吉田椋神社 奥宮(よしだ むくじんじゃ おくみや)は 龍勢を打ち上げる龍勢櫓のある芦田山の中腹に鎮座します 御祭神は本社と同じですが 祭典は御犬様を祀る祭りとされて ゛延喜式内 椋神社 服従神犬 秩父吉田郷五峯山鎮゛と伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
椋神社 奥宮(Muku shrine Okumiya)
【通称名(Common name)】
吉田 椋神社 奥宮(よしだ むくじんじゃ おくみや)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県秩父市下吉田7239-2〈芦田山 中腹〉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈本社と同じ御祭神〉
《主》猿田彦大神(さるたひこのおほかみ)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
比賣神(ひめのかみ)
※祭典は御犬様を祀る祭りだと伝わります
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の奥宮
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
由緒不詳
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈現在の本社 里宮の鎮座地〉
・吉田 椋神社(秩父市下吉田)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二十 貞觀十三年(八七一)十一月十日〈壬午〉の条
○十日壬午
授に 武藏國
正五位上勳七等 秩父神(チチフノカミ)に 從四位下。
從五位下 椋神(ムクノカミ)に 從五位上。飛騨國 正五位下 水無神 正五位上。
出雲國 正五位上 湯神。佐往神 並從四位下。
從五位上 能義神。佐草神。揖屋神。女月神。御譯神。阿式神並 正五位下。
從五位下 斐伊神。智伊神。温沼神。
越中國 從五位下 楯桙神 並從五位上。
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)秩父郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 椋神社
[ふ り が な ](むくの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Muku no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の論社について
明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました
・井椋塚(秩父市下吉田)〈椋神社の社殿が焼失〈永禄十二年(1569)兵火〉以前の旧社地〉
・吉田 椋神社 奥宮(秩父市下吉田)
・吉田 椋神社(秩父市下吉田)
・上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)
・中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)
・野巻 椋神社(皆野町野巻)
・皆野 椋神社(皆野町皆野)
・井椋神社(深谷市畠山)〈参考 井椋五所宮〈現 秩父市下吉田にある椋神社の分祀〉
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
吉田 椋神社(秩父市下吉田)の北側奥 龍勢を打ち上げる龍勢櫓のある芦田山の中腹に鎮座します
山の麓に在る櫓が 龍勢櫓です
吉田 椋神社の北側の鳥居から龍勢櫓を目指します
龍勢櫓から20m程南に山道があり 芦田山へ登ります
山道の途中には 豚足のような足跡が多数あり おそらく猪の足跡だと思いますので 要注意です
芦田山の中腹 右手に二つの覆屋が見えてきます
吉田 椋神社 奥宮(秩父市下吉田)に参着
社殿は 参道よりは少し高い位置にあり
社殿にすすみます
社号標には 旧県社 椋神社 奥宮 と刻字があります
゛祭典は御犬様を祀る祭りだと伝わります゛と云われていますが 社殿にも ゛五峰山 御神犬守護゛゛ と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
左奥にも 祠がありますので お祈りをします
社殿に一礼をして 参道の山道を戻ります
下りの途中 秩父神社の神奈備山である武甲山〈日本武尊が自らの甲(かぶと)をこの山の岩室に奉納したという伝説〉が良く見えます
秩父神社については
・秩父神社(秩父市)
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 椋神社の所在について 下吉田郷〈現 皆野 椋神社(皆野町皆野)〉と記しています
【抜粋意訳】
椋(ムク)神社
三代実録 貞観十三年十一月十日壬午 授武藏國從五位下椋神從五位上
〇在 下吉田郷
式社考 芦田村 井椋大明神と云う 祭神 天ノコヤネノ命
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
蒔田に鎮座する二つの椋神社について 村の鎮守と記しています
【意訳】
巻二百五十七 秩父郡巻十五 下吉田村
椋神社
延喜式内の社なり
祭神 猿田彦大神 武甕槌命 経津主命 天兒屋根命 比賣神
神社縁起
武蔵国 秩父郡 矢場田荘 下吉田郷 井椋五所大明神(一名 椋神社)
所祭神五座 第一殿 猿田彦大神 第二殿 武甕槌命 第三殿 経津主命 第四殿 天兒屋根命 第五殿 姫大神 也
抑当社 鎮座 人皇十二代 景行天皇四十年 日本武尊 東夷征の時・・・・・
・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 椋神社の所在について 矢田庄下吉田村〈現 皆野 椋神社(皆野町皆野)〉と記しています
【抜粋意訳】
椋神社
椋は久良と訓べし
〇祭神 猿田彦大神、(地名記〇式社考には、祭神天児屋命と云り、)
○矢田庄下吉田村に在す、(同上)今井椋 五社明神と称す、
例祭月日、神位
三代實録、貞観十三年十一月十日壬午、授武藏國從五位下椋神從五位上、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
近隣に椋神社は4か所あったが
明治政府に於いて 式内社 椋神社の所在について 大社であるが故に 矢田庄下吉田村〈現 皆野 椋神社(皆野町皆野)〉が定められた しかし 蒔田村の氏子等訴訟などで 其の他の3社・蒔田村上組上〈現 上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)〉・吉田村立會〈現 野巻 椋神社(皆野町野巻)〉・吉田村中組〈現 中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)〉も式内社の論社とされた と記しています
【抜粋意訳】
椋神社
神位
清和天皇 貞観十三年十一月十日壬午 授武藏國從五位下椋神從五位上所在
今按〈今考えるに〉
本社所在 蒔田村上組上 吉田村立會にて祭る椋神社と云あり
又 吉田村中組にも椋神社あり 下吉田村にも椋神社あり
此の三村の内に就いて 下吉田村は大社にて氏子戸数も多く 人民崇敬の神社なるを以て 郷社に定められし處 蒔田村の氏子等訴訟のことあるを以て 姑く三社を以て一社と見做し 式社と定め置るるの指令あり 尚よく確証を得て 後に定むべきなり
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
明治期に式内論社の訴訟となり 複数の論社が並立しているが 吉田 椋神社(秩父市下吉田)を 多くの書籍は 式内社 椋神社であるとしている と記しています
【抜粋意訳】
埼玉縣 武蔵国 秩父郡下吉田村大字下吉田
縣社 椋(ムクノ)神社
祭神
猿田彦大神(サルタヒコノオホカミ)
武甕槌(タケミカヅチノ)命
經津主(フツヌシノ)命
比賣神(ヒメノカミ)
天兒屋根(アメノコヤネノ)命椋神社は延喜の制、小社に列す。是より清和天皇 貞観十三年十一月十日、従五位下より従五位上を授かり給ひしよし三代實録に見え、降て正平元年六月十日、使を遣わして中祓を社司に科す。椋神の祟あるを以て也と宮主秘事に傳に見えたる著名の神社なるが、椋神社と称するもの近郷数社あり、明治の始め當社を以て式内社とせしに、訴訟起り、爲めに姑く凡てを以て式社と定むるの指令ありしと、特撰神名牒に云く、
「所在 今按本所所在、蒔田村上組(中略)にて祭る椋神社と云あり、又上吉田村中組にも椋神社あり、
下吉田村にも椋神社あり、此三村の内に就て、下吉田村は大社にて、氏子戸数も多く、人民崇敬の神社なるを以て、郷社に定められし處、蒔田村の氏子等訴訟のことあるを以て、姑く三社を以て一社と見倣し、式社と定め置るるの指令あり、猶よく確証を得て後に定むべきなり、」
と、伴氏神名帳考証、神社覈録 其他 新編武蔵風土記稿 等皆當社を以て式の椋神社とす。當社 維新以前 井椋五社明神と称す。
縁起に云く、
「抑當社鎮座 人皇十二代 景行天皇四十年、日本武尊 東夷征伐之時、巡 狩是國 山路杖 於矛、其矛忽放光、因號其所 曰 明光場(在當社二十町許)、又光飛而止、日本武尊怪到 其所時、老翁現 井邊椋本 曰、吾是猿田彦命也、吾欲 爲 嚮(向)導以 故臨 於此、因名 井椋社、即以 其矛 爲神體 祠 此神。(中略)六十一代朱雀院御宇、俵藤太秀郷、征伐平将門時、勧請春日四所與 地主猿田彦大神、合祭祈 誅伐、遂誅其一族、因建 五宇神殿、號井椋五所大明神」
と、降て元亀年中 兵火に罹り、社殿、神寶、古器、悉く鳥有に属せしが、天正三年 鉢形城主 秩父新太郎氏邦再建、元禄十二年本殿、修営、寛永五年拝殿修営共に棟札あり。
明治五年郷社に列せられしが、後ち縣社に昇格す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、境内2029坪境内老樹蒼鬱とし、古来大木を以て名あり。四面群山圍繞して展望に富み、境地宇受賣櫻ありて、春時爛漫たり。又境外所在地畑三反二十六歩は附属地として境内に使用せり。境内神社
神明大神社、疱瘡神社、稲荷大神社、産泰大神社(祭神 木花咲耶姫命)、天満天神社、白鳥大神社、諏訪大神社、琴平大神社
【原文参照】
吉田 椋神社 奥宮(秩父市下吉田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)