御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ)は 伝承では 第14代仲哀天皇が熊襲征伐にあたり前戦を廻られて流矢に当られて崩御されたが 深く秘して仮に御殯葬申上げた行宮跡で 神功皇后が三韓征伐にあたり天皇の御魂代の石を軍船に乗せ戦勝 凱旋の時 この地に甲冑御衣を納め三韓鎭撫神として この石を祀ったものが 御勢大靈石(みせのおほみたまいし)と伝えられます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
御勢大靈石神社(Misetaireiseki shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
福岡県小郡市大保1032
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》足仲彦大神(たらしなかつひこのおほかみ)〈第十四代 仲哀天皇〉
《相殿》
天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)
八幡大神(やはたのおほかみ)
春日大神(かすがのおほかみ)
吉富大神(よしとみのおほかみ)〈七三八年の創建者〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
御勢大霊石神社
延喜式神名帳筑後国四社一小社
所在地 福岡県小郡市大保字龍頭一〇三二番地
主祭神 足仲彦大神(十四代仲哀天皇)
副祭神 天照皇大神 八幡大神 春日大神 吉富大神御創立 神功皇后 摂政二年
由緒
皇統十四代 仲哀天皇 筑前国橿日宮にて崩マレ又、皇后天皇の御手代として姑く男貌も 假り石を以て 御形代として之を奉し 三韓を征し給うに三韓不日に服從す。
御凱旋の後 大保の郷に宮柱太敷立て 此の石を祭り給い
御勢大霊石神社と崇らる。
社前に御剱、御衣を納め給う。これを御本體と稱す。標柱に「史蹟 仲哀天皇殯葬傳説地」とある。
境内地末社
一、粟島神社(又の名は 淡島神社)祭神 少彦名命
二、成末神社 御勢大霊石大神の荒御魂
三、秋葉神社(又の名は 愛后神社)祭神 火之賀具土神四、天神社(又の名は 宇迦之御魂神社)祭神 保食神
境外末社
白鳥神社 旧御神幸の下宮として奉斎その他 勅使御館之跡勅使下向の時 御招請の御館。今は、名のみを残す旧蹟なり。
御祭礼日
一月一日 歳旦祭
二月三日 節分祭
二月六日 粥占い神事
四月十五日 石祭
七月三十一日〜八月二日 大祓夏祭 茅の輪神事
九月十三日 粟島神社例祭
十一月十五日 七五三祭
十二月十四日 例大祭平成十一年七月吉日 御勢大霊石神社
現地案内板より
【由 緒 (History)】
『福岡県神社誌』中巻〈昭和20年〉に記される内容
【抜粋意訳】
縣社 御勢大靈石神社
三井郡三國村大字大保字龍頭
祭神
足仲彦天皇、天照大神、八幡大神、吉富大神、春日大神由緒
神功皇后二年創立、社説に曰く 天皇 筑前國橿 日宮にて崩ましぬ 皇后姑く男貌を假り石を以て御形代とし之を奉し 三韓を征し給ふに三韓不日に服す 御凱陣の後 大法の郷に宮柱太敷立て此石を祭り給ひ 御勢大靈石神社と崇らる 社前に御劍御衣を納め給ふ これを御本體所と稱す 勢は夫にて皇后よりの尊親の稱御魂代の石なればなり、欽明天皇、天武天皇、宇多天皇、鳥羽天皇、高倉院の御宇再興、文明二年領主筑紫興門再建 天正十四年兵火に罹て社殿焼失す 同十七年仮殿造立 天和二年舊領主有馬伊豫守豊範正殿拜殿再建 其後造營材木は舊久留米藩より 雑費は御井御原兩郡割符を以て仕來候、式内小社、明治六年三月十四日郷社に定められ。明治二十九年七月十七日縣社に列せらる。尚社説に述ぶる所次の如し、
亦傳説に曰く、仲哀帝熊襲親征伐に當り、橿日の本陣より此地に軍を進め給ひ、寳満川と垢離川の合流地大保が、白州にして清浄の地なれば、先づ天神地祇を祀り假陣所となし軍を督し給ふ。一日近臣を従へ志気を鼓舞せんため、前戰を廻り給ひ、黄昏時に及び御歸還の途流矢に中り給ふ、近臣等驚き假宮に御伴し御看護申上たるも日ならず崩御ましました時恰も激戰中にて志気の沮喪を畏れ、深く秘して仮に御殯葬申上げたり。(今の御本體所)戰一段落に及び軍を纒め、御崩御を布告し御靈柩を橿日に遷し奉りぬ。皇后御凱陣後天皇の御形代を魂代とし、甲冑御衣を納め三韓鎭撫神として祀り給ひぬ。
例祭日 十二月十四日
神饌幣帛料供進指定 大正十一年九月七日主なる建造物 拜殿、幣殿、神殿、寳倉、社務所、接待所
主なる寳物 縁記二巻、太刀一口境内坪数 千二百十坪
氏子區域及戸数 三井郡三國村大字大保一部落、戸數七十三戸境内神社 成末神社(仲哀天皇荒魂)粟島神社(少彦名命)牛天神社(保食神)
【原文参照】
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿〈拝殿 幣殿 本殿〉
・成末神社《主》仲哀天皇荒魂
・粟島神社《主》少彦名命
・御神木
・牛天神社《主》保食神
・秋葉神社《主》火之加具土神
・恵比須神
・猿田彦神
・史跡 仲哀天皇殯葬傳説地
此の地 龍頭の由来
由緒によれば神社創建は神功皇后二年(世紀二〇二年)仲哀帝、熊襲親征に当り橿日宮(香椎宮)の本陣よりこの地 長栖(大保)に軍を進められた。
清浄な宝満川周辺の地を好まれこの地「龍頭」に天照大神を祀られ仮陣地に定められたと伝えられている。そこでこの聖地に植栽されている松の木は”臥龍松”として生長しています。
この地にふさわしいものです。
御参拝の皆様の昇龍(昇運)願って臥龍松を見守って居ます。
合格祈願
家内安全御勢大霊石神社神社総代会
建植寄進 佐々木良蔵
現地説明立札より
子孫繁栄御神木
この御神木は、仲哀天皇の御霊石に支えられ、楡欅(にれけやき)、もちの木、榊の木が奇跡的に三位一体となり合体し雄大に日々生長しているのです。
神聖な境内に存在する故と思われます。
地域社会の宝として生長を御守します。ご参拝の皆様へ
子孫繁栄
良縁結び
家内安全ご祈願の程御願い申し上げます。
御勢大霊石神社現地説明立札より
・参道の狛犬
・手水舎
・二の鳥居・御神橋
・社頭の鳥居
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・白鳥神社《主》日本武尊
父君の神霊白鳥と化し天に昇り、願くは白鳥を得て陵域の池に養はむ。当社も是を模して池を造り白鳥を飼いし所なり。総称して、白鳥島と言伝へたり。現在は年一度の御神幸は途絶えているが古昔は例大祭の御神幸の下宮として使われし所也
神社パンフレットより
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑後国 4座(大2座・小2座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)御原郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 御勢大霊石神社
[ふ り が な ](みせのおほみたまいしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Miseno Ohomitamaishi no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
神功皇后 仲哀天皇の伝承地 御勢大靈石神社について
御勢大靈石神社の社説によれば
伝承によると 主祭神の第14代仲哀天皇が 熊襲征伐にあたり 橿日〈香椎宮〉の本陣より此地に軍を進められた 寳満川と垢離川の合流地である大保が 白州であり清浄の地であったので 先づ天神地祇を祀り 仮陣所となし軍を督し給ふ行宮(あんぐう)をここに設けたと云う ある一日 近臣を従へて 軍の志気を鼓舞するため 前戰を廻られて 黄昏時となり御帰りの途中に流矢に当られてしまつた 近臣らは驚き仮宮に御伴して 御看護申上たが 幾日かで崩御されてしまわれた 時あたかも激戰中であつたので 志気の低下を畏れて 深く秘して仮に御殯葬申上げた(今の御本體所)
熊襲征伐の戦いが一段落ついて軍を纒め 御崩御を布告して 御靈柩を橿日〈香椎宮〉に遷し奉り発喪 皇后の神功皇后は その後 三韓征伐にあたって御魂代(みたましろ)の石を軍船に乗せ 仲哀天皇の鎧と兜を着せて征途につき 戦勝し凱旋すると その石を天皇の御魂代として 甲冑御衣を納め三韓鎭撫神として祀ったと伝えられます
この石が 御勢大靈石(みせのおほみたまいし)として社前に祀られていて 立石の場所が天皇殯葬の地と云われています
香椎宮については
香椎宮(福岡市東区香椎)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
西鉄 天神大牟田線 大保駅から西へ約600m 徒歩9分程度
県道88号沿いに西を向いて鎮座します
御勢大靈石神社(小郡市大保)に参着
社頭には古い境内の図絵があります〔写真だと見にくい〕
白く大きな一の鳥居の扁額には゛御勢大靈石神社゛と刻字
一礼をして 鳥居をくぐると 神橋がありその先には 二の鳥居が建ちます
神橋を渡ると 明治廿四年に奉納された二の鳥居があります
石畳の参道を進むと古い狛犬が座します
境内の向かって左手には 境内社が並んでいます
拝殿にすすみます
扁額には゛大靈石宮゛おほみたまいしのみや と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥に幣殿と本殿と続いています
今の屋根は銅葺ですが かつては瓦葺の屋根だったのでしょうか 鬼瓦が幣殿の横に置かれていました
こちら側(社殿の向かって左側)には 境内社が並んで祀られていますが
九州の粟島神社ては度々見かける゛小さな粟島神社のくぐり鳥居゛がこちらにもありました
一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 御勢大霊石神社について 所在は大保村に在す〈現 御勢大霊石神社(小郡市大保)〉と記しています
【抜粋意訳】
御勢大霊石神社
御勢は假字也、大霊石は於保美加介伊之と訓べし、〔今は音読に唱ふ〕
祭神 陽霊歟〔神體石に坐りといふ〕
〇大保村に在す、〔久留米志〕
例祭 月 日往に伴信友が、當社は男根の霊石なるべしと考へおきしが、後に久留米志を見るに、上妻郡鹿子尾村霊巌寺の地理をいふ所に、山中寺邊有に陽巖七八箇、大者不知に其高幾千丈圓云々、凡此左右三四里問、所在岩石、大小長短莫不皆帶に陽象と云へり、郡界は隔れども、地脉おのづから續きたれば、かゝる霊社も坐しけむ、信友此をきかばいかに賞歎せざらんや、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 御勢大霊石神社について 所在は今 大保村にあり〈現 御勢大霊石神社(小郡市大保)〉と記しています
【抜粋意訳】
御勢大霊石(ミセノオホミタマノイシノ)神社
今 大保村にあり、〔筑後志略、筑後地鑑〕
〇按 久留米舊式社調云、古老傳に云、祭神 仲哀天皇に坐り、天皇筑前橿日宮に崩ましましに依て、皇后即天皇の御手代として、姑く男裝を假り石を以て天皇の御霊代とし、韓國を服ひ訖て、此石を此に祭り給ふと云り、されど他に明證なし、姑附て考に備ふ、
【原文参照】栗
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 御勢大霊石神社について 所在は大保村(三井郡三國村大字大保)〈現 御勢大霊石神社(小郡市大保)〉と記しています
【抜粋意訳】
御勢大霊石神社
祭神
今按 社傳に古老傳云 御勢大霊石神社 所祭 仲哀天皇也 天皇筑前國 橿日宮にして崩ましぬ 又 皇后 天皇の御手代として姑く男貌を假り石を御霊代として三韓を征し 御凱陣の後 此石を大保郷に崇め奉り 社前に御劔御衣を納めらる 今これを御本體所と云 御勢は御夫大は尊詞 霊石は御魂代の石也とある 神名の説は信かたけれはとらす 彼石を御腰に挟み玉ひし事は 神功紀に 干時也 適當皇后之開胎皇后則取石挟腰而祈之曰事竟還日産於茲土其石今在干伊覩縣道邊云々とみえ
筑前風土記にも この石の事を載せたれは 當社にも其を誤りて傳へたるものなるへし されと祭神は中哀天皇にて 其御霊形は石にますを以て 大霊石と申奉れる事は違ひあるましくこそ姑附て考に備ふ祭日 十ー月十四日
社格 縣社 (明細帳に郷社とあり) (縣社)所在 大保村(三井郡三國村大字大保)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
御勢大霊石神社(小郡市大保)について 式内社 御勢大霊石神社であると記しています
【抜粋意訳】
〇福岡縣筑後國三井郡三國村大字大保
縣社 御勢大霊石(ミセオホミタマイシノ)神社
祭神 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)
八幡(ヤハタノ)大神 春日(カスガノ)大神
天照大神(アマテラスオホミカミ) 吉富(ヨシトミノ)大神當社は延喜式神名帳に、「筑後国 御原郡 御勢大霊石神社 小社」とあるもの即ち是なり、〔御勢は伊勢を誤れるなるべしと契沖の云へるは如何、〕
社傅によるに、神功皇后攝政貮年汪午の鎮座にして、天皇 橿日宮に崩しましてより、皇后姑く男装となし、石を以て御形式として之を奉じ、三韓を征し給ふ、かくて凱陣の際、即ち此所に御神霊を安置し奉り、國家鎮護の霊境と崇め、大霊石神社と稱へ給ふと云ふ、
又或は云ふ、此地高良山と竈門山との中央にして、天皇熊襲を打ち給はんとして巡狩の時、此地を行宮地と定め給へる地とも云ふ、而して大保の郷に宮柱太敷立ち、永く鎮護の神とならせ給ふ、されば欽明天皇 明安拾年庚午、及天武天皇 白鳳九年庚辰、宇多天皇 寛平三年、鳥羽天皇天永三年、高倉天皇安元貮年の数度御造営ありて、神田の寄附等もありき、又文明貮年には、筑紫廣門社殿を修理し給ふ等、結構頗る宏壯を極めしが、天正十四年兵火の災に罹りて、社殿等悉く焼失しぬ、後年大保村の農長某是を修補す、次いで「天和貮年に至り、舊領主有馬伊豫守豊範 本殿拜殿の再建あり。其後の造営材木は舊久留米藩より、雑費は御井御原両郡割符を以てなす事となれりと云ふ、其盛大想ふべし、
久留米志 亦當社は式内社となし、筑後地鑑にも「御勢大霊石神社、愚按、此神亦久雌に知之者鮮、近自に寺社奉行被に尋竟•而顯之 社務守乏有狀」とあり、なほ之に據る時は、此頃餘り世に顯れず、衰頽に近かりしものにてもあるべきか、同書三卷に「仲哀天皇殯蹟は御勢大霊石の社前にあり」と見え、社記に「社前に御劍御衣を納め給ふ、之と御本體所といふ、社の前に二間四方計石垣を作り上げたり、是を仲哀天皇の御墓なうと云ふ、上に古木二木あり、其の中に石を埋めたり」と云ひ、即ち郷土史誌等にも「されば河内國惠我の長野陵に葬られ給ふ迄、御遺骸はこの地に留められなるものなるべし、而も天皇崩御後、新羅征伐、麛坂忍熊の乱打續たれば、改葬せられしは数年の後なれば、此地に永く御留められたるなるべし」と云へる、亦さもあるべき歟、考ふ可き事なり、而して當祉は御原都十九ヶ村の産沙神なりと管内志に記せり、かくて明治六年三月郷社に定まり、次いで縣社に昇格す。建物は天和貮年舊領主有馬伊豫守豊範•本殿•拜敏を再建し、其後造替の材は、皆舊久留米藩より、雜費は御井御原両郡より、割符にて支辨し來りたりといふ、現今社殿は、本殿、幣殿、拜殿、潔齋所等を具へ、境内は千六十餘坪(官有地第一種)を有し、樹木鬱蒼として御手洗池などの構へもありて風致佳なり。
境内神社 成末(ナリスエノ)神社 牛天神(ウシテンジンノ)社 淡島(アハシマノ)神社
【原文参照】