中臣崇健神社(鳥取市古郡家西土居)〈『延喜式』中臣崇健神社〉

中臣崇健神社(なかとみたかたけじんじゃ)は 古くより本殿を設けず 石玉垣を神座とする珍しい神社 祭神は大物主命 鎮座地は三輪郷内であり 社がないことから 大和国の大三輪大神神社との関わり示唆されます 延喜式内社 因幡國 邑美郡 中臣崇健神社(なかとみたかたけの かみのやしろ)の論社です

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

中臣崇健神社(Nakatomi takatake shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

鳥取県鳥取市古郡家字西土居161

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大物主命(おほものぬしのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

中臣崇健神社(なかとみたかたけじんじゃ)

祭神 大物主命(おほものぬしのみこと)
例祭 四月十九日(子供榊)、秋祭 十月十九日
氏子 久末・古郡家

由緒

平安時代「延喜式」(九二七撰) に記載されており、式内社」という邑美郡ではただ一つの神社。

古くより本殿を設けず、石玉垣を神座とする珍しい神社郷民は、ここの神様は大きく、神託によれば「わが形は林の梢こずえと等しいので、通常の小さな祠には居られないので、社をつくるな 」と伝えている。 神託の高大な「祟健」に通じる。

主要建物は、本殿、拝殿、神楽殿、参籠所で、本殿はない。
御神木は松幹周り3㍍)だったが、枯れたため部分を残し、屋根をかけて保存している。

この地は三輪郷内にあり、社がないことから、大和の国の大三輪大神神社との関わりを示唆している。

境内にある末社も全て石造りで、古い形のまま残している。

稲荷社家形石 四基並列)、三宝荒神石造り宮型 三基並列

陽成天皇、元慶元年(八七七年)九大嘗祭に班幣に預かったと伝える。

承安元年(一一七一年)に源頼政が当社を信仰し、陶器製の釣燈籠を献じたとの伝承がある。

社頭の案内板より

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由緒

『延喜式』(927年)には「邑美郡一座小 中臣崇健神社」とある。

近世は岡森天王 また 幡刺天王と称した。

古くより本殿を設けず、林中に築かれた石玉垣を神座としている。

『因幡誌』に絵図も記載され「岡森天王と称す。其祭る所神廟なし。…郷民伝へて云、此神の形甚高大なり、神託に我が形林梢と等し尋常の小祠に居る事を得ず、社宇を造るべからずと、因て社無し」と記し、神託の高丈は「崇健」に通じるとして、当社を式内社に比定している。

更に当社が古代の三輪(美和)郷内にあり、無社であることから大和国大三輪(大神神社)との関わりを示唆している。

境内末社もすべて石造りで、古い形のまま残っている。

陽成天皇元慶元年(877)9月の大嘗祭に班幣に預かったと伝える。

承安元年(1171)、源頼政が当社を信仰し、陶器製釣燈籠を献じたとの伝承がある。

鳥取縣神社廳HPより
https://tottori-jinjacho.jp/pages/149/

【由  (History)】

『因幡誌』卷六,大正12年に記される内容

【抜粋意訳】

式内神社目錄 邑美郡一座小

○中臣崇健神社

三戶古保久末村にあり岡森天王と稱す 其祭る所神廟なし 但林木鬱茂の地をさして神居とす 郷民傅て云 此神の形 甚高大なり神託に我が形 林梢と等し尋常の小祠に居る事を得ず社宇を造るベかずと因て社なしと 按するに神託の語神韻長高は和語崇健の義に通ず 又 中臣は人の姓なり 津速魂命三世の孫 天の兒屋根命より出つ若し此命を祭れるにや 或は云ふ 隣邑を三輪と號するは此神の社無きを以て大和國大三輪を表爾すと

【原文参照】

安部惟親 著『因幡誌』卷六,因伯叢書発行所,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1885141

『因幡誌』巻七,大正8-13年に記される内容

【抜粋意訳】

中臣崇健神社

号岡森天王 邑美郡古郡家村の條下に詳記す

【原文参照】

[安倍惟親 著]『因幡誌』巻七,因伯叢書発行所,大正8-13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1185215

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

中臣崇健神社 神座

本殿を設けず 石玉垣を神座とする珍しい神社

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・〈神座石玉垣 手前かつての御神木

〈御神木はクロマツの巨木(幹周り3㍍)だったが 枯れたため株部分を残し 屋根をかけて保存している〉

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中臣崇健神社 拝殿

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・〈社殿向かって境内右奥 境内社〉家形石 四基並列あり〈稲荷社〉

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・〈社殿向かって境内右手前〉横たえてある「古い鳥居」「明和七庚寅歳九月吉日」

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・〈社殿向かって左隣 境内社〉石造り宮型 三基並列あり〈三宝荒神〉

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・〈社殿向かって境内左奥〉灯籠10基あり

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・参籠所

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・御神木

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・手水舎・神楽殿

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・境内入口 注連柱

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・社頭・鳥居・社号標

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)因幡國 50座(大1座・小49座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)邑美郡 1座(小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 中臣崇健神社
[ふ り が な ](なかとみたかたけの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Nakatomi takatake no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳』に載る「崇健神社(たかたけの かみのやしろ)」のについて

延喜式内社 因幡國 邑美郡 中臣崇健神社(なかとみたかたけの かみのやしろ)

・中臣崇健神社(鳥取市古郡家西土居)

延喜式内社 播磨國 賀茂郡 崇健神社(たかたけの かみのやしろ)の論社

・高峯神社(加西市畑町)

・礒崎神社(加西市下道山町)

・山氏神社(加東市社)

・日吉神社(加西市池上町)

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR因美線 津ノ井駅から県道226号・293号経由で約2.3km 車での所要時間は7~10分程度

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社頭は 鳥取市古郡家地区内の集落内の小路にあります

社頭の鳥居の扁額には「中臣崇健神社
社号標「式内 中臣崇健神社」その左背後に灯籠2基

中臣崇健神社(鳥取市古郡家西土居)に参着

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一礼をしてから 鳥居をくぐり抜けて 参道を進みます

細長い参道を100メートル程 進んでいきます

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注連柱が建ち 境内の入口でしょうか

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注連柱の両脇に灯籠1対 差の後ろにも古い灯籠1対
向って左手の建屋は神楽殿 中央は手水舎 向って右手の建屋は参籠所です

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一礼をして 注連縄をくぐり抜けて 境内へと進みます

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すぐ左手に手水舎があり 奥の方に拝殿が見えています

拝殿にすすみます

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拝殿の前には 蝋燭(ろうそく)立ての様なものもあります

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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中臣崇健神社では 本殿を設けず 石玉垣を神座とする珍しい神社です
向って右側から 狛犬は出雲式の構え

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向って左側から  狛犬は出雲式の構え
神座石玉垣 手前は かつての御神木〈枯死したクロマツの巨木〉

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境内の中央には 横たえてある「古い鳥居」「明和七庚寅歳九月吉日」があります 鳥居の下は このような大石で安定させていたのを知りました

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社殿に一礼をして 境内を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 中臣崇健神社について 所在は゛久末村に在す、今 崇健天王と稱す、゛〈現 中臣崇健神社(鳥取市古郡家西土居)〉と記しています

【抜粋意訳】

中臣崇健神社

中臣崇健は奈加登美乃多加多氣と訓べし

○祭神詳ならず

〇久末村に在す、今 崇健天王と稱す、〔稲葉民談〕

例祭 月日

 因幡志云、三戸古(ミトコ)ノ保久末(ヒサスエ)村にあり、岡森天王と稱する是也、神廟無し、林木鬱茂の地を さして神居とす、郷民傳て云、此神の形はなはだ高大也、神託曰、我形林梢と等し、尋常の小祠に居ることを得ず、社宇を造るべからず、これによりて社無しと云々、和語崇健の義に通ず云々、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 中臣崇健神社について 所在は゛三戶古(ミトコノ)保久末(ヌヒサスエノ)村に在り、岡森天王と云ふ゛〈現 中臣崇健神社(鳥取市古郡家西土居)〉と記しています

一方゛社今絶たり、゛今は廃絶しているとも記しています

【抜粋意訳】

○邑美郡一座小

中臣崇健(ナカトミノタカタケ)神社、

三戶古(ミトコノ)保久末(ヌヒサスエノ)村に在り、岡森天王と云ふ社今絶たり、〔因幡民談、因幡志、〕〔〇按 土人傳説に云く、昔 神教ありて吾神形林梢と等しくして、尋常の宮殿に坐へからず、社字を設くる事なかれと勅ふをもて、社なき也、と云り、然るれども此説 崇健の名に依て設けた如く聞にて疑はし、故今らず、

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 中臣崇健神社について 所在は゛古郡家村字宮ノ前(岩美郡三戶古村大字古郡家)゛〈現 中臣崇健神社(鳥取市古郡家西土居)〉と記しています

【抜粋意訳】

○邑美郡一座小

中臣崇健神社

祭神
祭日 九月十九日
社格 村社

所在 古郡家村字宮ノ前(岩美郡三戶古村大字古郡家)

 
 稻葉民談に 郡中久末村と云村にあり 今 崇健天王の社と云り
 因幡志に 三戸(ミト)古保久末村にあり 岡森天王と稱す 神廟なし 林木鬱茂の地をさして神居とす 郷民傳て云 此神の形甚だ高大なり 神託曰 我形林梢と等し 尋常の小祠に居る事を得ず 社宇を造るべからず 之に因て社なしと云々 和語崇健の義に通す云々とみえたる 卽本社によしありて聞ゆるを註進狀に 古郡家村の社と決めたるは明證ある事にや尚能考べき事なり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

中臣崇健神社(鳥取市古郡家西土居) (hai)」(90度のお辞儀)

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