村国神社 御旅所(むらくにじんじゃ おたびところ)は 『延喜式神名帳 AD.927』に 美濃国各務郡 村國神社 二座とあり 一座は 村国神社 もうひとつ一座が 村國連男依命の墳墓の地 と云われており 現在の御旅所になります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
村国神社 御旅所(Murakuni Shrine Otabitokoro)
(むらくにじんじゃ おたびところ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
岐阜県各務原市各務おがせ町3-85
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》村国男依命(murakuni no oyori no mikoto)
伊斯許理度売命(ishikoridome no mikoto)
【御神格 (God's great power)】
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
社伝によれば
飛鳥時代(592~710年)
この地一帯を治めていた村国氏の祖が
天之火明命(ameno hoakari no mikoto)と御子 石凝姥命(ishikoridome no mikoto)を御祭神として創建
【由 緒 (history)】
当神社は、飛鳥時代、此の地一帯を治めていた村國氏の祖が、天之火明命と御子石凝老命を御祭神として創建された社であります。
弘文元年、壬申の乱が興り 豪族 村國男依氏は、大海人皇子の命を受け、いち早く農兵3000人を引きつれ、不破の関を守り、大津街道を攻め上がり、大海人皇子の連に大勝をもたらし、天武の世となり、村國男依氏は此の勲功で、封120戸、功田10町とかばね性、連(むらじ)を賜り、帝の新任あつく 時の政権の座につきましたが、天武4年天命を全し、此の世を去る。
帝より外小柴の位を授り、子息 村國連嶋主によって、此の社に村國連男依の命として祀られ、以来、村國の社と呼び、産土神として代々村國一族が守って参りました。時代は村國氏から、重臣各牟氏に移り延久4年 約910年前、各牟宿弥良遠の時代に山獄信仰が盛んになり承保3年(900)前、各務宿弥良近によって白山大権現が合祀され 守護神として農州一円の士豪は、戦勝を祈り大いにあがめ祀り
爾来、鎌倉、室町、安土桃山と戦国の時代を守り祀りて 江戸時代を経て 現在に至る古き由緒ある神社であります。延長年代、延喜式内郷社となっており 村國神社弐座と記載されております、
別の壱座は御旅所と申して、村國連男依命の墳墓の地と云われ
現在は 椋の大木を御神木として斎奉る。
境内裏山に古き時代を忍ぶ古墳群あり、此れを村國古墳公園として広く一般に公開し、憩いの場に使用している。「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)美濃国 39座(大1座・小38座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)各務郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 村國神社 二座
[ふ り が な ](むらくにの かみのやしろ ふたざ)
[How to read ](Murakuni no kamino yashiro futaza)
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』には 村国神社 二座とあります
二座のうち一座は 現在 御旅所の当社です
もう一座は 村国神社で 直線で北西約150mにあります
村国神社 の記事をご覧ください
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』の美濃国「各務(kagami)郡」と
現在の「各務原市(kagamigahara shi)」の地名由来について
現在の「各務原市(kagamigahara shi)」は 1963年(昭和38年)4月1日 稲葉郡那加町・稲羽町・鵜沼町・蘇原町が合併し 「各務原」という地名を採用して誕生しました 正式には「かかみがはら」の呼称としています
1963年(昭和38年)の市名の決定には 各務野という台地があり 江戸期の末から 大砲演習場や飛行場として利用されていて 第二次大戦前から全国的に有名だった各務原飛行場あった「各務原」とされたようです
美濃国「各務(kagami)郡」は 諸説あります
古代に鏡作部(kagami tsukuri be)〈銅鏡などの鏡を作る技能集団〉が居住していたからとの言い伝え(『各務村史』)
別の説では
各務地域の中央に鎮座する「村国真墨田神社」に鏡作部の祖神である天糠戸命(伊斯許理度売命の父神)が祀られているからとも伝わります
又 その他には 村国神社の鎮座する「各務おがせ町」辺りが 北部から東部にかけて 俗に各務原アルプスと呼ばれる標高200-300m山地が広がり 南部には台地が広がり その南を木曽川が流れて 土地が窪んでいることから来ていて「かがむ」とも伝わります
いずれも音として「かがみ」「かかむ」から来ているようです
有力な説は 鏡は「かかみ・かかむ」から「各務」となったされています
律令の時代には「各牟」(かかむ)とも書きました
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神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
村国神社の東側の道を南下 約150m 徒歩2分程度
御旅所とムクノキの横に出ます
標柱には「市指定天然記念物 村国神社御旅所ムクノキ」とあり
村国神社 御旅所(Murakuni Shrine Otabitokoro) に参着
こちらも お祭りの幟旗がたてられています
社号標には「式内 村國神社」と刻まれています
一礼をして 鳥居をくぐり抜けます
鳥居の扁額には「村國神社 御旅所」とあります
拝殿にすすみます 拝殿には白色の垂れ幕が掛かります
先程 村國神社では 神事の最中でしたので お賽銭がおさめられませんでしたので こちらで合わせて
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の裏には 玉垣で囲われたクスノキがあります
ここが社伝に云う「村國連男依命の墳墓の地と云われ 現在は 椋の大木を御神木として斎奉る」です
改めて お詣りをして 境内から 鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼をします
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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(nihon shoki)』天武天皇 壬申の乱の条 に記される伝承
天武天皇 壬申の乱の条には 村国男依の活躍が記されています
最初に 6月20日に 男依は大海人皇子の挙兵命令を美濃国に伝達する使者となっていて
7月には主戦線となった近江方面の軍の中心的指揮官として活躍し 近江軍を追い詰めて行く様子が記されています
意訳
6月22日
・村国連男依(むらくにのむらじおより)・和珥部臣君手(わにべのおみきみて)・身気君広(むげのきみひろ)に詔(みことのり)して「聞くところによると 近江朝の廷臣らは 朕(私)を亡き者にしようと謀(はか)っている
お前たち三人は 急いでに美濃国に行き 安八磨郡(あはつのこおり)(安八郡)の湯沐令(ゆの うなかし)(湯沐=東宮に給される食封・令=その地を支配し収納を行う役人)の多臣品治(おおのおみはんじ)に 謀(はかりごと)の要点を示して まず その地の兵を集めよなお国司(くにのつかさ)らに触れて軍勢を発し 速やかに不破道(ふわのみち)(近江美濃両国の境 東国へ向う要路)を塞げ 朕(私)もすぐに出発する」と言われた
【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
7月1日
村国連男依(むらくにのむらじおより)・書首根麻呂(ふみのおびとねまろ)・和珥部臣君手(わにべのおみきみて)・胆香瓦臣安倍(いかごのおみあべ)を遣わし 数万の兵を率いて 不破(ふわ)から出て すぐに近江に入らせた
その軍が近江軍と判別が難いので 赤色を衣服の上につけさせた
7月7日
男依(おより)らは 近江軍と息長(おきなが)の横河(よこかわ)で戦って破った その将 境部連薬(さかいべのむらじくすり)を斬った7月9日
男依(おより)らは さらに 近江の将 秦友足(はたのともたり)を鳥籠山(とこのやま)にて斬ったこの日 東道(うみつみち)将軍 紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)らは 大和の将軍である大伴連吹負(おおとものむらじふけい)が 近江軍に破られたことを聞いて 軍勢を分けて 置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)に千余騎を率いさせ 大和京(やまとのみやこ)に急ぎ馳せ参じた
7月13日
男依(おより)らは 安河(やすのかわ)の浜の戦いで大勝した 社戸臣大口(こそへのおみおおくち)・土師連千島(はじのむらじちしま)を捕虜とした7月17日
栗太(くるもと)の軍を追撃した7月22日
男依(おより)らは 瀬田(せた)に着いた
大友皇子(おおとものみこ)と群臣らは 瀬田橋(せたのはし)の西に大きな陣営を成していた陣の後ろの方が何処まであるか分らない程で 旗幟(はた)(軍旗)は野を覆い 土埃は天に連なっていた
打ちならす鉦鼓(かねつづみ)の音は数十里に響き 弓の列からは 矢が雨の降るように放たれた近江方の将 智尊(ちそん)は 精兵を率い 先鋒として防戦した
橋の中央を三杖程の巾(はば)に切断して 一つの長板を渡してあった
この板を踏んで渡る者があれば 板を引いて堕とすのであった
このため進んで襲うことができなかったここに一人の勇士があった
大分君稚臣(おおはかのきみわかみ)という
長い矛(ほこ)を棄て 甲(かぶと)を重ね着して 刀を抜いて
一気に板を踏んで渡った 板に繋げられた綱を切り 矢を被りながら敵陣に突入した近江方の陣は混乱し 逃げ散るやめられなかった
将軍の智尊(ちそん)は刀を抜いて 逃げる者を斬ったが 留めることは出来なかった智尊(ちそん)は 橋の辺で斬られた
大友皇子(おおとものみこ)と左右の大臣たちは その身だけ辛うじてのがれ逃げた男依(おより)らは 粟津岡(あわずのおか)の麓に 軍を集結した
この日 羽田公矢国(はたのきみやくに)・出雲臣狛(いずものおみこま)は連合して 三尾城(みおのき)を攻めて落した7月23日
男依(おより)らは 近江軍の将 犬養連五十君(いぬかいのむらじいきみと)・谷直塩手(たにのあたいしおて)を粟津市(あわずのいち)で斬った
こうして 大友皇子(おおとものみこ)は逃げ入る所もなくなった
そこで引き返して山前(やまさき)に身を隠し 自ら首をくくって亡くなられた
左右の大臣 群臣は皆 散り逃げた
ただ 物部連麻呂(もののべのむらじまろ)と 一人二人の舎人(とねり)が皇子に従っていた
【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
村国神社 御旅所(Murakuni Shrine Otabitokoro) に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)