美奈宜神社 (みなぎじんじゃ)は 社説に゛今から千八百年前 神功皇后が 三韓征伐の御時 冥助あり 此所に祭り給い゛と云え 『六国史』にも貞觀元年(859)美奈宜神(ミナキノカミ)として 神階の奉授が記される由緒ある古社です 『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載される 筑前國 下座郡 美奈宜神社三座(名神大)(みなきの かみのやしろ みくら)の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
美奈宜神社(Minagi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
福岡県朝倉市林田210
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》素戔嗚命(すさのをのみこと)
大己貴命(おほなむちのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・厄除・健康のご利益
・縁結びのご利益
・商売繁盛のご利益
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
式内大社 美奈宜神社 略記
○御祭神
(出雲三神)
大国主命(大国様)
素戔嗚尊(祇園様)
事代主命(恵比須様)○縁起
今から千八百年前、父君景行天皇の教えにそって、仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐されたが、不幸病にかかり崩御された、皇后はこのことを泌し、その根幹新羅を討つべく、出師の計画を立て、兵員を集め、兵船、軍器を整え、神々を祭って本邦最初の外征に肥前名護屋から出征して行った。皇后は航海中船中で大己貴命、素戔嗚尊、事代主命の三神に戦勝を祈願された。海上恙なく船は新羅の港に投錨し、上陸して戦端は開かれた。戦いは連勝し三ケ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗、百済も来貢し、肥前、髙橋の津に凱旋された。そのあと戦争に勝利を祈られた三神を祭られた。その神が美奈宜神社の三神である。
○主な祭礼
一月一日 (歳旦祭) 四月二十九日 (春祭)
七月三十日(夏越・茅の輪) 十月十七日 (神課祭)
十月二十一日(おくんち)御神幸 十一月最終日曜日(新嘗祭)○ 県指定無形文化財(蜷城の獅子舞)おくんちに奉仕
○ 弘化四年(一八四七)千六百五十年祭執行
○ 白鷺塚三神奉賛の地は、白鷺が羽を休めた所で、竹の叢生する片延字鷺塚一番地、白鷺塚である。
現地案内板より
※文中に゛今から千八百年前、父君景行天皇の教えにそって、仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐された゛とあるが 正しくは「仲哀天皇は 大足彦天皇(景行天皇)皇子である日本武尊の第二子」です
【由 緒 (History)】
『筑前旧志略』下巻,末永茂世〈明20.2〉より抜粋
【抜粋意訳】
下坐郡 林田神社
林田村にあり 舊社司の説には 此社 延喜式に載る所 筑前十九座の内 美奈宜神社ぞと 昔より云傳へたりとそ
祭神 中間は大已貴命 東間は素戔嗚尊 西間は事代主命なり
又 社説に神功皇后 征韓の御時 冥助ありしかば 此所に祭り給ひたる由云へり 事代主命の霊告有し事は日本紀に見えたり
長田外七村を官郷と号し 此御神を産霊として祭れり 総門は上畑村に在りきと云 御社より三町計り隔て 鳥居の有し址あり 秋月長門守の時迄は 神傾三十町寄附有きと云
三代實錄 貞観元年正月廿七日 從五位下を授け給ふ由記せり
又 本郡荷原村 栗尾神社の舊社司には 栗尾社を美奈宜神社と云へり 維新の際 藩令を以て林田神社を以て 断然 美奈宜神社と定め是を郷社に列し神領をも寄せられたり 然れも 其後 栗尾神社氏子中より舊来 社格紛転の事を縣廳に訴へ是も郷社に加へられたり
【原文参照】
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿・幣殿
・白峯神社《主》崇徳天皇
・式内十社〈筑前國の式内社十一社の内 美奈宜神社を除く十社〉
式内社
平安時代の初期 醍醐天皇の延長五年(西暦927年)に左大臣 藤原忠平等によって勅撰された国家の法制書を延喜式(えんぎしき)と呼びます。
神社史上最大の貴重な典範で五十巻あり、その中の九巻・十巻に当時の大きな社(やしろ)の名が記載され、当社美奈宜神社は国弊社(こくへいしゃ)として書かれています。この延喜式に名がある社を式内社と呼び古来よりの大社です。
筑前国は十一社あり、ここに残り十社が祭られています。
東より、宗像大社、住吉神社、志賀海神社、竈門神社、筥崎八幡宮、筑紫神社、織幡神社、麻手良布神社、志登神社、大己貴神社の順です。
この度の御大典記念として修復されました平成二年十一月吉日 美奈宜神社
現地案内板より
・夫婦楠
・淡島神社《主》天照大神の六女淡島様
・蜷城の獅子舞の案内板
蜷城(ひなしろ)の獅子舞(ししまい)
この獅子舞は毎年十月二十一日(陰暦九月二十一日)に挙行される美奈宜神社の御神幸に奉仕するものであり、雌雄二対の獅子で構成される。獅子は胴体をシュロで編み、獅子役の足絆にもシュロを使用するなど特異である。
獅子は長田・鵜ノ木地区から奉納され、長田地区は神幸神輿の警護、鵜ノ木地区は神輿台を祓う役を負っている。
この獅子舞の特徴は、筑前地方に多い伎楽系統の獅子舞と異なり舞楽を伴わず、芸能的な部分が少ない。また、病気除けや豊作を願うという信仰に、祓いの獅子の姿がよく伝えられている。この系統の獅子は、筑後川中流域の各地に伝承されているが、現在に至るまで本来的な形態を残しているのは蜷城のみである。
昭和五十一年四月、福岡県指定無形民俗文化財に指定されている。
甘木市教育委員会 1999.12現地案内板より
※獅子舞の画像〈獅子は胴体をシュロで編み、獅子役の足絆にもシュロを使用するなど特異〉は 公式HPにて
・神門・鳥居・注連柱
・社頭・鳥居
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・白鷺塚〈美奈宜神社 (朝倉市林田)創建の地〉
白鷺塚(しらさぎづか)
昔むかし(約千八百年前)古処(こしょ)の山から見下ろした里には筑後川が流れ、よく土地の肥えた豊かな村がありました。
しかし、古処の山には羽白熊鷲(はじろくまわし)という悪者が住んでいました。時どき山をおりてきて、村人を苦しめました。村人は本当に困りました。
神功皇后が九州におみえになったとき悪者退治をお願いしました。
皇后様は神様にお祈りされて「この潮干玉(しおひきたま)を使って川の水をからにし、川蜷(かわにな)にたのんで 一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉(しおみつたま)を使って一度に水を入れ、水攻めにして滅ぼしなさい。」とお告げになりました。
皇后様は川蜷を呼んでたのみました。一晩のうちに立派な城ができました。羽白熊鷲がせめてきましたが、水攻めにあい、滅ぼされていましました。
このあと、村は静かな平和な村となりました。
皇后様は三韓攻撃の勝利を感謝し、帰路の肥前の高橋より、一羽の白鷺をお放ちになりました。「白鷺の降りた所にお社を建てたいと思います。どうぞその場所をお示しください。」と申されました。
白鷺は空に舞いあがり、筑後川に沿ってしばらく飛んだ後、こんこんと清水の湧きでる所に舞おりました。皇后様はそこを白鷺塚と命名されその近くに神様を祭るお社と建てられて、美奈宜神社(蜷城(みなぎ)=美奈宜)と呼ばれました。 また川蜷が守ってくれた村里をニナシロと呼びました。ニナシロがだんだんなまってヒナシロとなりました。
蜷城の守り神として美奈宜神社は今もみんなを見守って下さっているのです。
(宗像大社、美奈宜神社の縁起より記す)
令和の大事業記念 美奈宜神社現地案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
美奈宜神(ミナキノカミ)として 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉
○廿七日甲申
京畿七道ノ諸ノ神に 進階(クライ)を及ひ 新に叙つ 惣て二百六十七社なり
奉授に淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品 吉都彦命二品
・・・
・・・筑前國
正三位勳八等 田心姫神 湍津姫神 市杵嶋姫神 並從二位
正五位下 竈門神 從五位下 筑紫神 並從四位下
從五位下 織幡神 志賀海神 美奈宜神(ミナキノカミ)に 並に從五位上
无位 住吉神 從五位下
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・志加海神社三座 住吉神社三座 宗像神社三座 八幡神社一座 筑紫神社一座 竈門神社一座 美奈宜神社三座〈已上筑前国〉
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前國 19座(大16座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)下座郡 3座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 美奈宜神社 三座(並名神大)
[ふ り が な ](みなきの かみのやしろ みくら)
[Old Shrine name](Minaki no kaminoyashiro mikura)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 筑前國 下座郡 美奈宜神社三座(名神大)(みなきの かみのやしろ みくら)には 二つの論社があります
『筑前地誌略』には 美奈宜神社は二ヶ所と記しています
゛美奈宜神社 二所あり、一は荷原村、一は林田村に在り、共に郷社たり、・・゛
【原文参照】
・美奈宜神社(朝倉市林田)
・美奈宜神社(朝倉市荷原)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
甘木鉄道 甘木駅から県道33号を南下して約5.5km 車10分程度
社頭は境内の南側になります
美奈宜神社(朝倉市林田)に参着
一礼をして 鳥居をくぐると 手水舎があり清めます
神門の前には 再び鳥居が建ち その前に注連柱と三重の禊が張られています
深々と一礼をして鳥居と神門をくくり抜けます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿の奥には 境内社が祀られていますので お参りをします
白峰神社は 縁切りの祈願に効くとのこと
境内の奥から南へ向く 境内社殿を眺めます
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 美奈宜神社 三座について 所在について゛林田村、美奈宜村 両所に、飡那尾大明神と称す社あり、共に美奈宜神社と云り゛と記し〈現 ①美奈宜神社(朝倉市林田) ②美奈宜神社(朝倉市荷原)〉の二ヶ所を示しています
【抜粋意訳】
美奈宜神社
美奈宜は假字也、〔和名鈔、郷名部、水城、美那木〕
〇祭神 詳ならず
〇林田村、美奈宜村 両所に、飡那尾大明神と称す社あり、共に美奈宜神社と云り、
〇式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕筑前國 美奈宜神社三座、
續風土記、
林田村神社の所に、社家の説には、此社則 延喜式に、所載筑前十九神の内 美奈木神祉なりと、昔より云傳ふ、祭る所の神、中間は大己貴命、東間は素戔嗚尊、西間は事代主命と云、〔中略〕社家又傳て曰、此れ神功皇后三韓を退治し給ふ時、冥助在に依て、比所に祭給ふと云、事代主の神霊告在し事は、日本紀に見え侍ればさもありなん、宗像神社の綠起には、神功皇后此所に河貝子(ミチコ)を集て城とし、熊襲を欺き亡し給ひし所なれば、蜷城(ミナキ)と云と見えたり、長田、八重津、徳淵、上畑、中村、片延、鵜木、林田、八村を宮郷と號し、此御社を産霊に祭りぬ、〔中略〕昔は此宮所の境内方九町といへども、今は田と成て廣からず、往昔の惣門は、上畑村に有しと云、」
今猶其名のみ残りぬ、御社より三町計隔て鳥居の立し跡あり云々、』
又此郡 美奈宜村栗尾〔喰那尾とも云〕明神の社人は、栗尾社を以て美奈宜神社と云、今美奈宜と云里より林田までは遠ければ、林田の社を美奈宜の社と謂し事妄説なるべしと云い、〔中略〕且林田の社の方古き證據有様に明ゆれど云々、又明決にして不暗昧、且古今の故實を能考で知れる人ならでは、聞分つ事成難かるべし、
また栗尾明神の件に、祭る所の神三座、第一殿住吉明神、第二殿神功皇后、第三殿竹内宿禰なり、此社始は三奈木村の川上に在、其後栗尾山の頂に鎭坐し給ふ、然れども其所風雨烈しければ、下の方に遷し奉る云々といへり、
連胤按るに、かかるたぐひ外にもあり、山城國許波多神社 此水城ノ説ニ既ニ神名帳考証ニ伴氏ガ學タルヨリ爰ニモ誤來レリ元水城ハ御笠郡也 美奈宜ハ下座郡也 其間五六里ヲ隔ツ 此等實地ヲ踏ズシテ机上論ノ弊ヘナリ斯ルコト諸国ニ多シ 古典ト地圖トヲ照準シテ勘フベキコト也 即左ニ圖ヲ示ス・・・・
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 美奈宜神社 三座について 所在について゛今 林田村に在り、宮郷八村の産土神と云゛と記し〈現 ①美奈宜神社(朝倉市林田)〉を示しています
【抜粋意訳】
美奈宜神社三座
今 林田村に在り、宮郷八村の産土神と云、〔筑前續風土記、和爾雅、神名帳考証〕
蓋 大己貴命、素戔嗚尊、事代主命を祀る、〔美奈宜社傳、参取土人傳説〕
清和天皇 貞観元年正月甲申、從五位下美奈宜神に從五位上を授け、〔三代実録〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列る、〔延喜式〕凡 其祭三月九月廿一日六月晦を用ふ、〔福岡縣管内神社考証〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 美奈宜神社 三座について 所在について゛林田村 (朝倉郡蜷城村大字林田)゛と記し〈現 ①美奈宜神社(朝倉市林田)〉を示しています
【抜粋意訳】
美奈宜神社三座(並名神大)
祭神 素戔嗚尊 大己貴命 事代主命
今按 福岡縣神社考證書に 綠起に神功皇后異國退治の時 富社の三神形を現し玉ひて 干珠を以て海中に投入 蜷を集めて山を築き城を構へて 異賊を待玉へば異賊彼蜷城に登りし時 満珠を以て海中に投入玉へば 鹽もとの如くに湛て異賊は海の藻屑と流行けり 故に御帰朝の後 此所に社壇を築き三神を崇祭る因て 蜷城大明神と稱すと云る 蜷城の事は美奈宜と蜷城と音通ふよりの付会なれど 三神の威霊を顕して征韓の事を助け玉へるによりて祭られたる事著し姑く附て考に備ふ
祭日 三月九月廿一日六月晦日
社格 郷社所在 林田村 (朝倉郡蜷城村大字林田)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
美奈宜神社(朝倉市林田)について 式内社 美奈宜神社三座(並名神大)としています
但し 式内社 美奈宜神社の論社は 二つあり〈①朝倉市林田 ②朝倉市荷原〉あり ①朝倉市林田なのではないだろうかと考証を記していますが 決定は出来ないとも記しています
【抜粋意訳】
〇福岡縣 筑前國 朝倉郡 蜷城(ニナジロ)村大字林田
縣社 美奈宜神社
祭神
素戔嗚(スサノヲノ)尊
大己貴(オホナムチノ)命
事代主(コトシロヌシノ)命神功皇后摂政二年の創立なり、皇后三韓を征し給ふや、三神冥助あり、因つて凱旋の後、蜷城大明神と称して之を官郷内に祭る、
蜷は美奈(みな)と訓す、美奈宜と書するに假宇に拠れり、(官郷と唱ふる地は、長田、八重津、徳淵、上畑、中村、鵜本、片延、林田の七ヶ村をいふ)延喜式神名帳に「筑前國十九座下坐郡三座並大美奈宜神社名神大」とあるは、即ち當社なり、
昔境内方九町余ありしも、世を経て田地となり果てたり、其総門は上畑村にありしとて、今なほ其名を残せり、又神社を距る三丁許鳥居の址あり、秋月長門守時代迄は神領猶三十町を存せりといふ(社記に拠る)元禄縁起(洛陽吉田定俊著述)に「昔は神田百三十町を有し、筑後竹野郡恵利、三本木、朝帰、床島、鳥買、高食、千原、西原八ケ村の氏神として崇敬厚く、當時(元禄の頃なり)恵利村に神幸ありきといふ、
古来下座郡総社として尊崇厚く、明治二年五月、福岡藩庁より供米拾俵を寄附せられ、翌三年十二月之を廃し、改めて社領三十五石を寄附し、内十石を御供米とし、余を祠官の領に充てたりしも、廃藩置県となりて此事廃せられ、五年祠官祠掌を置き、同十一月三日郷社に列し、同三十年縣社に列す、猶當社を式内社の其れなりとするは、国人貝原篤信翁、其著筑前績風土記に於て、殆ど當社を之に擬し、次いで貝原好古の和爾雅、村山正知の美奈宜神社考等、皆當社を以て式内社となせり、
其論拠とする処は、社伝を原とし、次に林田村に今の三奈木村より離るる事遠けれど、古は一郷といふも頗る廣ければ、三城郷も、今の三奈木より林田長田邊迄に亘りしなるべく、太平記に三城渡と見えたるは、林田の隣村長田の渡なるにて明なるべく、且つ又古来社領も多く、境内も広かりしこと等に徴して明なりとせるものの如し、されど三奈木村大字荷原にも、美奈宜神社ありて縣社なり。建物は本殿、拝殿、渡殿、神輿殿、炊所等を具備し、境内七百六十除坪(官有地第一種)あり、区画整然たり。
因に云ふ、美奈宣神社は同郡三奈木村荷原にもありて、學者中頗る論ある社なり、今當社こそ式の名神大社なれと主張する所を挙くれば、貝原篤信の筑前績風土記には「當社は即ち下座郡林田村林神社なるべしとし、貝原好古氏の和爾雅には「美奈宜神社は、在下座郡林田村と断定を下せり、又村山正知氏の美奈宜神社考証にも、当社を以て正なりとす。
貝原翁は其序に「邦君源姓黒田氏光之公下命、令綴筑前績風土記之曰、使貝原篤信貝原好古村山正知経謄郡邑考定事實三人相議以当社為美奈宜之神社と云ひ、其他和漢三才圖曾以下の諸書にも、皆翁の説を祀述して、林田の社を當社として、以て式社と定めたり。
今其れ等の諸説の要を摘起すれば、
一、林田村の神社は昔より式内美奈宜神社なりと云へり。
二、林田村は、今の三奈木村よりは程遠けれど、古は一郷にても頗る廣き所もありたれば、三城も其類にて、今の三奈木より林田長田の邊までかけて、三城郷と云ひしなるべし、之は太平記に三城渡と見えたるは、林田の憐村長田の渡なるにて明なり。
三、神功皇后三韓御征伐の時、事代主神託宣の事書紀に見ゆ、然るに此神皇后を助け奉りて功ありし由、社伝に見えたるは古書に符合す、これまた本社の式社たる証也。
四、永正六年秋四月、種時寄進神橡後板銘に、蜷城明神とあり、これ又式社たる証なり。
五、本社は往古は社領多く、境内も広かりしこと古書に徴して明なり、これも亦式内美奈宜神社たる一証也。
六、然るに荷原村にては、栗尾明神を美奈宜神社なりと云へど、栗尾明神は美奈木村にあらすして、荷原なれば、彼は式社美奈宜神社にはあらす。と云ふにあり、今この六ヶ条の理由を熟考するに、就中必要なるは第二の理由なりとす、何となれば、美奈宜神社と云へば、美奈宜の地なるべきこと言ふまでも無ければ、今の林田村は若し古への美奈宜の郷の内ならずとせば、是非曲直を論するまでも無きを以て、績風土記及林田村美奈宜神社考にも力をきはめて之を弁じ、績風土記には「今美奈宜と云ふ里より林田迄は遠けれど、一邑の間廣き所他に例あれば、古は林田の邊までも、美奈宜の内なりしなるべし」と云へり。
右の如く、其説頗る有力にして、然も根拠あるに似たり、されど真に何れが正なるかは、今直ちに断定する事能はず、只採録し、参考に費する而巳。境内神社
宗像神社 住吉神社 志加海神社 竈門神社 筥崎神社 織幡神社
於保奈牟智神社 麻氏良布神社 志登神社 須賀神社白峯神社 中央神社 田神社
【原文参照】