塚田三嶋神社(寄居町赤浜)

塚田三嶋神社(つかだみしまじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 稲乃賣神社」の論社です 神社に伝わる鰐口は「武藏国男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口 応永2年(1395)乙亥327日」とあり 塚田は中世に鋳物業が盛んであったと伝えられ この鰐口も地元在住の鋳物師によって造られたものと考えられてい

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

三嶋神社(Mihima Shrine)
(みしまじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

塚田三嶋神社(つかだみしまじんじゃ)・三島様(みしまさま)

【鎮座地 (Location) 

埼玉県大里郡寄居町赤浜1973

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大山祇神(Oyamatsumi no kami)
   木花開耶姫命(Konohanasakuyahime no mikoto)
   少彦名命(Sukunahikona no mikoto)

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【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

三島神社

荒川右岸に位置する塚田の地は、「風土記稿」に赤浜村の小名の一つとして載せられており、「古別に村落をなせしとぞ、鎌倉繁栄の頃は宿駅を置し地ならんと云、既に当所三嶋神社応2二年(1395)鰐口の銘に、武蔵国男衾郡塚田宿と彫たり、前に云鎌倉の古街道は、ここに残れり」と記されている。また「塚田は鎌倉街道の宿駅として栄え、塚田千軒町の名で呼ばれていた」との口碑も残る。
 当社の創建は、その立地から考えると、鎌倉幕府の開設以来、幕府から特別の崇敬と保護を受けた伊豆の三嶋神社の神を信仰した当地の土豪が行ったのであろう。当地は、塚田千軒宿と呼ばれた大規模な駅があり、鎌倉街道の要衝であったことから、ここを固めた土豪と幕府とは深い結び付きがあったと考えられる。また、その土豪が実力をつけるに至った背景には、荒川の川砂を利用して鋳物を製造する鋳物師集団が当地に存在していたことが挙げられよう。鋳物師集団の活動の足跡については、鎌倉期は明らかではないが、安房国清澄寺の明徳3年(1392)の銅鐘に「大工武州塚田道禅」と見え、南北朝期の活動が知られる。当社に奉納された鰐口(径19.9cm)もその年紀から当地の鋳物師によって作られたものであろう。ちなみに、地内では多量の金糞が発見されているほか、荒川対岸の黒田では「たたら」と呼ばれる製鉄溶鉱炉の跡も発掘されている。
 大山祇命・木花開耶姫命・少彦名命の三柱を祀る当社は、氏子からは「女の神様なので、安産の御利益がある」と語られている。
 祭りは、元旦祭、2月の初午祭、3月27日の例祭、7月25日の八坂祭、10月17日の秋祭りの七つである。
 例祭は、鰐口の「応永2年乙亥3月27日」銘からもわかるように、鰐口を作った日を祝う由緒ある祭りと伝えている。このため祭日を変更せずに現在に至っていると伝える。
 かつて塚田千軒町と呼ばれて栄えた当地は、「風土記稿」に「三島社 小名塚田にあり、民戸十八軒の鎮守にて、其氏子のものの持とす」と記されるように、江戸期には既に小さな村落となっていた模様である。その時代は不明であるが、塚田の地は一度焼き払われたとの口碑があり、そのとき衰微したものであろうか。
 氏子の間には、鰻を食べてはいけないとの禁忌がある。このため、土用の丑の日でも当地の人々は鰻を食べることは希であるという。また、古くはどこの田にも鰻が棲んでおり、氏子が農作業などの際にこれをつかまえると「神様のお使いだから」と言って、当社の境内の神池に放したものであった。
 このほかに、地内できゅうりを作ってはならないとの禁忌がある。しかし太平洋戦争中の食料不足からやむなく栽培することになり、当社で神職に禁忌の解除祈願を行ってもらい、以後、きゅうりが出来ると、その初物を神社に供えてから食べるようになっている

境内案内板より

【由  (History)】

県指定文化財

鰐口(わにぐち)一口

指定 平成16323
所在 寄居町大字赤浜(三嶋神社)

 この鰐口は、鋳銅製で直径19.9cm、厚さ6.9cmを測り、上部左右に耳(釣手)、中央両脇に目を配置し、下半部側面には唇状の張り出しがめぐる。また、鼓面の膨らみが低平で、肩の張りも水平に近く、目や唇も薄く造られており、総じて古格を示している。
 鼓面外区の左右に、『武蔵國男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口應永二年乙亥三月廿七日』の銘文が刻まれており、この銘文から、中世に鎌倉街道上道の宿駅であった塚田宿の三嶋神社に伝来したもので、応永2年(1395)に奉納されたこと、当時すでに塚田が「宿」と呼ばれる集落を形成していたことなどが分かる。
 さらに、当時この地に「道禅」を代表とする塚田鋳物師の存在が知られており、この鰐口も様式・技法等から道禅もしくはその工房によるものと考えられる。
 この鰐口は、県内にある室町初期の稀少なものの一つであり、室町期の形式を確立しようとした基準的作例といえる。
平成213 埼玉県教育委員会 寄居町教育委員会

境内案内板より

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町指定天然記念物
塚田三嶋神社のヤブツバキ

指定年月日 平成十九年一月三十日
所 在 地 寄居町大宇赤浜字後塚田一九七三

 ヤブツバキは別名ヤマツバキともいい、ツバキ科ツバキ属の照葉樹林種で、常緑高木である。
 社殿の左側にヤブツバキは三本あり、指定樹は中央に位置する株で、樹高十三.八メートル、目通り一.三五メートル、根回り三メートルである。
 近くの杉の影響で、樹冠は北半分がほとんど無く、根元には腐食による穴が幹を貫通しているものの、樹勢は良好な巨木である。
 なお、両脇のヤブツバキは指定には至らないものの、巨樹であり、指定樹とともに、大切に保護したい。
平成223 寄居町教育委員会

境内案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

鳥居の右横と本殿の前左右に境内社が鎮座

稲荷神社《主》稲倉魂命
神明神社《主》天照皇大神
八坂神社《主》須佐之男命
琴平神社《主》大物主神
天満天神社《主》菅原道真

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)男衾郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 稲乃賣神社
[ふ り が な ]いなのひめ かみのやしろ)
[Old Shrine name]Inanohime no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の
武蔵國 男衾郡 稲乃賣神社」の 2つの論社について

・稲乃比売神社(寄居町鉢形)

・塚田三嶋神社(寄居町赤浜)

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

秩父鉄道 ふかや花園駅から R140号経由 南へ荒川を渡り約5km 車10分程度

神社の西に塚田集会所が隣接していて 子供の遊戯具などが設置され境内と一体化しています

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社号標には「三嶋神社」とあり 石の鳥居が建ちます
三嶋神社(Mihima Shrine)に参着

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鳥居のすぐ右手に 境内社の祠があり お詣りをしてから
一礼をして鳥居をくぐります
真っ直ぐの参道の周りで 子供たちが元気に遊びまわっています

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水は張られていませんが 手水舎には注連縄が架かり 奉納の手水鉢

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参道正面には 社殿が建っています 参道を進むと 左右に狛犬が座していて その狛犬のすぐ後ろ 社殿の前の左右に境内社が 参道を挟み向かい合って建っています

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拝殿にすすみます 扁額には「三嶋神社」と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には幣殿 その奥には本殿の覆い屋が一体となって建てられています
殿の左側にある木が 寄居町指定記念物に指定を受けているヤブツバキ

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拝殿改築之碑が立てられていて
拝殿の損傷が激しかったが ちょうど関越高速の開設に伴い 社有地の補償用や基金を流用して事業を達成したと 昭和52年10月17日に碑を建立したと記されています

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こうした氏子の努力によって 神社が守られていることに敬意を表し 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社の稲乃賣神社の所在について 塚田三嶋神社(寄居町赤浜)比定して
木待村〈現 稲乃比売神社(寄居町鉢形)〉も論社と記しています

【意訳】

稲乃賣(イナノメ)神社

日本書紀 (くらひもの)の名をば厳稲魂女(いつのうかのめ)神武前紀戊午年9

和 抄 稲魂 宇介乃美太万
式社考 塚田神 三嶋宮 或いは云う はかく御木待村
〇信友云う 兼永本 朱書き入れ云う 稲田姫なり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承

赤濱村の小名 塚田に鎮座している 古い鰐口があるとし 鰐口の挿絵には 應永2年1395乙辰3月27日と記されています

【意訳】

巻之224 男衾郡之3 鉢形 赤濱村 の条

小名 塚田

古別に村落をなせしとぞ 鎌倉繁栄の頃は宿駅を置し地ならんと云
既に 當所三嶋神社 応永二年の鰐口の銘に 武藏国男衾郡塚田宿と彫たり 前に云 鎌倉の古街道はここに残れり

三島社(ミシマノヤシロ)

小名 塚田にあり 民戸18軒の鎮守にて その氏子の者の持ちとす
当社に 古き鰐口あり その口上に出す

〇神明社
〇山神社 ともに高橋喜十郎の持ち

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

式内社の稲乃賣神社の所在について 寄居町鉢形稲乃比売神社を比定した上で 塚田三嶋神社(寄居町赤浜)あると記しています

【意訳】

稲乃賣神社

稲乃賣は 伊奈能女と訓ずべし
〇祭神 明らかなり
〇鉢形領 鉢形町に在す 
 式社考に 塚田村三島宮と云えり 

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

式内社の稲乃賣神社の所在について 鉢形郷木持村〈現 稲乃比売神社(寄居町鉢形)〉と記しています

【意訳】

稲乃賣神社

祭神 稲乃賣命
祭日 9月19
社格 村社
所在 鉢形郷木持村(大里郡鉢形村大字鉢形)

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

三嶋神社(Mihima Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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