長太の大樟(なごのおおくす)は 嘉永4年(1851)地誌「勢国見聞集」名木之部に「河曲郡北堀江村 楠 当村の西の方にあり 是を大木神社と云 式内の社なり」と記され 楠木を御神体とした神社〈須伎神社に合祀された大木神社の旧鎮座地〉で 延喜式内社 伊勢國 河曲郡 大木神社(おほきの かみのやしろ)の論社とされています

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目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
長太の大樟(Nago no ohkusu)〈須伎神社 に合祀された大木神社の旧鎮座地〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県鈴鹿市南長太町285
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
天然記念物
県指定文化財長太(なご)の大楠(おおくす)
昭和三十八年一月十一日指定
この木はクスノキ科に属する大木です。
樹齢は不明ですが、全国的にも有数の大木です。樹高二十六メートル、目通り直径二・九メートル、枝張りは東西三十メートル、南北三十五メートルです。むかし、この木のもとに延喜式内社大木神社があったといわれています。
また、この大楠は、近鉄名古屋線の車窓からも遠望でき、田園の中にひときわ高くそびえ立つ姿は、この地域の特色ある風景をかたちづくる樹木として多くの人々に親しまれています。
平成二十五年三月 鈴鹿市
現地案内板より

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【由 緒 (History)】
『河芸郡史』〈大正7年(1918)〉に記される内容
【抜粋意訳】
八 大樟
一ノ宮村大字南長太字天ノ宮にあり、高十間餘、周圍四間餘あり 枝葉徒に繁盛し遠望すれば恰も傘形をなす、
傳へ云ふ、この地 奮字を青木と稱す、青木、大木 訓音通するより 式内 大木神社の舊址なりと云ふ、以下不詳
【原文参照】

中林楓水 著『河芸郡史』,河芸郡史編纂会,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959169
『三重県伝説集』〈昭和11年(1936)〉に記される内容
【抜粋意訳】
三重県立津高等女学校郷土地理調査研究部 編『三重県伝説集』
大木傳說
○一本木
大宇南長太天の宮といふ所に大昔、太古男命(ナゴノヲノミコト)の御休憩の舊跡地と傳へられる所に老樟 高く天空に聳え、幹の太さは胸高にて周圍六間三尺、子供の帯七紐にて尚不足なることは筆者の子供心に体験せる所である。
先年 全縣下に亘りて神社合祀の馨起り、それまでは此所に大木神社とて神殿、拝殿雑木等があって一かどの神社であったが、合祀されるに當り皆取はれて此の老木だけは斧を入れずに殘されたのである。
なぜなれば それは若し此の木を僅かでも傷けたものがあらば 其の家は直ちに不時來り死に絶えると言ひ傳はり、誰も手をつけるものがないからである。今尚ほ 樹勢益々盛んであつて遠く数里の外より望み見ることが来る。十疊敷の天井は此の老樹の幹より一枚板にて作り得ると土地の大工は言ってゐる。目下内務省に申請中につき、やがては天然記念樹として國家より保護されることになるだらうと。
(阿藝郷一ノ宮高等小學校)
【原文参照】

三重県立津高等女学校郷土地理調査研究部 編『三重県伝説集』,三重県立津高等女学校地理教室,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1463695
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・須伎神社(鈴鹿市長太栄町)
須伎神社(鈴鹿市長太栄町)は 『三国地志』によれば 元禄三年(1690)に現鎮座地に移転したとあり 又 旧社地には楠の大木があったと記している 舟路を守る神として近郊の崇敬を集めていたものと思われ
明治四〇年(1907)には 大木神社(長太の大樟)以下四社を合祀しています
・須伎神社(鈴鹿市長太栄町)〈明治40年(1907)大木神社の旧鎮座地(長太の大樟)を須伎神社 に合祀〉
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成
〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大木神社
[ふ り が な ](おほきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohoki no kaminoyashiro)
【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 伊勢國 河曲郡 大木神社(おほきの かみのやしろ)の論社
・大木神社(鈴鹿市石薬師町)
・長太の大樟(大楠)
〈須伎神社 に合祀された大木神社の旧鎮座地〉
・須伎神社(鈴鹿市長太栄町)に合祀
・大塚神社(鈴鹿市林崎)
・飯野神社(鈴鹿市長太旭町)に合祀
(合祀)〈津萩大木神社(北長太村) 江戸時代は゛老翁殿゛〉
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄名古屋線 長太ノ浦駅から南方向へ約1.2km 徒歩での所要時間16~18分程度
田圃の中にひときわ目立ち 迷うことはありません

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近づいてくると後の家並みと比較して その楠の木が大木であると判ってきます

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長太の大樟(南長太町)〈須伎神社 に合祀された大木神社の旧鎮座地〉に参着

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明治四〇年(1907)須伎神社(鈴鹿市長太栄町)に合祀されるまでは 社殿があつたとのこと
『三重県伝説集』〈昭和11年(1936)〉に
「神殿、拝殿雑木等があって一かどの神社であったが、合祀されるに當り皆取はれて此の老木だけは斧を入れずに殘されたのである。
なぜなれば それは若し此の木を僅かでも傷けたものがあらば 其の家は直ちに不時來り死に絶えると言ひ傳はり、誰も手をつけるものがないからである。」と記されています
現在は 社殿はなく 石燈籠と賽銭箱 大楠の前に社号標「式内 大木神社」があります

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拝所にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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一礼をして拝所から戻り 大楠を見つめてみると
かつての神社の敷地であったので 大楠の廻りは盛土の跡があり 今でも こんもりとしています

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西の方角を眺めてみると 遥か彼方に鈴鹿の山並みがあり 椿大神社(伊勢乃國一宮)の辺りかも知れません

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 大木神社について 所在は゛南奈古村に在す 背書國史に、堀江村ノ西畠中ニ楠アリ、゛〈現 長太の大樟(大楠)〈須伎神社 に合祀された大木神社の旧鎮座地〉〉と記しています
【抜粋意訳】
大木神社
大木は於保岐と訓べし
○祭神詳ならず
○南奈古村に在す、〔俚諺〕
背書國史に、堀江村ノ西 畠中ニ 楠アリ、勢陽俚諺に、一説に其跡なるべし、社なし大木あり、神祓明神と號すといへり、
【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 大木神社について 社名のみが記されています
【抜粋意訳】
大木(オホキノ)神社
【原文参照】

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『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 大木神社について 所在は諸説あって判明しない と記し
①゛一は 西林崎村一色村立合にて祀る 産神明細帳に大塚神社゛〈現 ・大塚神社(鈴鹿市林崎)〉゛今度改めて大木神社と注進す゛
②゛又南長太村の西一丁許畑中に字あをきといふ森あり 其地に在たる社を六十年許前に支邑瀬古の産神 熊野社に合併したるを慶應三年に引分て 村ノ西南五丁許の畑中大樟樹のある下に新に小祠を造誉し奉遷したる゛〈現 長太の大樟(大楠)〈須伎神社 に合祀された大木神社の旧鎮座地〉〉
③゛鈴鹿郡石藥師村鞠鹿野地に在る産神天王祠を大木神社とす゛〈現・大木神社(鈴鹿市石薬師町)〉
④゛南長太村の産神髙明神と稱する社の棟札に 慶安元年九月大木神社とある由を載す゛〈現 飯野神社(長太旭町)に合祀 津萩大木神社(北長太町)〈俗称 老翁殿〉〉
と記しています
【抜粋意訳】
大木神社
祭神
祭日
社格所在
今按 本社所在 諸說區々にして分明ならず
一は 西林崎村一色村立合にて祀る 產神明細帳に大塚神社と記せり 廣大の塚山に在る社なれはなり 然るを今度改めて大木神社と注進す 是れ村北に字大木江と云田地あるを以て附會するなれば諾ひ難し又 南長太村の西一丁許畑中に字 あをき といふ森あり 其地に在たる社を六十年許前に支邑 漸古の産神 熊野社に合併したるを 慶應三年に引分て村ノ西南五丁許の畑中 大樟樹のある下に新に小祠を造營し奉遷したる 新社を本に配して大木神社とす 是れ案内記に南長太村五丁許南を過て一本樟あり 是古地なるへしと謂へる臆説に據て猥に作爲せるにて確証あるにあらず 全く あをき に大木を附會するなり 但其 あをき に六十年前にも社なかりし事は三 國地志勢陽雜記拾遺にも あをき には祠なしといへるを知らすして合併の妄説をなすなり信受すべからす
又 北長太村の支邑 小路村の産神八王子祠を本社に配す 正德三年二月の棟札に太木王子殿と注し 又 大才社と鐵にて文字を彫りて朽木に釘せる古額ありと云を讃とすれと 陳札はもと八王子殿とありたるを入墨して八を木に作り太字を加へたるものなり 額は近世の拙作物にて論するまでもなし 永正年中 小路山(ヲヂヤマ)殿と唱ふる津萩明神を合併し小路(ヲオヂ)を大木に混亂するなり從ふへからず
鈴鹿郡石樂師村 鞠鹿野地に在る產神 天王祠を大木神社とす 元石藥師は高飛村と稱して今の地より南東にありしを元和中 今の地に遷りて宿驛となる 其舊趾を古里と唱ふ 其處より三丁許巽に在りたる社を後に産神に合祭す 其社跡を青木大日森と云ひて河曲郡に隷すと云を以て證とすれと 青木と大木と音相近しと云のみにて本社たる明證ある事なし 附會信するに足らず 此余熈近考證に追分村乎とあれど三重郡にて本郡に遠し論に及はず
又 遺響には南長太村の產神 高明神と稱する社の棟札に慶安元年九月 大木神社とある由を載す 高明神とは南長太村の支邑 瀨古の產神 高宮熊野太神と唱ふる祠を謂ふなるべし 然るに其社の棟札を檢するに慶安のものある事なし 併 慶應三年分離の時まで 此社に大木の神を合併したりと云ふを見れは 所由なきにしも非ず 社地編小なれども古色ある形狀なり 猶確證を索むべし
【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
長太の大樟(南長太町)〈須伎神社 に合祀された大木神社の旧鎮座地〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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