物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉〈延喜式内社〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 古代この地方を支配した物部氏の一族 新家氏の氏神とされます 寛保元年(1741)の洪水により 古記録等が流失し創立当時の確かな記録はないが 当社は所替せず古来の地にあると云う 〈山辺の行宮〉の跡地ともされる 延喜式内社 伊勢國 壹志郡 物部神社もののへの かみのやしろとされます

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

物部神社(Mononobe shrine)〈山辺の行宮〉

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県津市新家町 563

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》宇麻志摩遅命(うましまじのみこと)

《配》建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)
   彌都波能(みつはめのみこと)
   大己貴命(おほなむちのみこと)
   應神天皇(おうじんてんのう)
   仁徳天皇(にんとくてんのう)

《合》五男三女神天忍穂耳命,天菩卑能命,天津彦根命,活津日子根命,熊野久須毘命,多紀理毘売命,市杵島比売命,多岐都比売命,菅原神,火之加具土神

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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

物部神社(もののべじんじゃ)

 式内社、古代この地方を支配した物部氏の一族 新家氏の氏神であった。

 しかし、1742年(寛保2)、雲出川の洪水に苦しむ新家集落は北の高台に集団移住した。このとき、旧地の守り神として残した。

 山辺の行宮(あんぐう)・一志頓宮(とんぐう)説・山辺の御井(みい)伝承地として話題の多い神社である。

久居地域の名所•旧跡のガイド』津市より

『久居地域の名所•旧跡のガイド』津市より

【由  (History)】

由緒

 創立は不詳

 山辺の行宮 式内物部神社と往昔より言い伝え 上世の記録などもあったが 寛保元年(1741)七月二二日洪水により村落の西にある雲出川の堤が切れ、家屋浸水 巻物など書籍類も残らず流失した。
 以後 居住できなくなったため村人は現在の地に移住したので創立当時の確かな記録はない。しかし、当社は所替せず古来の地にある

 また、明治四年室月の神社御改のため考証の類を探索したが見出すことはできなかった。
 その後 縁起を記した巻物が出現したが、その文には「伊勢國一志郡新家村山辺行宮、祭神牛頭天王一座素戔嗚尊荒魂也、又餘地有、八王子宮即ち是れ天王之末社也。山辺の行宮は止由気大神遷幸、山田原へ渡過の時、一宿の旅館、是れその地也。
  崇察する伊勢國一志郡新家村 山辺の行宮は旧記に云う 大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)朝倉の宮に天下を治めす二三年巳未年(485)七月七日行の宮に奇妙なる光有り。村の長、行手見ければ光の中に暴形現れ、村長等に告て曰く、吾は是、素戔嗚の荒魂なり。皇太神の旅道守護のために出でて副い来りぬ。自ら今以て後 此地に留止りて慈恵を分け布かん。もと此処は吾、昔、根の国より帰らんと欲する日、少しの間在地也と。故に村俗等集まりて新たに其宝殿を経営す云々。
 行宮の名義久しきに至り、遠くに至り、納むる所の什宝霊物、世の乱に逢い詣方遠ち近ちに散在、其後を失し終わりぬ。惜しき哉。
上古の記録 星霜古きを数え、或は筐裡に朽ち、或は紙魚となり神家の如く古老伝来また代々遺漏、詳かならず。今僅に伝来旧記の片篇一〇之一存するを拾えば今日は所録左の如し云々。」とある。

 現在 宮域内の南中央に長さ一メートル余り、幅二二.五センチメートルの南面に「行宮」北面に「やまべかりの宮」と刻された標石が建つ。これが「豊受大神宮御鎮座本記」に「山辺行宮に御一宿。今一志郡新家村と号す。」とあるのに当り、また、「元元集」にも同文がみえる。
ただし山辺行宮の称号は、当地が山林であって清浄な土地であるために御一宿座まして山辺の行宮と称したことによる。この社地の西、畑の字を西林と称していることからもわかるようにこの辺は山林であったので山辺、或いは石林と称したものであろう。
 また、宮域の東北に「山辺の御井の旧跡」という小塚がある。毎年一月一日にしめ縄を張り不浄を禁じる。
 また、式内物部神社と称するのは 村民が往昔より言い伝えるところによると 祭神は建速須佐之男命と中興以来 御改帳へ書き載せていたが、神殿内には二座祀られてあった。これは、物部連公、新家連公がかつて在邑して その祖先の宇麻志摩遅命を相殿に祭祀したのである。また村名も同様に起因するということである。

三重県神社庁HPより
https://jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63909

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

物部神社 社殿

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物部神社 本殿覆屋

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物部神社 拝殿

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・山神の石神さん

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山辺の行宮 の石碑

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・二の鳥居

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・社頭・一の鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壹志郡 13座(大3座・小10座))

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 物部神社
[ふ り が な ]もののへの かみのやしろ
[Old Shrine name]Mononohe no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「物部神社」の名称を持つ式内社の論社について

太古の大和朝廷では 物部氏は 神道を奉じ軍事を司る氏族として「八十物部(やそのもののべ)」と云われ 絶大な勢力を保持していました
その後 神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります

『延喜式(Engishiki)』(927年12月編纂)の時代となっても かつての物部氏の勢力の大きさを示すように 広範囲に物部の神社は分布しています

東海道

「伊勢國 飯高郡 物部神社」 

・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈合祀〉

「伊勢國 壹志郡 物部神社」 

・物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉

「尾張國 春日部郡 物部神社」 

・味美白山神社(春日井市二子町)〈合祀〉

・味美二子山古墳(春日井市二子町)〈旧鎮座地〉 

・諸大明神社(春日井市松本町)

・八所神社(豊山町豊場木戸)

「尾張國 愛智郡 物部神社」 

・物部神社(名古屋市東区筒井)

・御器所八幡宮(名古屋市昭和区)

「甲斐國 山梨郡 物部神社」 

・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉

・物部神社(笛吹市石和町)

・大石神社(山梨市西)

・大石神社(甲州市塩山赤尾)

・白山建岡神社(山梨市上栗原)

「武蔵國 入間郡 物部天神社」 

・北野天神社(所沢市小手指元町) 

東山道

「美濃國 厚見郡 物部神社」 

・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)

・伊奈波神社 旧跡(岐阜市赤ケ洞)

・岩戸八幡神社(岐阜市長森岩戸)

・岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈参考論社〉

北陸道

「越中國 射水郡 物部神社」 

・物部神社(高岡市東海老坂)

「越後國 頸城郡 物部神社」 

・物部神社(上越市清里区)

「越後國 三嶋郡 物部神社」 

・二田物部神社(柏崎市西山町)

「佐渡國 雑太郡 物部神社」 

・物部神社(佐渡市小倉)

山陰道

「丹後國 與謝郡 物部神社」 

・物部神社(与謝野町石川)

「但馬國 城崎郡 物部神社」 

・韓國神社(豊岡市城崎町)

「石見國 安濃郡 物部神社」 

・物部神社(大田市)石見国一之宮

山陽道

「播磨國 明石郡 物部神社」 

・可美真手命神社(押部谷町細田)

・惣社(神戸市西区伊川谷町)

西海道

「壱岐島 石田郡 物部布都神社」 

・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉

・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉

・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄名古屋線 桃園駅から線路沿いに南下して約2.4km 車で4~5分

物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉に参着

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社号標には゛式内 物部神社゛と刻字あり

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一礼をして 鳥居をくぐります

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鳥居の正面にあったのは石碑でした

碑に刻まれている文字は゛式内 物部神社御造営記念碑゛

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ここで 参道は直角に右に折れています
社頭は東向き 社殿と境内は南向きになっています

境内には 二の鳥居が建っています

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二の鳥居をくぐり抜けると 石燈籠の先に 屋根付きの注連柱だろうか? その先に狛犬 拝殿が建てられています

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拝殿にすすみます

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自然木の切り株板に゛式内 物部神社゛と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 振り返ると 御再建記念碑の裏には 平成二十三年十一月吉日とあり 住友エレクトロニクス株式会社 氏子中 と刻字されています

住友エレクトロニクス株式会社は 境内隣の工場で御寄進をされたようです
2011年に住友電装株式会社に合併されています

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境内を戻ります

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南を向いている二の鳥居をくぐり戻ります

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社頭は東向きですので 参道を左に折れて 一の鳥居をくぐり表に出ます

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 物部神社について 所在は゛新家(ニヒノミ)村に在す゛〈現 物部神社(津市新家町)〉と記しています

【抜粋意訳】

物部神社

物部は毛乃々倍と訓べし

○祭神 宇摩志麻治命、考証

○新家(ニヒノミ)村に在す、考証俚諺、〕

類社
 當 飯高郡 物部神社の條見合すべし

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 物部神社について 所在は゛今 新家村にあり゛〈現 物部神社(津市新家町)〉と記しています

【抜粋意訳】

物部神社

今 新家村にあり、〔神名帳考証、神名帳検録〕

盖 物部氏の族 新家連の祖神を祭る、〔参酌舊事本紀、延暦儀式帳〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 物部神社について 所在は゛(一志郡桃園村大字新家)゛〈現 物部神社(津市新家町)〉としていますが 新家村であるとも定められない と記しています

【抜粋意訳】

物部神社

祭神
祭日
社格(村社)

所在(一志郡桃園村大字新家)

 今按るに 檢錄に傍注考證以下の諸書に舊事紀の物部竺志連公 新家連等祖とあるに依て 新家村に配すれど 其社は豐受大神遷幸の日 一宿ありし山邊 行宮の舊跡と云へり
 飯高郡 物部神社と同く 孝昭天皇々子 天押帶彦國押人命の後なる物部首の氏神にて 壹師君 飯高君と同祖なる物部神社なるべしといへるに依て 見る時は 新家村にも定がたし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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