麻氐良布神社 奥宮(まてらふじんじゃ おくのみや)は 麻氐良山の山頂に鎮座します この山は『日本書紀』斉明天皇の条にある゛朝倉山゛とされ 『日本三代実録』元慶元年(八七七)九月廿五日の条に゛眞天良布神゛と記される古社で 『延喜式神名帳927 AD.』所載 筑前国 上座郡 麻氐良布神社(まてらふの かみのやしろ)です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
麻氐良布神社 奥宮(朝倉市杷木志波)(Materafu shrine )
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
福岡県朝倉市杷木志波〈麻氐良山 山頂〉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
《合》月夜見尊(つきよみのみこと)
天照大神(あまてらすおほかみ)
素盞嗚尊(すさのをのみこと)
蛭子尊(ひるこのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
麻氐良布神社
『日本書紀』斉明天皇の条に、朝倉の社の木を伐り神が怒って宮殿を壊し侍臣多く疫死 天皇もまた崩御したとある。朝倉の社はこれであるといい伝えられている。近郷における高神様といって、年中参詣登山者がすこぶる多い。明治五年郷社に列した。
『全国神社名鑑』〈全国神社名鑑刊行会史学センター, 1977.7〉より
【由 緒 (History)】
笹尾・政所 ~由緒ある麻氐良布神社と神霊的遷座祭~
平安時代に廷喜式神名帳という本が出来た。その中に,「上座郡 麻氐良布神社 小一座」と記載されている。時代は下がって、打ち続く戦乱時代に、社地は没収され、社殿も荒廃を極めたが、慶長5年(1600年)に栗山備後利安が祭田を寄進し、続いて鎌田昌生が郡主となった元禄年間(1688~1703年)に本殿、拝殿を建てたとある。その後、明治、大正、昭和と代わるにつれ、人里離れた山頂にあるため、荒れるに任せ、辛うじて3月15日の祭礼だけが続けられていた。平成10年に、社殿の屋根が相当傷んていたので神殿を銅板に拝殿を瓦にふき替えている。その時、不思議な出来事が起きている、同年4月21日、御神体を宝満宮にお移しする時、当日は、曇リ空で小雨がパラつく程度てあったが、御神体を運び出そうとした時、山鳴りがしたり、同年8月27日、御神体を宝満宮からお移しし、祠にお収めした時、「ボーン、ボーン」と云う誠に気持ちのよい明るい音を聞き、参列者は、神様も安堵されたのかなと感じ入った次第である。
平成19年3月 志波地域コミュニティ協議会
現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・十九座神社〈筑前国 式内社 19座を祀る〉
向かって右から
弥永宮 一座〈於保奈牟智神社 一座〉
美奈宜宮三座〈美奈宜神社 三座(並名神大)〉
筑紫宮 一座〈筑紫神社 一座(名神大)〉
志賀宮 三座〈志加海神社 三座(並名神大)〉
寶満宮 一座〈竃門神社 一座(貞・名神大)〉
織幡宮 一座〈織幡神社 一座(名神大)〉
宗像宮 三座〈宗像神社 三座(並名神大)〉
志登宮 一座〈志登神社 一座〉
住吉宮 三座〈住吉神社 三座(並名神大)〉
筥崎宮 一座〈八幡大菩薩筥埼宮 一座(名神大)〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
麻氐良山の山裾に鎮座
・麻氐良布神社 下宮(朝倉市杷木志波)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
麻氐良布神は 眞天良布神と表記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻卅二 元慶元年(八七七)九月廿五日〈癸亥〉の条
○廿五日癸亥
授くに 筑前國
從五位下 眞天良布神に 從五位上。
正六位上 高磯比咩神に 從五位下を。分に遣 中臣斎部兩氏人を於 五畿七道諸國に、班幣を境内の天神地祇三千一百卅四神に。縁より供に奉る大嘗會を也。
巻卅六 元慶三年(八七九)九月廿七日〈甲寅〉の条
○廿七日甲寅
授くに 土佐國
正五位下 並山神 正五位上。從五位下 大谷神 從五位上。正六位 上宇賀神 從五位下。筑前國 從五位下 眞天良布神に 從五位上を。
巻卅七 元慶四年(八八〇)六月三日〈乙酉〉の条
○六月癸未朔三日乙酉
授くに 筑前國 從五位上 眞天良夫神(マテラソフカミ)に 正五位上を。
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前国 19座(大16座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)上座郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 麻氐良布神社
[ふ り が な ](まてらふの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Materafu no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉斉明天皇の段に記される゛朝倉社゛についての伝承
ある説に 朝倉山は麻底良山であり 朝倉社とは 現 麻氐良布神社とする説があります
【抜粋意訳】
巻第26 斉明天皇の段 即位7年(661年)の条
夏4月
百済の福信(フクシン)〈鬼室福信〉が使者を派遣して表(フミ)を献上して その王子の糺解(クゲ)を迎えたいと乞いました
道顯(ドウケン)の日本世記(ニホンセイキ)によると 百済の福信は書を献上して その君主の糺解(クゲ)を東朝(ミカド)〈大和朝廷〉に祈ったといいますある本によると4月に 天皇は朝倉宮〈現 福岡県朝倉郡朝倉町山田の付近とされる〉に移って居たといいます
即位7年(661年)5月9日
天皇は朝倉橘広庭宮(アサクラノタチバナノヒロニワノミヤ)に移って居ました
この時に朝倉社(アサクラノヤシロ)〈現 麻氐良布神社(朝倉市杷木志波)〉の木を切り除いて この宮を作ったために 神が怒って 殿(オオトノ)を壊しました また宮の中に鬼火(オニビ)〈火の玉〉が見られました それで大舎人(トネリ)と諸々の近くに仕える者が病気になって死ぬ者が多くいました5月23日
耽羅(タムラ)〈済州島〉が初めて 王子の阿波伎(アハギ)などを派遣して貢(ミツキ)を献上しました
伊吉連博徳(イキノムラジハカトコ)の書によると
辛酉年(661年)1月25日 帰って越州に到着しました4月1日
越州から道を登って 東に帰りました4月7日
檉岸山(テイガンサン)の南に到着しました
4月8日
鶏の鳴く頃 西南の風に従い 船を大海へと放ちました 海の中の道に迷い 漂流し辛苦しました 9日と8夜経って やっと耽羅嶋〈済州島〉に到着した
すぐに嶋人の王子の阿波伎(アハギ)たち9人を招き慰労し 同じく客人の船に乗せて 帝朝(ミカド)に献上しようとしました5月23日
朝倉(アサクラ)の朝(ミカド)に献上しました 耽羅(タムラ)〈済州島〉が朝廷に入るのはこの時から始まりました
また 智興(チコウ)が傔人(トモビト)の東漢草直足嶋(ヤマトノアヤノカヤノアタイタリシマ)の讒言(ザンゲン)によって使者たちは 天皇の寵愛を受けられなかった 使者たちの恨みは 上天(アメ)の神に通り 足嶋(タリシマ)を震死〈雷に打たれ死ぬ〉させた その時代の人は言いました
「大倭(ヤマト)の天の報復は近い〈早い〉ことだ」6月
伊勢王(イセノオオキミ)が亡くなりました秋7月24日
天皇は 朝倉宮(アサクラノミヤ)で崩御しました8月1日
皇太子は 天皇の喪(ミモ)を行い 帰って 磐瀬宮(イワセノミヤ)に到着しました この夕に朝倉山の上に鬼が有り 大笠(オオカサ)を着ていて 喪の儀式を臨み見ていました 衆人は皆 奇怪に思いました
冬10月7日
天皇の喪(モ)を帰そうと海に就航しました すると皇太子はある所に停泊して 天皇の死を悲しみ偲びました そして口ずさみました
゛君(キミ)が目の 恋(コオ)しきからに 泊てて居て かくや恋(コ)ひむも 君が目を欲(ホ)り゛あなたの目の恋しいばつかりに ここに船泊りしていて これほど恋しさに堪えないのも あなたの目を一目見たいばかりなのです
10月23日
天皇の喪(遺骸)は 帰って難波(なにわ)に泊まりました11月7日
天皇の喪(ミモ)を飛鳥の川原で殯(モガリ)した これから9日まで発哀(ミネ)を行いました
日本世記(ニホンセイキ)によると 11月に福信(フクシン)〈鬼室福信〉が得た唐人の続守言(ゾクシュゲン)たちが筑紫に到着したと言います
ある本によると辛酉年(661年)に百済の佐平〈百済の役人〉の福信が 献上した唐人の虜囚106人 近江国の墾田(ハリタ)に居らせたといい
庚申年(660年)に既に福信は 唐の虜囚を献上したと言っている それで今 注釈を書いた何れかに決めなさい
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉斉明天皇の段゛朝倉社(アサクラノヤシロ)゛を式内社〈土佐国 土佐郡 朝倉神社(あさくらの かみのやしろ)〉だとする説あり
朝倉神社(高知市朝倉)
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉斉明天皇の段に記される゛百済の福信(フクシン)〈鬼室福信〉゛のゆかりの神社
鬼室神社(蒲生郡日野町小野)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
麻氐良山の山裾に鎮座する
・麻氐良布神社 下宮(朝倉市杷木志波)
下宮から 麻氐良山〈295m〉の山頂を目指します
下宮の裏手にある柿畑の道を上がります
参道の始りは こんな感じです
だらだらと上がる感じでしたが 途中から少し坂道がきつくなります
つづら折れの所に 大きめの石祠が祀られています
岩肌が露出してきていて 麻氐良山は 岩山であることが分かってきました
磐座信仰なのだろうか
いよいよ傾斜はきつくなります
石段が出てきましたので 間もなく お社なのでしょう
思った通り 整地された平地の境内があり 10宇の石祠が並んで祀られています
近づくと 十九社と刻まれた扁額が置かれていて 各石祠には 筑前國の式内社19座が刻まれています
この境内の さらに上に社殿が建てられています
麻氐良布神社 奥宮(朝倉市杷木志波)に参着
石段を上がると社殿の建つ境内に出ます こんな山の上なのに 境内の下草は刈られていて しっかりと維持管理がなされています
拝殿の前には 中々の狛犬が座します
拝殿の中には 扁額〈読めません〉と絵馬が掲げられています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥は 幣殿が更に一段高い檀に祀られている本殿へと続いています
境内には 古い狛犬の他に 古い石燈籠 古い手水鉢などもあります
石燈籠には 麻氐良布神前 と刻字があります
境内の泥には 獣の足跡がありますので 夕暮れ時からは要注意
社殿に一礼をして 参道を戻ります
先程のつづら折れにあった石祠には 石燈籠と手水鉢も置かれいてますので
登山と参拝の御礼を込めて お祈りをします
下りは結構きつい 滑らないように注意しながら
途中 筑後川が削った うきは市の平地が見渡せました
出発地の柿畑に戻ってきました こんもりとした森が 麻氐良布神社 下宮です
下宮で再度 お参りをして 山頂を振り返ります
下宮については 記事を参照してください
・麻氐良布神社 下宮(朝倉市杷木志波)
参道を戻ります
里に下りてから 改めて 麻氐良山を見ると やはり神の宿る山として 周囲では一番高い山のようです「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 麻氐良布神社について 山田村 麻氐良山の上〈現 麻氐良布神社 奥宮(朝倉市杷木志波)〉と記しています
【抜粋意訳】
麻氐良布神社
麻氐良布は 假字なり
〇祭神 伊弉諾尊
〇山田村 麻氐良山に在す續風土記に、此山は山田菱野の東、志波村の西北に有、此の辺りの諸山より嶺高く、其の形うるはし云々、此社は山田村境内なり、麻氐良山の上に有り、南に向へり、祭所の神は伊弉諾尊なり、日神、月神、素戔嗚尊、蛭兒をも、相殿に伊弉冉尊、斉明天皇、天智天皇、明日香皇子 天智天皇の御子 も祭ると云へり
神位
三代実録 元慶元年九月二十五日 從五位下 眞天良神に從五位上に 同三年九月二十七日 正五位下に 同四年六月三日 正五位上
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 麻氐良布神社の所在について 山田村の麻氐良山上〈現 麻氐良布神社 奥宮(朝倉市杷木志波)〉と記しています
【抜粋意訳】
麻氐良布(マテラフノ)神社
〇按 三代実録 麻氐を眞天に作る
今 山田村の麻氐良山上に在り、筑前續風土記、神名帳考証陽成天皇 元慶元年九月二十五日 從五位下 眞天良神に從五位上に 同三年九月二十七日 正五位下に 同四年六月三日 正五位上
凡 毎年二月十五日、九月十六日を例祭とす
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 麻氐良布神社について 志波村 麻氐良山〈現 麻氐良布神社 奥宮(朝倉市杷木志波)〉と記しています
【抜粋意訳】
麻氐良布神社
祭神 伊弉諾尊
今按〈今考えるに〉
筑前續風土記 祭神 伊弉諾尊なり 日神、月神、素戔嗚尊、蛭兒をも、相殿に伊弉冉尊、斉明天皇、天智天皇、明日香皇子 天智天皇の御子 も祭ると云へりとみえ
一説に伊弉冉尊にして 相殿に伊弉諾尊、斉明天皇、天智天皇、明日香皇子なりとも云り されど姑く續風土記及び神社考証に従ふ神位
陽成天皇 元慶元年九月二十五日 從五位下 眞天良神に從五位上に 同三年九月二十七日 正五位下に 同四年六月三日 正五位上社格 郷社
祭日 二月十五日 九月十六日
所在 志波村 麻氐良山(朝倉郡志波村大字志波)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
麻氐良布神社(朝倉市杷木志波)について 延喜式内社であると記しています
中世に一度 頽廃していたが 元禄年間に再建したと伝わり
日本書紀に記されている朝倉宮との説もあるが 確証はないとも記しています
【抜粋意訳】
〇福岡縣 筑前國 朝倉郡 志波村大字志波
麻氐良布(マテラフノ)神社
祭神 伊弉諾(イザナギノ)命 天照大神(アマテラスノオホカミ)
月弓(ツキユミノ)命 素盞嗚(スサノヲノ)命 蛭子(ヒルコノ)命鎮坐の年月詳ならねど、
陽成天皇 元慶元年九月二十五日、從五位下 眞天良神に從五位上を授けられたる事、三代實録に見え、同三年九月二十七日 正五位下に叙せられ、翌四年六月三日 正五位上に進められたる事、亦同書に見ゆ、以て当社の往古より尊崇せられたりしを知るべし、
醍醐天皇延喜の制式の小社に列せらる、
其後 後奈良天皇 天文四年、太宰大貳 大内伊予介 宝幣献進の事あり(寄進状現存す)
維新前は神官両家を置き、一は社僧にて普門院と称せしが、維新と共に社僧は廃せらる、
明治五年郷社に列す、
祭神は伊弊冉命、相殿に伊弊諾命、齊明天皇、天智天皇、明日香皇子(アスカノヲウジ)(天智天皇の御子)なりとの説もあれど、今社伝及び続風土記、神社考証、三才図会等に拠りて採らず、
又 当社中世一度衰頽せしと見え、神社志に「麻氐良布神社、古の社は頽破し、雨露神床をおかしけるを、当郡の司官鎌田氏昌生、元禄年中神社、拝殿、鳥居等新に造営あり」と記されたるを以て知らる。
猶当社を 日本書紀 現在の朝倉神社なるべしとの説をなすものあり、されど未だ確説なし。
社殿は、本殿、渡殿、拝殿等を備へ、境内219坪(官有地第一種)古来よりの社地にして南に向へり、東志波山の西北、麻氐良山上にありて秀麗の地なり。
境内神社 十九座(ジュウグザノ)神社
【原文参照】
『福岡県神社誌(Fukuokaken Jinjashi)〈昭和20年(1945)〉』に記される伝承
麻氐良布神社(朝倉市杷木志波)について 延喜式内社であると記しています
西峯翁の説に拠れば 日本書紀に記されている朝倉宮とは この神社であると記しています
【抜粋意訳】
郷社 麻氐良(マテラ)布神社
朝倉郡 志波村字 麻氐良
祭神 月讀尊 天照大神 伊弉諾尊 素戔嗚尊 蛭子尊
由緒
不詳、明治五年十一月三日郷社被定。
蓋し当社は往古の鎮座にして 延喜式に載る所 当國十九神一也
陽成天皇 元慶元年九月二十五日 從五位下 眞天良神に從五位上に 同三年九月二十七日 正五位下に 同四年六月三日 正五位上に叙せらる旨 三代実録に出たり 其の後 天文四年 太宰大貳 大内伊予介より寶幣を捧けし由 旧記に見ゆ 又 西峯翁の説に拠れば書紀に朝倉の神社とあるは此神社なるべしと記録す。例祭日 三月十五日
主なる建造物 本殿、拝殿、遥拝所、参籠殿
境内坪数 二百七十九坪氏子区域及び戸数
崇敬者区域 志波村、高木村、久喜宮村、杷木村、松末村、宝珠山村、小石原村、 戸数約参千二百戸境内神社
十九座神社
宗像神社
織幡神社
筥崎神社
志賀海神社
志登神社
筑紫神社
竈門神社
美奈宜神社
於保奈牟智神社
【原文参照】
麻氐良布神社 奥宮(朝倉市杷木志波)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)