國津比古命神社(くにつひこのみことじんじゃ)は 応神天皇の御代に物部阿佐利命が 風早の国造に任じられ 饒速日命 宇麻志摩遅命を祭祀せられたのが創建とされる 延喜式内社 伊豫國 風早郡 國津比古命神社(くにつひこのみことの かみのやしろ)です 同じ境内には 夫婦神とされる式内社 櫛玉比賣命神社が鎮座します
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
國津比古命神社(Kunitsuhiko no mikoto shrine)
【通称名(Common name)】
・風早宮大氏神〈国津比古命神社と櫛玉比賣命神社を合わせた総称〉
・風早宮(かざはやぐう)
・大氏神(おおうじがみ)
【鎮座地 (Location) 】
愛媛県松山市八反地106番地107番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照国照日子天火明櫛饒速日尊
(あまてるくにてるひこ あめのほあかり くしにぎはやひのみこと)
《配》宇麻志麻治命(うましまじのみこと)
物部阿佐利命(もののべのありさのみこと)
誉田別命(ほむだわけのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
國津比古命神社 由緒
当社は延喜式神名帳に所載の古社で、文徳天皇仁寿元年正六位上を授与。
応神天皇の御宇に物部阿佐利が風早の国造に任じられて、饒速日命、宇麻志摩遅命を祭祀せられた。物部氏、風早氏は氏神として尊崇し、神田、神器を奉献され、社名は初め櫛玉饒速日命神社と称したが、阿佐利命を合祀して国津比古命神社と改めた。
後に頭日八幡宮と改称したが、中御門天皇の享保年中に旧号に復した。天正年間に戦火のため社殿宝物を焼失したが、河野家が社殿を建築した。
寛保元年に松平隠岐守は、毎年代官をして参拝する制度を定められた。
愛媛県神社庁公式HPより
http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=5185
〈國津比古命神社と櫛玉比賣命神社は 同じ境内に鎮座しますので 案内板も両社について 記しています〉
国津比古命神社(くにつひこのみことじんじゃ)のいわれ
主神(しゅしん)
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊神(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしだまにぎはやひのみこと)
相殿神(あいどの)
宇麻志麻治命神(うましまじのみこと)
物部阿佐利命(もののべのありさのみこと)
誉田別命(ほむだわけのみこと)(応神天皇)国津比古命神社は 古墳の上にお祭りされています。昔、むかし風早の郷に魂を感じた人たちがいました。その人たちはこの魂を国魂(くにたま)として素朴にお祭りしていました。
やがて、日本の国をひとつにまとめるときがきました。大和朝廷は 氏姓制度のなかに国造などを定めました。
風早の郷には 物部阿佐利という方があてられ、この方は、もともと風早にまつられていた国魂を敬い、なおかつ、
自分の祖先である神様をも合わせておまつりし、櫛玉饒速日命神社(くしだまにぎはやひのみことじんじゃ)と呼ばれるようになりました。後に、物部阿佐利命をいっしょにおまつりし、国津比古命神社と元の社名になりました。頭日八幡宮(かぐひはちまんぐう)と呼ばれた時期もありましたが、享保年間(1716~1736)に、元の社名にもどりました。物部氏・風早氏の氏神として発展し、河野家の崇拝厚く、戦火により焼失した社殿が再建されました。
寛保元年(1741)松山藩主の松平定喬は 毎年代官を参拝させました。渇水のため、雨乞いの神事が行われ、その折、奉納された扁額が現存しています。明治四二年、社格が県社になり、現在の拝殿内部は昭和四六年に改修され、昭和六二年に境内地拡張・斎館の整備などが行われました。
櫛玉比賣命神社(くしだまひめのみことじんじゃ)のいわれ
主神 天道日女命(あめのみちひめのみこと)
相殿 御炊屋姫命(みかしじやひめのみこと)
国津比古命神社の主神であるクシダマニギハヤヒノミコトの后神(奥様)をおまつりしているのが櫛玉比売神社です。
櫛玉は、ニギハヤヒノミコトを形容することばです。その方の比売神ですから「櫛玉の比売の命の神社」です。風早の先人が 国津比古命神社にこの郷の国魂をまつり、のちに、物部阿佐利命が この国魂も敬い、合わせて祖神であるニギハヤヒノミコトをおまつりしたおり、現在地より南方の小山に后神をおまつりしたと考えられます。
社伝によると、寛永年問(1611~1629)に前方後円墳のそはに遷されました。このことから考えると、動座祭からの一連の神事は 最大限ここまでさかのぼることができます。櫛玉比売命神社は「祓座大明神(はらいにますだいみょうじん)」ともいわれました。
これは当社が 国津比古命神社の祓いをつかさどったなごりだと考えられます。動座祭に限り、櫛玉比売命神社から始まるのもこのためです。
享保年間、元の社名にもどりました。特殊神事として動座祭のあと「宵の明星(よいのみょうじょう)」があります。
明治四二年、社格が郷社になり、現在の社殿は昭和六二年に新築されました。両社とも風早の大氏神として多くの老若男女に厚く崇敬されています。特に、秋祭りに行われる「風早の火事祭」での動座祭から神輿落としにいたる一連の神事・行事には両社の特性がよくあらわれています。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
風早宮大氏神 延喜式内社 國津比古命神社 櫛玉比賣命神社 略縁起
式内社とは、延喜年間(901年-922)に編纂された「延喜式」『神名帳』に記録されている神社のことをいいます。全国に2861社(3132座)あり、愛媛県内には当社を含めて24社あります。
風早(風速)の名称は承平年間(931年-938)につくられた「和名類従抄」『国郡部』に初めて見られます。この地は「國造」である『物部阿佐利』により開拓され、支配されていました。この物部阿佐利命の祖神をお祭しているのが「國津比古命神社」です。
祭神 天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(以下、『櫛玉饒速日尊』といいます。)
相神 宇摩志麻治命、物部阿佐利命、誉田別尊(応神天皇)、そして 櫛玉饒速日尊の妃神(櫛玉の比賣)をお祭しているのが「櫛玉比賣命神社」です。
祭神 御炊屋姫命、天道姫命。
神社創設の時期は明確ではありませんが、
日 式内社であること
月 歴史地理的条件
火 環境風土の形態から考えて、いまから1500年以上前と考えられます。國津比古命神社
國津比古命神社は 応神天皇の時代に 物部阿佐利が國造に任命され、彼の祖神である櫛玉饒速日尊と宇摩志麻治命(櫛玉饒速日尊の子)をお祭りしたことに始まります。
社号は、初め『櫛玉饒速日命神社』でしたが、物部阿佐利命を合祀して 國津比古命神社と名を改めました。
後に 誉田別尊を合祀し『頭日八幡宮』と再び改めましたが、享保年間(約270年前)に國津比古命神社と旧号にもどりました。
天正年間(1573年-1591)、戦火のため社殿・宝物を焼失しましたが、河野家が社殿を建築し、現在にいたっております。
明治4年に社格が『郷社』になり、同29年『県社』に昇格しました。
昭和26年『八脚門』県指定有形文化財。昭和43年中殿・拝殿改築。昭和60年社殿屋根葺替・境内地拡張補強。櫛玉比賣命神社
國津比古命神社の主祭神である櫛玉饒速日尊の妃神をお祭りしているのが、向かい側の櫛玉比賣命神社です。社号は『祓座大明神』ともいわれました。
寛永年間(約360年前)官命により、南方の小山の頂より現在の地に移されました。
古来、地方豪族の氏神として崇敬され、明治29年に社格が『郷社』になりました。史跡 境内 前方後円墳。
昭和43年中殿改築。昭和60年社殿改築・境内地拡張補強。ご両社はご夫婦なかよく向かいあってお祭りされ,私どもをやさしく見守っていただいております。これが家族円満,夫婦円満(一願成就)の神社であるといわれる所以です。
祓い
人々は春には豊かな実りを祈り,秋には感謝の誠を捧げるために祭をします。祭をする者は「きよらか」でなければならないので,お祓いなどをして心身を清めます。祭に使う道具なども新調します。(当社の場合は神輿を新調します。)
祈り
日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。時に道臣命に勅したまはく,いま高皇産霊命を以ちて,朕,親ら顕斎を作さむ。汝を以ちて,斎主となして,授くるに,厳姫の號を以てせむと。顕斎とは「そこに神様がおられるようにお仕えすること」です。櫛玉饒速日尊のご神徳は「一願成就」です。國津社の神輿の前で祭を行っている時に櫛玉社のおしのびの渡御(宵の明星の神事)があります。人々の幸福(一願成就)を祈ります。
神人一体
なぜ,神輿を壊してしまうのでしょうか。
日 祭の物忌を解くためであります(解斎の行為)
月 祭具の清浄さを保つためであります(神威の更新)
日 祭の期間は「きよらかな期間」なので,それの終わりを告げる行事としてこれがある。
月 当社の場合,毎年神輿を新調しますが、伊勢神宮では平成5年10月に式年遷宮(20年に一度すべてを作りかえる)が斎行されます。感謝
米を作るということを通じて,自然の恵みに感謝する。
結び(よりよく生きる)
日 好き,嫌いなく食べる(元気な体)。げんきの「き」の字は「氣」・「気」?生活の中から米をしめ(メ)出していませんか?
月 言動を正す(正しい言葉づかい)言霊(ことだま・・・言葉の魂)
火 豊かな自然とご先祖様に生かされていることに感謝する。神詣で(風早の火事祭)
日 総論 俗に、半鐘と太鼓をたたきながら、賑やかにだんじりをかくので、「かじまつり」などといわれておりますが、『火事祭』は「ひのことのまつり」と読みます。そのいわれは國津比古命神社にお祭りされている神様の名前に関係があります。お祭りされている神様は『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命)』と申します。なぜ「ひのことのまつり」なのでしょう。
月 別火 秋祭の始まる3日前から神職は斎館に参籠して,潔斎を行います。調理に使う火は鑚りおこします。また,秋季動座祭においては此の鑚火により調理した「鮒のいずみや」と「一夜酒」が特殊神饌としてお供えされます。
火 動座祭(宵の明星・・・顕斎の再現)日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。当社の動座祭には,この顕斎の神事の再現がなされます。
動座祭に限って女神である『櫛玉比賣命神社』から祭祀が始まります。御動座は祭式次第の最後に斎行します。これに対し,男神である『國津比古命神社』では御動座は祭式次第の最初に斎行し神輿の前で祭祀をします。
ちょうどその御動座祭の時(祝詞奏上の時)『櫛玉の比売』の『宵の明星』の渡御(おしのびの渡御)が斎行されます。これが『顕斎の神事』の概略であります。
水 解斎の神事 各地区での渡御を終えた四体の神輿は神社にかえり,大勢の氏子崇敬者の見守るなか40段の石段のうえから真っ逆さまに投げ落とし分霊が表れるまで壊されます。なぜ,神輿を壊してしまうのでしょうか。
日 祭の物忌を解くためであります(解斎の行為)月祭具の清浄さを保つためであります(神威の更新)
木 一願成就 私どもは『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命)』の御神徳を一願成就と説いております。『生きとしけるもの』はすべて『火』のおかげをこうむっております。一願成就の「一願」とは「一つの願事」が叶うということよりも,それぞれの人の願事がかなうことによって「世の中の人がみんな幸福になること」であります。これが「ひのことのまつり」の所以であります。風早の秋祭 「ひのことのまつり」
俗に,半鐘と太鼓をたたきながら,賑やかにだんじりをかくので,「かじまつり」などといわれておりますが,『火事祭』は「ひのことのまつり」と読みます。
日 そのいわれは國津比古命神社にお祭りされている神様の名前に関係あります。お祭りされている神様は『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命)』と申します。なぜ「ひのことのまつり」なのでしょう。
月 動座祭(宵の明星・・・顕斎の姿)「動座祭」は分霊を本殿から神輿にお移しするお祭です。日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。時に道臣命に勅したまはく,いま高皇産霊命を以ちて,朕,親ら顕斎を作さむ。汝を以ちて,斎主となして,授くるに,厳姫の號を以てせむと。動座祭には,この顕斎の「姿」があります。動座祭に限って女神である『櫛玉比賣命神社』から祭が始まります。櫛玉社のご動座は祭式次第の最後に行います。これに対し,男神である『國津比古命神社』ではご動座を祭式次第の最初にします。國津社のご動座のおり(祝詞奏上の頃),『櫛玉の比売』の『宵の明星』の渡御(おしのびの渡御)が始まります。これが『顕斎の神事』の概略であります。
火 解斎の神事 各地区での渡御を終えた四体の神輿は神社にかえり,大勢の氏子崇敬者の見守るなか40段の石段のうえから真っ逆さまに投げ落とし分霊が表れるまで壊されます。なぜ,神輿を壊してしまうのでしょうか。
日 祭の物忌を解くためであります(解斎の行為)
月 祭具の清浄さを保つためであります(神威の更新)
水 一願成就 私どもは『天火明命』の御神徳を一願成就と説いております。『生きとし生けるもの』はすべて『日(火)』のおかげをこうむっております。一願成就とは,一つの願事が叶うという意味ではなく,人々の願事が叶うことによって「世の中の人がみんな幸福になること」であります。これが「ひのことのまつり」のいわれであります。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・國津比古命神社 社殿
・拝殿内・絵馬
・参道石段
・金刀比羅宮《主》大物主神
・真名井の井戸〈金刀比羅宮の手前〉
・国津比古命神社 随神門・随神
・隋神門の中〈随神の裏側に展示された〉砲弾
・隋神門の中〈随神の裏側に展示された〉石鳥居の石額
・社頭の鳥居・狛犬
・社頭・手水舎・手水舎の屋根
・櫛玉比賣命神社は 國津比古命神社と同じ境内に鎮座しています
櫛玉比賣命神社は 別記事を参照ください
・櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
卷八 承和六年(八三九)十一月癸未〈五〉
○癸未
災于伊勢齋宮。燒官舍一百餘宇。遣左衞門權佐從五位下田口朝臣房富。齎絹百疋。綿三百屯。調布五十端。存問齋内親王。』
左京人左大史正六位上山直池作等十人。改直字賜宿禰。池作之先。出自天穗日命之後也。』
左京人正六位上御春宿禰春長等十一人。改宿禰賜朝臣。是百濟王之種。飛鳥戸等之後也。』
文章得業生從六位下菅原朝臣是善對策。處之中上。進叙三階。』伊豫國人 外從五位下 風早の直ひ豐宗等一煙 賜に姓を善友朝臣と 兼除て邊籍を 貫に附左京四條二坊に 天ツ神 饒速日命之後也
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豫國 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)風早郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 國津比古命神社
[ふ り が な ](くにつひこのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kunitsuhiko no mikoto no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
國津比古命神社の御祭神 饒速日命(にぎはやひのみこと)について
國津比古命神社の社號にある通り 本来の御祭神は 國津比古命(くにつひこのみこと)です
この御祭神 國津比古命については 何の神であるのかわからないとする説もあります
社説では
゛國津比古命神社は 応神天皇の時代に物部阿佐利が國造に任命され、彼の祖神である櫛玉饒速日尊と宇摩志麻治命(櫛玉饒速日尊の子)をお祭りしたことに始まります。
社号は、初め『櫛玉饒速日命神社』でしたが、物部阿佐利命を合祀して 國津比古命神社と名を改めました゛
と伝えています
現在の御祭神 天照国照日子天火明櫛饒速日尊(あまてるくにてるひこ あめのほあかり くしにぎはやひのみこと)について
この神名は『先代旧事本紀』に登場する神名で 瓊々杵尊の兄に当たる神で 天押穂耳尊の子〈天照太神の孫神〉とされます 天孫降臨神話では 天つ神の命を受けて地上に天降りをする神として 天照太神・高皇産霊尊から命を下され「天璽瑞宝十種」を授り 天磐船に乗り 河内国の河上の哮峰に天降り 次に 倭国の鳥見の白庭山に遷ったと伝えています
その地で 長髄彦の妹の御炊屋姫を娶り懐妊させたあと亡くなったと云う
亡くなったのは 磐余彦尊〈神武天皇〉の東征以前であるため 長髄彦の君主となり 長髄彦の誅殺を行った神は 御子の宇摩志麻治命と伝えています
神名の「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」については 天火明命を饒速日命に結合した名称だと云われ 出自や事跡が『記紀』の天火明命と同一視されます
『日本書紀』では ゛饒速日命(にぎはやひのみこと)゛と別名で呼ばれます
饒速日命は 天から降りて 長髄彦(ながすねびこ)の妹であった゛三炊屋媛(みかしきやひめ)゛と結婚し 御子゛可美真手命(うましまでのみこと)゛が生まれた
長髄彦は すでに天つ神の御子 饒速日命を主君として仕えていた時 国を奪いにきた神日本磐余彦尊〈神武天皇〉が 自らを天つ神の御子と称していることを偽称と疑い 互いに天つ神の御子の証である天羽羽矢一隻と歩靫を示しあって証明したのですが 抗戦をやめようとしませんでした
そこで 饒速日命は天つ神は 天孫(神日本磐余彦尊)に味方すべきだとした上で 長髄彦の邪な性質を看取し 彼を殺し 彼の軍勢を率いて神日本磐余彦尊に帰順したと伝えています
『日本書紀』『先代旧事本紀』には 邇芸速日命(にきはやひのみこと)は 天皇の祖神より先に地上に降臨し 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨説話とは別系統の説話として 天皇に対抗しうる天孫の資格を持った神として描かれています
饒速日命(にぎはやひのみこと)については 別記事を参照ください
・饒速日命を祀る 延喜式内社について
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR予讃線 伊予北条記から東へ約3.1km 車6分程度
車で一の鳥居をくぐり 松山市立正岡小学校を過ぎた辺りの参道に 大きな石灯籠があります
目の前に丘陵があり 立派な社頭が見えてきます
國津比古命神社(松山市八反地)に参着
社頭には大きな社号標には゛延喜式内 國津比古命神社゛
別の社号標石には゛本朝守護 式内名神 両社鎮座゛とあり 櫛玉比賣命神社が鎮座することがわかります
幟に白地に紅色の文字で゛風早宮大氏神゛と記されているのは〈国津比古命神社と櫛玉比賣命神社を合わせた総称〉です
社頭には 写真入りの案内板があり みこし落としの神事 といって みこしを壊す神事が紹介されています
鳥居の手前 手水舎があり そこに立つ石碑゛式内名神両社千年祭之碑゛明治31年8月の揮毫(きごう)を書いた能書家について案内があります
゛伊予を代表する能書家 伯巌と米山の石碑゛
一礼をして鳥居をくぐり 石段を上がります
石段を上がると 広場があり
向かって右手には 國津比古命神社
向かって左手には 櫛玉比賣命神社と参道がわかれます
両社の社名が刻された 社号標石があります
向かって左手 櫛玉比賣命神社への参道です
櫛玉比賣命神社については 別記事を参照してください
・櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)
向かって右手には 國津比古命神社の隋神門があり その上に社殿があります
隋神門をくぐり抜けると すぐ右手には 境内社 金刀比羅宮
左手には 手水舎があり 清めてから 正面の石段を上がります
石段の上 拝殿の前には 青々とした茅の輪があります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
一礼をして戻ります
参拝日は 2016/7/31でしたが 夏越祭大祓 祭日であったようです
ちょうど 祭典の準備をされている最中でした
一声かけて 祭壇の撮影をしました
祭壇の向かって左側
張られている半紙が三枚あり 十二支と神名が記されています
初めて見る内容で 興味深いです
「子と午は 大己貴神 丑と未は 素戔嗚神」
「寅申は 道の御祖の猿田彦 巳と亥は 少彦名とぞ知れ」
「辰戌は 迦遇突智神 卯酉を 愛宕なり 守る月読の神」
右側には 馬の絵
祭壇の全体の様子
全国の色々と神社の夏越祭に参列していますが なんとも厳粛な印象を受け 背を正し 一礼をしてから参道を戻ります
参道石段を下り 境内の広場から 社頭を眺めると 西の方へと参道が伸びています
西へ通じている参道の先にみえている 円錐形の山は 山ではなく島です
伊予北条の瀬戸内海に浮かぶ゛鹿島゛です
國津比古命神社 櫛玉比賣命神社は まるで この鹿島を遥拝しているかの如く祀られているのが気になります
古代には 芸豫諸島と高縄半島は 古代海上交通路の重要拠点で 鹿島は 早くから 歴史に登場する風早地方の要塞地であったとされます
古代 風早地方の支配者であった物部(もののべ)氏は 軍事氏族と云われ 藤原氏の氏神で武神の鹿島神社が この鹿島に祀られているのは 偶然なのでしょうか
鹿島神社(松山市北条辻 鹿島)については 別記事を参照ください
・鹿島神社(松山市北条辻 鹿島)
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 國津比古命神社について 所在は゛八反地村に在す、゛〈現 國津比古命神社(松山市八反地)〉と記しています
【抜粋意訳】
國津比古命神社
國津には 久爾都と訓べし、比古は假字也、
〇祭神 明らか也
〇八反地村に在す、〔廿四社考〕
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 國津比古命神社について 所在は゛今 八段地村に在り、゛〈現 國津比古命神社(松山市八反地)〉と記しています
【抜粋意訳】
國津比古命(クニツヒコノミコトノ)神社
今 八段地村に在り、〔神名帳打聞、愛媛面影、〕
盖 風早國造の祖神 櫛饒速日命を祀る〔舊事本紀、續日本後紀、文徳実録、延喜式、参取土人傳説、〕
其祭 九月三日を用ふ、〔愛媛縣神社調帳〕
凡 本社神社 物部國造と云ふ、盖 神孫也、〔神名帳打聞、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 國津比古命神社について 所在は゛反地村(温泉郡正岡村大字八反地゛〈現 國津比古命神社(松山市八反地)〉と記しています
祭神について 考証がなされていて゛國津比古神と申すは 必ず饒速日命なる事を知るべき也゛と記しています
【抜粋意訳】
國津比古命神社
祭神 櫛玉饒速日命
今按 明細帳また註進狀に 祭神 饒速日命 宇麻志眞治命 品陀和氣尊とある 品陀和氣尊は後に合せ祭るものとみゆれば もとよりの祭神にあらず
さて 二座の内 主神 國津比古神は 饒速日尊にて其子 宇麻志眞治命を合せ祭れるなるべし 國津比古神と云る事は 國造木紀に風速國造 軽島豊明朝 物部連祖 伊杏色男命四世孫 卽 佐利定賜國造
また 日本後紀〔承和六年十一月癸未〕伊豫國人云々 風早直豊宗等 賜姓善友朝臣天神驍速日命之後也などもありて 國造の氏人の本郡に住るが 其祖神を祭るにつきて 殊に功業をほめたたへて かくは稱へるならん 其はこの命の事を 日本紀 舊事紀に櫛玉饒速日命とみえ 次に櫛玉比賣神社あるは 其妃 御炊屋姫命なる事 著きを以て 國津比古神と申すは 必ず饒速日命なる事を知るべき也祭日 九月三日
社格 郷社所在 反地村(温泉郡正岡村大字八反地)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇愛媛縣 伊豫國 温泉郡正岡村大字八反地
縣社 國津比古命(クニツヒコノミコトノ)神社
祭神
天照国照日子火明(アマテルクニテルヒコホアカリノ)尊宇麻志摩遅(ウマシマヂノ)命
譽田別(ホムダワケノ)尊傳へ云ふ、應神天皇の御宇、祭神 天照國照日子火明命 亦名 櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)の御子 、同祭神 字麻志摩遅命四世の孫 鬱色雄命(ウツシコヲノミコト)の弟 大綜杵命の子 伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)の孫 阿佐利(アサリ)を風速の國造に定め給ふ、阿佐利 此の地に國造たるや、遠祖二神を二社へ奉齊す、即ち本社 國津比古命神祉に櫛玉饒速日命、櫛玉比賣命神社に櫛玉比賣命を奉斎し、神戸を定む、其名 今に存して、波田村 神田村等あり ,本社元と國津比古命神社と稱せしが、中古 頭日神社と稱す、頭日、加久禰(カクネ)と訓す、後も國造 阿佐利、譽田別尊 即 應神天皇の恩寵を蒙りし故を以て、天皇を拝殿に奉斎し、更に頭日八幡宮と號せしが、中御門天皇 享保年中 舊號に復す、國造 阿佐利の後胤、後別れて先生國造の二家と成る、俱に本社に奉仕す、
明治四年神社改正の際 先生氏 當社の祠官に、國造氏 櫛玉比賣命神社の祠掌 となり、今尚奉仕せり、明治の初年 郷社に列し、同二十九年十二月縣社に昇格 せり。社殿は本殿・拜殿・其他神供所・神樂殿・楼門・神井屋等あり、境内は千八百二十七坪 (官有地第一種)外に近く編入せられし上地林四百六十四坪あり。
當社祭神に関し、特選神名牒に説あり、云く、
「今按 明細帳また註進狀に 祭神 饒速日命 宇麻志眞治命 品陀和氣尊とある 品陀和氣尊は後に合せ祭るものとみゆれば もとよりの祭神にあらず
さて 二座の内 主神 國津比古神は 饒速日尊にて其子 宇麻志眞治命を合せ祭れるなるべし 國津比古神と云る事は 國造木紀に風速國造 軽島豊明朝 物部連祖 伊杏色男命四世孫 卽 佐利定賜國造
また 續日本後紀〔承和六年十一月癸未〕伊豫國人云々 風早直豊宗等 賜姓善友朝臣天神驍速日命之後也などもありて 國造の氏人の本郡に住るが 其祖神を祭るにつきて 殊に功業をほめたたへて かくは稱へるならん 其はこの命の事を 日本紀 舊事紀に櫛玉饒速日命とみえ 次に櫛玉比賣神社あるは 其妃 御炊屋姫命なる事 著きを以て 國津比古神と申すは 必ず饒速日命なる事を知るべき也」とあり。
境内神社 金刀比羅宮
【原文参照】