元宮天神社(磐田市見付)〈見付天神 矢奈比賣神社の元宮〉〈『延喜式』矢奈比賣神社〉

元宮天神社(もとみやてんじんゃ)は 延喜式内社 遠江國 磐田郡 矢奈比賣神社(やなひめの かみのやしろ)元宮〈古社地〉とされ通称「元天神」と呼びます 見付天神 矢奈比賣神社へ遷座は いつの時代かは不明ですが 元天神町という町名もこれに由来します 天下の奇祭「裸祭り」の最初の神事「祭事始」はこの地から始ります

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

元宮天神社(Motomiya tenjinsha
〈見付天神 矢奈比賣神社の元宮〉

通称名(Common name)

元天神(もとてんじん)

【鎮座地 (Location) 

静岡県磐田市見付1686-1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主祭神》矢奈比賣命(やなひめのみこと)

《相殿菅原大神菅原道公(すがわらのみちざねこう)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社の古社地

【創  (Beginning of history)】

元官天神社 由緒

 昔はこの地に矢奈比賣(やなひめ)神社(見付天神)が鎮座(ちんざ)されていたと伝えられています。そのことからこのお宮を通称「元天神」とお呼びしています。また、元天神町という町名もこれに由来するものです
この地から現在の矢奈比売神社(庄吉町)へ御遷座(せんざ)されたのは、いつの時代か分かってはおりません。

 この神社の祭典は矢奈比神社の例大祭(九月)の直前の日躍日に、昔からの慣例(しきたり)により矢奈比神社の宮司が榊(さかき)の芯枝に木綿(ゆう)を取垂(とりし)でて納め厳粛に執り行われます。これを「祭事始(さいじはじめ)」といい、天下の奇祭といわれる「見付天神裸祭(みつけてんじんはたかまつり)」の最初の神事であります。

 以前はこの境内にも多くの木々が茂って森となり、「祭事始」の夜に行われる「御斯葉(みしば)おろし」の榊は、すべてこの地から切り出すことになっておりましたが、現在は行われておりません。

御祭神

 矢奈比(やなひめのみこと)
 菅原道眞公(すがわらみちざねこう)

現社殿は平成十五 改築

現地案内板より

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【由  (History)】

『静岡県磐田郡誌』に記される内容

【抜粋意訳】

第十三章 神社及宗教

三 矢奈比賣神社(見付町)

【由緒】

續日本後紀に曰く。「仁明天皇 承和七年六月戊辰 奉授遠江國磐田郡無位 矢奈比賣天神從五位下」とあり。
又 三代實録卷四に「清和天皇 貞觀二年正月二十七日 授遠江國從五位上 矢奈比賣神 正五位上」とあり。

本町字磐田原に於て 今猶其の舊跡を存す。其の現在地に遷坐したる年代は詳ならず。

元祿年間の記書に、抑是は天神の御敷被成候天神平と申野に御座候。然る處、天神御息三男都にて見えさせ給はぬ故、都より御尋ね成候へども、遠江國見付天神平と申野に御座候由被聞召御院の御所より御勅使立申て 其後 見付近所鬼門に被爲立、見付の氏神と被爲成候。依て共町の名を見付と申候

毎年祭禮の時、古社地に榊納(此の神は今も猶 例祭の節 字元天神なる古社地へ納むる例なり) 仕来候。

見付國府天神社は、古より比佐麻理神と稱し、神領も古代は莫大にて田地三十八町有之し由、天正文祿の頃、右の神領悉く公田に成りしを、慶長八年中、家康公、比佐麻理祭を聞召され給ひ、神領五十石御寄附成給ひしより、四時の神事古代の儘に傳はれり。

右例祭を比佐麻利祭で唱ふれども、其の由来を詳かにせず。安政の際 或人は、比曾麻波里の傳略なるべしといへり。
舊八月十日夜丑の刻 一宿悉く燈火を消し、人聲を禁じ、神輿総社(見付町字宮小路鎮座 縣社 淡海國玉神社)へ行幸す。其前、氏子の者は濱垢離を取り、裸體に腰蓑を着け、各町順次拝殿に参集して跳舞を爲す。(天神の裸祭是なり) 八月十一日、神輿總社を発し町内を巡幸す。氏子の者は正服して神寶・弓矢・楯鉾・太刀・玉串等を奉持し供奉還社す。
又 里人古老の傳説には、火乎佐麻里の略なりといへり。總社の記録には飛曾鞠と書きたるものもあり。是に依りて考ふるに、静粛の意味より云ふ所の飛蘇鞠にはあらさるか、暫く記して疑を存す。

元祿十五年五月二十八日記書に、菅原朝臣命の別神璽を筑前國太宰府宮より當社に奉遷したるは、一條院正暦四年癸己八月十一日にして、磐田原北野天神平と申處に鎮座あり、御勅使拝し被成候處御院の馬場と申傳 流鏑馬あり、的場と申して正月十七日祭典有之、其の後 打施榊の枝に木綿取付て 元天神舊社地 並に両所へ納めたる古例にして、今尚ほ大祭の式に之を以て祭事の始とす。

裸祭の起原は 其の確實なる事は得て知る可らずと雖も、正和年間より始まれうと云ふ。例年舊曆八月二日の深更に祭事始の式を行ふ。之を「みしばおろし」と稱す。神輿の渡御に先だち神官は其の道路を清浄にするために、神官が潔斎して榊を慮々に立つるなり。爾後 氏子たるものは穢れを忌み、身神を清浄にし、女子經行の者は他所に避け、祭事の了るまで家に歸ることを許さず。此の風 維新前までは勵行せられたりき。今日に至っても葬式を行ふものは、神輿通行の道路を横きること能はず。

神事始より後七日にして濱垢離の行事あり。是れは祭典に参加するもの遠州灘の荒濱に至り、海に入りて水垢離を取り、身を浄めて家に帰り、齋戒沐浴して祭典を待つなり。かくて愈々 舊暦八月十日祭典の當日になりぬれば一發の煙火を合圖に男子たるものは、赤裸々となりて一條の褌を着くるのみ。新藁もて作れる腰蓑を引廻らし手拭にて鉢巻をなし、手に手に提灯を振りかざしつつ、各町の萬燈を先登としヨイョ ヨイョと掛聲をなして全町を練り歩るく、これを宵の祭といふ。午前二時頃に至り再び合圖と共に夜半の祭に移る。

是れ即ち眞の祭なり。月落つると共に三發の煙火を合圖に全町悉く燈火を滅して真の闇黒となり、其の間を神輿は烏帽子白張を着たる守護者に擁せられ、裸體の氏子も之に附随して飛鳥の如くに御旅所なる縣社 淡海國玉神社まで凡そ十町を渡御せらる。儀式崇高嚴肅人をして覚えず畏敬の念を興さしむ。此の祭典は暴風大雨と雖も未だ曾て其の定日を変ぜず、未だ曾て其の例刻を違へず、数百年間一日の如し。

されば泥酔して婦女子に戯るる者もなく、失神して負傷する者もなく、衣服を着飾りて金銭を浪費する者も無し。是れ所謂 裸祭の一斑なり。

【文書及記傳】

天神領之事

遠江國見付國府之内五十石任先期寄附也 並に社中 山林竹木諸役等 今免許訖神供祭禮無懈怠可勤仕之狀如件
慶長八年九月十九日

御朱印高仕譯之事

見付天神領事五十石被下侯御朱印之內七石者見附國府と被遊候得共前々小山に而取間如此に右之分取務可申也
慶長九年甲辰八年二十二日 伊奈備前守忠次

見付天神 神主殿

遠江風土記云
矢奈比賣神社在天神山奉稱 矢奈比費天神。朱符之神田高五十石。祭日八月十日同十一日。

○按山城風土記姓氏等 矢奈比實者 矢之姫而 御祖賀茂建角命是也。其御子別雷命分穿屋而升於天故稱申天神乎(註 豊田郡式内御祖神社下)
○續日本後紀(巻九仁明天皇)同承和七年六月授遠江國磐田郡无位矢奈比賣神從五位下
○三代實錄(卷四清和天皇)貞観元年正月二十七日授遠江國從五位上矢奈比賣神眞知神並正五位上
○按磐田原中有天神之古之地天神山者時代不知

○以上十座(磐田十四座中)所謂式內也
(十座とは淡海國玉神社、天御子神社二座、御子神神社二座、須波若御子神社、豐雷命神社、豐雷比賣命神社、生雷命神社及び矢奈比賣神社をいふなり)

【寶物】

一 天神縁起繪巻 五卷

【原文参照】

静岡県磐田郡教育会 編『静岡県磐田郡誌』,静岡県磐田郡,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/965680

静岡県磐田郡教育会 編『静岡県磐田郡誌』,静岡県磐田郡,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/965680

静岡県磐田郡教育会 編『静岡県磐田郡誌』,静岡県磐田郡,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/965680

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

元宮天神社 社殿

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・現在の見付天神 矢奈比賣神社

・見付天神 矢奈比賣神社(磐田市見付)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承

矢奈比賣天神と号して 神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

卷九承和七年(八四〇)六月戊辰廿四

○戊辰

奉授
遠江國
 周智郡 無 小國天神
 磐田郡 無 矢奈比賣天神に 從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

矢奈比賣神と号して 神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

卷四 貞觀二年(八六〇)正月廿七日戊寅

○廿七日戊寅

越前國 氣比神宮寺十僧定額


遠江

 從四位下 敬滿神正四位下
 正五位下 苅原河内神 小國神
 從五位下 鹿苑神に 從四位下
 從五位上 矢奈比賣神 眞知乃神に 正五位上

美作
 正五位下 中山神に 從四位下

散位外從五位下 大秦公宿禰此雄出雲介

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)遠江國 62座(大2座・小60座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)磐田郡 14座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 矢奈比賣神社
[ふ り が な ]やなひめの かみのやしろ
[Old Shrine name]Yanahime no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 遠江國 磐田郡 矢奈比賣神社(やなひめの かみのやしろ)の論社

・見付天神 矢奈比賣神社(磐田市見付)

・元宮天神社(磐田市見付)
〈見付天神 矢奈比賣神社の元宮〉

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR東海道本線 磐田駅から北上して約5.0km 矢奈比賣神社経由で 車で17分程度

元宮天神社(磐田市見付)
〈見付天神 矢奈比賣神社の元宮〉に参着

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社号標には゛元宮天神社゛と刻字があります

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 境内を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 矢奈比神社について 所在は゛見附に在す、今天神と称す、‘〈現 見付天神 矢奈比賣神社(磐田市見付)〉と記しています

【抜粋意訳】

矢奈比神社

矢奈比売は假字也

○祭神 明か也

○見附に在す、今天神と称す、(式社考、参考)

 式社考云、世俗 菅公ノ天神卜思フハ誤也、

神位
 續日本後紀、承和月戊辰、奉授遠江 磐田郡 无位 矢奈比天神 従五位下、
 三代實録、貞観年正月二十七日戊寅、授遠江國 從五位上 矢奈 正五位上、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 矢奈比神社について 所在は゛ 見附天神山にあり、矢奈比賣天神と云、‘〈現 見付天神 矢奈比賣神社(磐田市見付)〉と記しています

【抜粋意訳】

矢奈比賣(ヤナヒメノ)神社、

 見附天神山にあり、矢奈比賣天神と云、〔遠州一統志、巡拝舊祠記、式社摘考、遠江風土記傳〕

仁明天皇 承和七年六月戊辰、無位 矢奈比賣天神に從五位下を授け、〔續日本後紀
清和天皇 貞観二年正月、戊寅、従五位上より正五位上に叙さる、〔三代実録〇按 本書 従五位上に進みし年月、今考ふる所なし、〕

 八月十日十一日祭を行ふ、〔巡拝舊祠記、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 矢奈比神社について 所在は゛見付宿〔大字天神山平〕(磐田郡見附町大字見付宿)‘〈現 見付天神 矢奈比賣神社(磐田市見付)〉と記しています

【抜粋意訳】

矢奈比賣神社

祭神 矢奈比賣命

神位
 仁明天皇 承和七年六月戊辰 奉授に遠江國 磐田郡 無位 矢奈比賣天神に従五位
 请和天皇 貞觀二年正月二十七日戊寅 詔授に遠江國 従五位上 矢奈比賣神正五位上

祭日 八月十日十一日

社格

所在 見付宿〔大字天神山平〕(磐田郡見附町大字見付宿

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

見付天神 矢奈比賣神社(磐田市見付)ついて 式内社 矢奈比賣神社であると記しています

【抜粋意訳】

〇靜岡縣 遠江國 磐田郡見付町大字見付宿字天神平

縣社 矢奈比賣(ヤナヒメノ)神社

祭神 矢奈比賣(ヤナヒメノ)

相殿 菅原道眞(スカハラノミチザネ)

合祭 底筒之男命 中筒之男命 底筒之男命(住吉神社) 火之迦具土命(愛宕神社)

 一に天神ともす、創立年代詳ならずといへども、延喜の制小社に列せらる、是より先、日本後紀に、
「承和月戊辰、奉授遠江国磐田郡 无位 矢奈比賣天神 従五位下」と見え、
三代實録には、貞観年正月二十七日、從五位上より正五位上に進み給へること見えたり、
遠江国式内社摘考に云く、「矢奈比神社、見付の天神是なり、日本後紀云云、今世俗、菅公の天神なりとおもへるは誤なるべし」

神名帳考証に云く、「式考云々、信友按、後紀に、矢奈比天神とありて、古くより天神とし玉へり、天神と云ふは素より也、云々、それを、菅公の神祠とおもへる例、々に多し、心をつくべき也」
元と磐田原中に御鎮座あらせられしが、年月不詳、今の地に遷御あらせられしと。

遠江風土記伝に云く、「按、磐田原中有謂天神之古社之地、移天神山者、時代不知」

元禄年間の記にれば、相殿 菅原道は、正暦年、筑前の太宰府より勧請せるものにして、神領元と三十八町を有せしも、天正、文禄の際 没収せられたるが如し、然れども尚 神領若干を有せしにやあらん、徳川家康 慶安年、先規に任せ、社領として朱印五十石を寄進せり、

諸社御朱印写に云く、
「天神社領、逡江 豊田郡見付國府之内五十石事、任慶長十九日、元和十七日、寛永十三十一日、先判之旨、永不可有相違者也」
明治元年日、植松少將、勅使として参向、金幣御奉納ありしが、月縣社に列す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神庫、社務所、接待所等を具備し、境内は千五百七十坪(官有地第一種)を有す、老樹森をなし、昼尚ほ暗し。

境内神社
 山神社 氷室神社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

元宮天神社(磐田市見付)
〈見付天神 矢奈比賣神社の元宮〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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遠江国 式内社 62座(大2座・小60座)について に戻る

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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