荒神神社(豊岡市日高町国分寺)〈『延喜式』賣布神社〉

荒神神社(こうじんじんじゃ)は 明治維新の際 国分寺境内から遷った神社です 延喜式内社 但馬國 氣多郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)は 往古は禰布ヶ森に鎭座 洪水で社殿が流出 中世に天神山中腹〈この地〉に遷宮 文久二年(1862)賣布神社跡地に遷座後 令和元年(2019)中世の鎮座地〈荒神神社に合祀〉遷座しました

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

荒神神社(Kojin shrine)

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

兵庫県豊岡市日高町国分寺691
〈旧住所〉城崎郡日高町国分寺字谷口739

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》火結神(ほむすびのかみ)

《配》津比古命(おきつひこのみこと)
   津比(おきつひめのみこと)

《合祀》大賣布命(おほぬふのみこと)
 令和元年(2019)荒神神社に遷座合祀された賣布神社の御祭神

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

荒神神社(コウジンジンジャ) 由緒

 創立年月不詳

 鎌倉時代法勝寺末寺領となりて佛神田2町3反を修理田となし江戸時代には、国分寺の鎮守荒神、八幡、稲荷の3社と称せし荒神社とは当社の事なり。

 文政11年(1828)本殿を再建し、明治維新の際、国分寺境内より今の地に遷座せり。

 明治6年(1873)10月村社に列し、大正3年(1914)本殿を再建せり。

2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6322224.html

【由  (History)】

『日高町史下巻』昭和58年に記される内容

【抜粋】

第六部 資料 四 日高町所在神社

荒神(こうじん)神社 日高町国分寺字谷口六九一

祭神 火結神 澳津比古命 澳津比売命

由緒沿革

 創立年月不詳。鎌倉時代法勝寺末寺傾となって仏神田二町三反を修理田としていた。江戸時代には、国分寺の鎮守として荒神、八幡、稲荷の三社があったが、この荒神社が当社であるという。文政十年 (ー八二七 )本殿を再建し、明治維新の際、国分寺境内より今の地に遷宮した。
明治六年村社となり、大正三年本殿を再建した。

『日高町誌』豊岡市立図書館より
https://lib.city.toyooka.lg.jp/kyoudo/komonjo/cat114/cat310/

賣布神社跡(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)の案内板より

式内社 賣布(めふ)神社跡

 豊岡市日高町国分寺字山ノ脇七九七 旧石立村

由緒

 祭神 大賣布命

 創社 朱雀三年

当社往古は 祢布ケ森にあったが 字天神山中腹に遷宮する。

万延元年(一八六〇年)本殿再建する。
 後に、大雨の為、境内が破損し文久二年(一八六二年)現在地に遷宮する。

明治六年(一八六七年)格式制度廃止により村社となる。
明治九年(一八七九年)石立村と国分寺村が合併し国保村となる。
大正十年(一九二一年)屋根替えする。
昭和二十七年(一九五二年)近隣の国府村と聞き間違い多く再び国分寺村に改名し現在は国分寺区となる。

令和元年(二〇一九年)荒神神社に遷座合祀する。

神社合祀実行委員会

[追記]
式内社 平安時代前期、延喜式の巻九、十の神名帳に記載された神社で(官幣社、国幣社)三千百三十二座の記載がある由緒ある神社。

令和二年三月吉日

現地案内板より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

荒神神社 社殿

・〈境内社〉社殿向かって左に小祠一宇

賣布神社の中世の鎮座地跡には 現在も小があるとされているが その祠だろうか?

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈賣布神社創立当初の鎮座地〉布ヶ森遺跡(にようがもりいせき)

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布ヶ森遺跡(にようがもりいせき)は 平安時代の國府の跡とされます

賣布神社は 往古は布ヶ森と呼ばれるところに座していたが 洪水で社殿が流され 中世に天神と呼ばれる山腹〈現 荒神神社(豊岡市日高町国分寺)〉に遷座したとへられています

・賣布神社跡地(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)

・〈中世~文久二年(1862)までの賣布神社の鎭座地 中世の鎮座地〉
・〈令和元年(2019)荒神神社に 賣布神社を遷座合祀 現在の合祀先〉

 荒神神社(豊岡市日高町国分寺)の社地は〈中世文久二年1862までの賣布神社の鎭座〉とされています
荒神神社は 明治維新の際 国分寺境内より現在地に遷座されたものです
賣布神社は 令和元年(2019)荒神神社に遷座合祀されています

・賣布神社跡地(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)については こちらの記事を参照
〈令和元年(2019)荒神神社に合祀〉

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
『續日本紀』延暦16年(797)完成
『日本後紀』承和7年(840)完成
『續日本後紀』貞観11年(869)完成
『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)但馬國 131座(大18座・小113座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)氣多郡 21座(大4座・小17座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 賣布神社
[ふ り が な ](ひめふの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Himefu no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「(ひめふの かみのやしろ)」について

八社があり それぞれの式内論社について

延喜式内社 尾張國 中嶋郡 賣夫神社(大貞)(めふの かみのやしろ)

・賣夫神社(稲沢市平和町嫁振)

・天神社(一宮市萩原町西宮重東光堂)

延喜式内社 攝津國 河邊郡 高賣布神社(たかひめふの かみのやしろ)

・高賣布神社(三田市酒井)

延喜式内社 攝津國 河邊郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

・賣布神社(宝塚市売布山手町)

延喜式内社 丹後國 竹野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

・賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷)

延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

・賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)

・布森神社〈布杜神社〉(京丹後市久美浜町女布)
〈賣布神社の神幸時の御旅所〉元宮であるとも云う

延喜式内社 但馬國 氣多郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

布ヶ森遺跡公園(豊岡市日高町祢布)
〈賣布神社の当初の鎮座地〉

・賣布神社跡地(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)
〈令和元年(2019)荒神神社に合祀〉

・荒神神社(豊岡市日高町国分寺)
・〈中世文久二年1862までの賣布神社の鎭座地 中世の鎮座地
・〈令和元年(2019)荒神神社に賣布神社を遷座合祀 現在の合祀先

延喜式内社 出雲國 意宇郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR山陰本線 江原駅の西口から北北西へ約700m 徒歩での所要時間は9~12分程度 車ならば2~3分程度

途中 「国指定史跡 但馬国分寺跡」があります

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史跡 但馬国分寺跡と 祢布ヶ森遺跡

 国分寺は、天平13年 (741年)に聖武天皇の詔によって各国に造られた寺院で、僧寺と尼寺があります。

但馬国分僧寺は日高町国分寺に、但馬国分尼寺は日高町水上から山本にかけて造営されました。但馬国分僧寺は、昭和48年(1973年)から発掘調査を開始、金

堂、塔、中門等の主要伽藍と寺域の東南隅を区画する築地跡を確認できたことから、約160m四方の大きさであると推定されます。但馬国分寺の主要伽藍につ

いては天平勝宝8年(756年)頃に完成、諸施設を含む大伽藍については、出土した木簡に書かれた内容や井戸枠材の年輪から天平神護元年 (765年) 頃であったと推定されます。
但馬国分寺跡の東側には祢布ヶ森遺跡があります。最近の発掘調査で規則性を持たせて配置した大型の建物群と輸入陶磁器を含むたくさんの出土品が見つかりました。出土した木筒から、延暦23年(804年)に移転した但馬国府跡ではないかと考えられます。

日高町教育委員会

案内板より

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護国山 但馬国分寺の脇から 北方向の山へと上がる道があり これを上ると境内に出ます

境内の横の山は 桜祭りでもあるのでしょうか 提燈が飾られた道が山へと上がっています

境内にも車が停車していました

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荒神神社(豊岡市日高町国分寺)に参着

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石段を上がり

拝殿にすすみます

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社殿は東を向いています

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 境内を戻ります

北側の眼下には 但馬国分寺跡・祢布ヶ森遺跡公園(但馬国府跡)などがある豊岡市日高町が見えています

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 賣布神社について 祭神・所在は記されていません

【抜粋意訳】

賣布神社

賣布は假字也

○祭神詳ならず

類社
 攝津國 河邊郡 賣布神社の條見合すべし

【原文参照】

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『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 賣布神社について 所在は゛石立村にあり、゛〈現 賣布神社跡地(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)〉と記しています

【抜粋意訳】

賣布(メフノ)神社、

 石立村にあり、

 九月十六日祭を行ふ、〔神社明細帳、豐岡縣式社取調帳、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 賣布神社について 所在は゛石立村゛〈現 賣布神社跡地(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)〉と記しています

【抜粋意訳】

賣布神社

祭神
祭日 九月十六日
社格 村社

所在 石立村

【原文参照】

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荒神神社(豊岡市日高町国分寺) (hai)」(90度のお辞儀)

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但馬国 式内社 131座(大18座・小113座)について に戻る

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