代末に刊行された『紀伊名所図會』の「小田神社」の項に、次の2首が掲載されている。
守ります小田の御神の恵みとも しらでやしづがをしねかるらむ(読人しらず)
玉だれのをだの宮居はあれにけり 昔にかへすますらをもがな(小田 牛雄)
「物之部」は、「モノノグ(兵器)」と「モノノフ(兵士)」を掌る氏族の名称で、古来から大伴氏とともに我が国の軍神として崇められてきた神であった。
明治維新後の小田神社は、高野口町大字小田の氏神様として現在に至っている。
祭礼の日に行われた競馬は近郷の呼び物であったというが、今はその面影すら残していない。和歌山県神社庁HPより
https://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=4042
由緒
饒速日命を祖先に持つ物部大連公、後に小田の連公(第9代開化天皇の妃の兄)は大和より当所小田に移り住居し、祖先物之部武彦命を祀られ小田神社を建立した(1400余年前)。
上古は、醍醐天皇の延長5年(927)に編集された延喜式の神名帳に記載されている式内社として伊都郡内では、天野大社と並んで大社として神領も多く朝廷の尊敬も深かったと言う。しかしその後の数々の兵乱に合って社地衰廃し、祠は焼失してしまった。
徳川時代に紀州の殿様徳川頼宣がこのことに非常に嘆かれて「小田神社」の字を石に刻み、2度と焼失することのない石の神殿をお建てになった。
森の広さも一辺4町の四方形であったが、今は周り2町余である。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照項目あり
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・小宮〈瑞垣の中 本殿の向かって右側(東側)四社相殿の境内社〉
・稲荷神社《主》倉稲魂命・國保食神社《主》國保食神
・香都知神社《主》香都知神・猿田神社《主》猿田彦命
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊国 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)伊都郡 2座(大1座・小1座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 小田神社
[ふ り が な ](をたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wota no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 紀伊国 伊都郡 小田神社(をたの かみのやしろ)の論社
・小田神社(橋本市高野口町)
・丹生官省符神社(九度山町慈尊院)〈参考論社〉
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR和歌山線 高野口駅から東南へ約2km 車7分程度
小田の集落の中に鎮座します
小田神社(橋本市高野口町)に参着
道路に面して 小田神社の扁額のある鳥居が建ち すぐに割拝殿があり 拝所が設けられています
一礼をして 鳥居をくぐり 拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿内には 由緒書きが掲げられています
割拝殿を抜けると 境内となっていて参道の先に鳥居が建ち 一段高い檀に本殿とその横に境内社が鎮座しています
一礼をして 鳥居をくぐり 再度
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『紀伊国名所図會(kiinokuni meisho zue)』〈文化9年(1812)〉に記される伝承
小田神社(橋本市高野口町)について 式内社であるとし 歌を二首掲載しています
【抜粋意訳】
三編 巻之二 伊都郡川北 小田神社(おだのじんじゃ)
小田村にあり 古の社地跡にして 元和年中 石の宝殿を建たり
延喜式神名帳に小田神社 本国神名帳に 従五位上 小田神とあり守ります 小田の御神の 恵みとも しらでやしづが をしねかるらむ (読人しらず)
玉だれの をだの宮居は あれにけり 昔にかへす ますらをもがな (小田 牛雄)
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 小田神社について 官者省符の小田村の東北にあり社の跡あり
又 或説に 慈尊院村丹生七社〈現 丹生官省符神社(九度山町慈尊院)〉を論社としている と記しています
【抜粋意訳】
小田(ヲタノ)神社
旧事記 物部建彦連公は 小田連等の祖とあり
三代実録 伊都郡人六人部由貴紀云々
〇在に 官者省符の庄 小田村の東北 今 社跡存
紀志 と称したるは(南紀名勝志)なり 官者省符の小田村の東北にあり社の跡あり
(本国神名帳)従五位上 小田神
或説に 慈尊院村の丹生七社は 小田神社なりともいへり
【原文参照】
『紀伊続風土記(KizokuFudoki)』〈天保10年(1839)完成〉に記される伝承
小田神社(橋本市高野口町)は 式内社 小田神社であるとし 小田の名は 地名からきたとする説 祭神からの説を挙げています
【抜粋意訳】
巻之四十四 伊都郡第三 小田村
南名古曽村の南四町餘にあり村中の小田神社延喜式に見えたれは小田の名を古名とす
〇小田神社
境内周二町
延喜式神名帳 伊都郡 小田神社
本国神名帳 伊都郡 従五位上 小田神村中にあり 郡中丹生神社を除きては 式内の神は当社のみなれは 上古は大社にして 朝野共に尊敬深かりけんに 数度の兵乱を経て 社地衰微し祠も廃絶せしを 南龍公嘆かせ給ひて 境内に石の宝殿を建てさせ給ひ 小田神社の字を刻ましめ給ふ
森の広さも 古は境内方四町もありしに由なれとも 今は周二町許なり
此辺田地の字に神田といふもあれは 古は神領も多かりしなるへし 小田は地名にして祭神詳ならす
或いはいふ 舊事記に 物部ノ建彦ノ連公は 小田ノ連等カ祖とあり 当社の小田は姓にて 小田ノ連此地に居り 其祖 物部建彦連公を祭りしより 小田社といふか
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 小田神社について 現在は祠はなく 碑を建てている 祭神は小田連祖神ではないだろうか
又 或説に慈尊院村丹生七社〈現 丹生官省符神社(九度山町慈尊院)〉を論社としているが今は従わない と記しています
【抜粋意訳】
小田神社
小田は 乎田太と訓べし
〇祭神 小田連祖神歟
〇官省庄小田村東北に在す、今神祠なし、碑を建て表す、南紀神社録
〇同名勝志に、或説に、慈尊院村丹生七社を小田神社と云といへり、今従わず
〇旧事記、天孫本紀 物部建彦連公、小田連等祖、神位
本国神名帳、従五位上 小田神氏人
諸書いまだ考へ得ず
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 小田神社について 祭神は不詳だが 一説には小田連等の祖の物部建彦連公で 當社の小田は姓によるもので 小田連もこの地に居り その祖 物部建彦命を祭り 小田社と呼ばれているのであろう と記しています
【抜粋意訳】
小田神社
今按ずるに『紀伊國續風土記』に小田は地名にして 祭神不詳 或は云ふ 舊事記に物部建彦連公は 小田連等の祖とあり 是によるに當社の小田は姓にて 小田連 此の地に居り 其の祖 物部武彦連公を祭りしより小田 社と云ふか と疑へり
今姑く 紀伊國式社考明細帳の二書に據る祭日 六月晦日
社格 村社
所在 小田村(伊都郡慶其村大字小田)
【原文参照】
小田神社(橋本市高野口町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)