三宅神社(みやけじんじゃ)は 鎮座地が゛國司の宅址゛であり゛屯倉(ミヤケ)の跡地゛と伝わるので 式内社〈①伊勢國 鈴鹿郡三宅神社②伊勢國 河曲郡 大鹿三宅神社〉の論社とされ゛伊勢國總社゛とも呼ばれます 更に 明治41年(1908)に式内社③江神社の論社゛樫木大明神゛を合祀しましたので 現在は 三つの式内社の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
三宅神社(Miyake shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県鈴鹿市国府町 1609
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》國常立之命(くにのとこたちのみこと)
大國主命(おほくにぬしのみこと)
《配》八幡大神,住吉大神,神日本磐余彦命,菅原天神,綿津見命,奥津彦命,奥津比賣命,罔象女神,泉事解男命,速玉男命,軻遇突知命
《合》猿田彦命,天照皇大神,伊弉冉命,伊邪那岐命,須佐之男命,大山祇命,木花咲久耶姫命,若狭比賣命,市杵島姫命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 伊勢國總社
【創 建 (Beginning of history)】
『三重県鈴鹿郡勢要覧』大正3年(1914)に記される内容
【抜粋意訳】
三 名勝舊蹟 國司宅址
國府村大字國府字貝下ニ在リ 天智天皇ノ時 三宅連石牀 本州ノ國守トナリ 此ニ居ル 屯倉モ亦此ニ在リシト傳フ 三宅神社ノ境内 即チ是ナリ
【原文参照】
【由 緒 (History)】
由緒
社伝によれば延喜式内社、伊勢国鈴鹿郡 三宅神社と伝へ、又官幣を当地に納めし故に惣社と祢したと云われている。
江戸時代には[惣社明神]と通称され、『亀城園記』に「惣社明神 社頭附(以下略ごと記され『九九五集』『亀府墜志』等も同様に「惣社明神」とあるように、古来「惣社」として崇敬されていた.近世に入ると、亀山藩は、城主歴代供料として、田一反を寄進する等その崇敬は篤く、又元和元年(一六一五)以降江戸時代を通じ、社殿の造営もたびたび行われている。三重県神社庁・皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会HPより
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63780
スポンサーリンク
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・社殿〈本殿・幣殿・拝殿〉
・拝殿
・境内 山神
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
三宅神社(鈴鹿市国府町)は 三つの式内社の論社です
①(伊勢國鈴鹿郡 三宅神社)
②(伊勢國鈴鹿郡 江神社)(明治41年(1908)合祀の樫木大明神)
③(伊勢國河曲郡 大鹿三宅神社)
①(伊勢國 鈴鹿郡 三宅神社)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 三宅神社
[ふ り が な ](みやけの かみのやしろ)
[Old Shrine name](miyake no kaminoyashiro)
②(伊勢國鈴鹿郡 江神社)(明治41年(1908)合祀の樫木大明神)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 江神社
[ふ り が な ](えの かみのやしろ)
[Old Shrine name](e no kaminoyashiro)
【原文参照】
③(伊勢國 河曲郡 大鹿三宅神社)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大鹿三宅神社
[ふ り が な ](おほかのみやけの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohokano miyake no kaminoyashiro)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
三宅神社(鈴鹿市国府町)は 三つの式内社の論社です
①(伊勢國鈴鹿郡 三宅神社)
②(伊勢國鈴鹿郡 江神社)(明治41年(1908)合祀の樫木大明神)
③(伊勢國河曲郡 大鹿三宅神社)
①伊勢國 鈴鹿郡 三宅神社(みへの かみのやしろ)の論社
・三宅神社(鈴鹿市三宅町)
・三宅神社(鈴鹿市国府町)
②伊勢國 鈴鹿郡 江神社(えの かみのやしろ)の論社
・三宅神社(鈴鹿市国府町)
〈明治41年(1908)三宅神社(鈴鹿市国府町)に合祀 樫木大明神)〉
・江神社(亀山市下庄町)
③伊勢國 河曲郡 大鹿三宅神社(おほかの みやけの かみのやしろ)の論社
・神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)に合祀
・大鹿三宅神社(鈴鹿市池田町)
・三宅神社(鈴鹿市国府町)
・三宅神社(鈴鹿市三宅町)
・菅原神社(鈴鹿市国分町)
スポンサーリンク
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR関西本線 亀山駅から東へ約6.5km 車12分程度
三宅神社(鈴鹿市国府町)に参着
社号には゛伊勢國總社 三宅神社゛と記されています
社号標の石碑には゛延喜式内 三宅神社゛と刻字されています
一礼をして鳥居をくぐり 手水舎にて清めます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿が建ち 漆喰の御塀に囲まれて 本殿が鎮座しています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 三宅神社について 所載は゛国府村に在す、〔俚諺〕今總社と称す゛〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〉と記しています
【抜粋意訳】
三宅神社
三宅は彌夜気と訓べし
○祭神 三宅連祖歟
○国府村に在す、〔俚諺〕今總社と称す、
○日本紀、天武天皇元年六月、越ニ大山至伊勢鈴鹿、爰國司守三宅連石床、〔中略〕等参ニ遇于鈴鹿郡、」
姓氏録、〔右京諸蕃下〕同、〔摂津國諸蕃〕三宅連、新羅國王子、天日桙命之後也、多氣窓螢云、三宅伊勢橡種名といふ者、南方の御祈祷とて、三宅の社建ける時、彼御事申なげぎぬ、云々、」
雑記に、三宅村にあり、千力大明神といふ、と云るは當らず、こは奄芸郡にて、同書に、加和良神社なるよしいひおきて、また當社也と云るは何の事ぞや、類社
遠江國引佐郡、丹波國桑田郡、丹後国加佐郡三宅神社、(各一座)越後國古志郡三宅神社二座、当國河曲郡大鹿三宅神社、
式内社 江神社について 所在は゛下之庄村に在す゛〈現 江神社(亀山市下庄町)〉と記しています
【抜粋意訳】
江神社
江は假宇也
〇祭神 宇加御玉命歟
○下之庄村に在す、〔俚諺〕考証の説信用しがたし、
〔連胤〕按るに、内宮所摂江神社同躰なるべし、類社
当国度會郡江神社の條見合すべし
【原文参照】
式内社 大鹿三宅神社について 所在と祭神は゛祭神在所等詳ならず゛と不明と記しています
【抜粋意訳】
大鹿三宅神社
大鹿は於保賀、」三宅は美夜氣と訓べし
○祭神在所等詳ならず
考証に、神宮雑事記云、河曲郡神戸預大鹿武則、大鹿與中臣同祖、此郡氏人如此、と云り、
〔連胤〕按るに、大鹿氏は、姓氏録〔未定雑姓右京〕にも大鹿首と見えたれど、今は地名を冠らせたるにて、三宅神を主と祭れる事は明らかにて、此例多くあり、されば大鹿首祖神にはあらで、三宅連の氏社なるべし、類社
当國 鈴鹿郡 三宅神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 三宅神社について 所在は゛今 奄藝郡 三宅 長法寺 二村の界に在り、千力大明神と云ふ、゛〈現 三宅神社(鈴鹿市三宅町)〉と記しています
【抜粋意訳】
三宅神社
今 奄藝郡 三宅 長法寺 二村の界に在り、千力大明神と云ふ、〔勢陽雑記、三重縣神社調、〕
蓋 三宅連の祖 天日杵命を祭る、〔日本書紀、新撰姓氏録〕
式内社 江神社について 所在は゛國府村 城山にあり゛〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〈明治41年(1908)三宅神社(鈴鹿市国府町)に合祀 樫木大明神)〉と記しています
【抜粋意訳】
江(エノ)神社
今 國府村 城山にあり、
凡 九月二十一日祭を行ふ、〔龜山藩神社取調帳、三重縣神社調、〕
【原文参照】
式内社 大鹿三宅神社について 所在は゛國府村 天神山にある天神盖是也゛〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〉と記しています
【抜粋意訳】
大鹿三宅(オホカノミヤケノ)神社
今 國府村 天神山にある天神盖是也、〔式内社検録、〇按本書引進状、當御國内 大鹿村を廃て、国文村と唱ふる事知へし、〕盖伊勢大鹿首の祖 天兒屋根命を祀る、〔古事記、日本紀、神宮雑事記、東鑑、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 三宅神社について 所在は゛今属 奄藝郡〔長法寺村 三宅村〕両村彦神゛〈現 三宅神社(鈴鹿市三宅町)〉と記しています
國府村〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〉との説についても 考証していているが 総社であって 式内社ではないであろうと記しています
【抜粋意訳】
三宅神社 稱 千力大明神
祭神
祭日
社格 村社所在 今属 奄藝郡〔長法寺村 三宅村〕両村彦神
今按るに傍注に國府村 山津利波明神乎と云へるに依て 以下の諸書 國府の總社 山津利波明神に配す
然れとも諸國の國府に總社と唱へて造立するものは 長寛元年撰の白山記に凡國々に必す總社あり 總社(スヘヤシロ)と名付る事は 毎月朔日毎に國の勅使國の八社に詣て奉ニ御幣ヲ奉ニ禮ス之テ彼八社廻る事有ルニ其煩一間一所 に奉ル祝之故ニ總社と名付ル也と注する如く 後世國の朔 幣を略して府中に造営する社なれは 延喜撰式の頃には 未だなかりしものなれは 總社を式社には填つへからす
又 案内記以後の書には 三宅村八王子に配す 然れとも其 八王子は元龜年中 三宅駿河守江州日吉八王子を勧請する所なりといへは 新地にて振古の祠にはあらす
又 宮地紀遺響等に長法寺村の五所稻荷といふ祠を本社に配する説あれと妾談なり 然るに勢陽雜記 三國地志 五十鈴遺響等に長法寺三宅両村の巽位一町許に在り千力大明神と唱ふ社殿 髙大兆域舊風を存す 天文十六年元龜元年の棟札あり 各千力大明神と稱す 舊昔は三宅 長法寺一村にて鈴鹿奄藝の郡界 中の川より北に在て 三宅村と號し 長法寺の近隣を長法寺垣外と號せしに 天文の頃 三宅駿河守平盛遠 三宅より出て中の川を南に超え 奄藝郡の北極なる山に城を築き居り 故に村民も其城下に遷居す 其舊趾を三宅塚と唱ふ 此時より三宅長法寺二村に別る 併三宅山正樂寺 今猶 長法寺村中にあり 是を以見るときは 産神も寺院と同く 本所に存するなれは 三宅神社は 右二村の産神たる事昭明なり 併長法寺も三宅氏の領内なる故 私に奄藝郡と稱するにこそ 中の川以北は 舊くは鈴鹿郡たる事地勢を見れは分明ならまし 依て千力大明神を本社に配せり
式内社 江神社について 所在は゛國府村(鈴鹿郡国府村大字平野)(現今同村 国府村社 三宅神社に合祀)〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〈明治41年(1908)三宅神社(鈴鹿市国府町)に合祀 樫木大明神)〉と記しています
【抜粋意訳】
江神社
祭神
祭日 九月二十一日
社格 村社所在 國府村(鈴鹿郡国府村大字平野)(現今同村 国府村社 三宅神社に合祀)
今按るに
傍注考證等には 國府村 加多伎明神に配し 案内記には 下ノ庄村江の宮とし 遺響宮地記等には 同村 井出明神に配し 雜孟拾遺には 小歧須村に在とす 上件の各社 明證あるにあらす 併龜山藩神社調書に垂仁天皇御字 大神宮奈具波志山に遷幸の時 桑名野代宮より 御船にて鈴鹿川を登り玉ふ 其頃は入江なりけん 今は廣き沼田となり ー野餘川上に船塚碇塚などあり 今も洪水の時は満て入江の如しと云へり 依て姑くこれに從ふ
【原文参照】
式内社 大鹿三宅神社について 所在は゛國分村゛〈現 菅原神社(鈴鹿市国分町)〉と記しています
三宅村千カ明神〈現 大鹿三宅神社(鈴鹿市三宅町)〉と
國府村〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〉の2説については ゛本郡の神社を配すへき地勢にあらす゛と記しています
池田村〈現 大鹿三宅神社(鈴鹿市池田町)〉については ゛偽造なる事著し明なれは 信受し難し゛
神戸十日市町〈現 神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)〉については゛全く地志の臆説にー屑を增したる妄作なり論するまてもなき事゛と記しています
【抜粋意訳】
大鹿三宅神社
祭神 津速塊命
大日孁貴今按るに姓氏録 大鹿首津速塊命 三世孫 天兒屋根命之後とみえ 明細帳に津速塊命を祭るとあるを合せ考えるに大鹿氏の 此に住て祖神 津速塊命を祀れるならむ 大鹿首の事件は古事記 日本紀 續日本紀 神宮雑事記 東鑑等に見えて 本郡に貫せる趣著明なり 其祖神を祀る所とすへし
祭日
社格
所在 國分村今按るに 傍注には三宅村千カ明神に配す 考証再考雑記伊謬等の諸書これに從ひ 又按内記徴古録等には國府村に在りと云へり 此二説は鈴鹿都の村邑にて西界を去る事梢遠し本郡の神社を配すへき地勢にあらす
又地志には 神戸村 神館社に塡つ 是亦無證の臆説にて信するに足らす
又明細帳には 池田村と神戸十日市町とに在とす
池田の社は棟札に奉上曹大鹿三宅神社日天八王子云々慶應十二年九月二十日其余文祿寛永正保承應元文等の札あるを證とす 其札を檢するに筆跡新くして皆同手に出つ木も今の飽を以て屑り慶長文祿のものに非す 中戸村の神官の預る社にて彼狡黠者の偽造なる事著し明なれは 信受し難し又十日市町の社は 民家の後河涯編小の地に在り近年まて山神と唱へて 樹下に石のみたちたりしに小祠を遣り覆て 本社の遺跡と云出てたるにて 全く地志の臆説にー屑を增したる妄作なり論するまてもなき事なり
依て考ふるに神宮雑書所載 建久三年八月 日注進狀云 山邊御薗二宮給主散位大鹿國忠 當御園の内 大鹿村號ニ國分寺領ト申ニ下ス院宣之間 恒例供祭上分之勤所ニ減少スル也と見えたる 山邊御園は神鳳鈔に山邊御園外宮 山邊新御園内宮と載たる地にて 本郡山邊村を云ふ其村の北に國分村あり天平年中各國に建られし國分寺の廃跡にて近年まて當慶山國分寺と號する小堂も存したりき 建久の頃 其國分寺の領なる旨の院宣を申下して大鹿村の名をき廃し國分村と唱ふる事 右の證文の如くなれは 今の國分村古の大鹿村にて大鹿首の氏人 累代居住し國務に預れる 故に其氏組を祀る祠を大鹿三宅神社と稱せしにこそ村南に今も大鹿塚と唱ふる大墳あり小塚は其数を知らす 産神社は北西の山に在り 其南に氏長者の宅趾あり 社字は天神神明権現の三區なり 其天神は北野天満天神にはあらで 大鹿の氏祖の犬神を祭るなれは 此社をは本社の遺在と定むへきなり
〔但し 其社 後に井ノ谷といふ字あるを以て 飯野神社に配する説もあれど 古を稽へざる妄言なり 従ふへからず〕
【原文参照】