幸神社(さいじんじゃ)は 鎮座の年代は不詳ですが 口碑には 大田神社(おおたじんじゃ)とともに 賀茂に於ける最古の社とも伝わり 古来から ゛神坂山(こうさかやま)゛を祀る社と伝わります〈上賀茂神社の御神体山は神山〉 延喜式内社 山城國 愛宕郡 鴨岡太〈鴨岡本〉神社(かもをかもとの かみのやしろ)の旧社地と云い伝わっています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
幸神社(Ko shrine)
【通称名(Common name)】
・おさいさん
・おこうさん
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市北区上賀茂岡本町30
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》不詳
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧社地
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
賀茂保房縣主の同氏福縣主記には゛岡本神社は神坂〔太田社の東二町の麓路をかく云り〕と中山〔神坂に続きたる山の惣名也とぞ〕の間 南の麓に、元射場と云所あり 是 岡本社の旧跡也と言伝へたり゛〈現 幸神社(京都市北区上賀茂岡本町)〉との説を挙げています
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 鴨岡本〈鴨岡太〉神社
[ふ り が な ](かも おかもとの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kamo okamoto no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 山城國 愛宕郡 鴨岡太〈鴨岡本〉神社(かもをかもとの かみのやしろ)の論社
・山森神社(京都市北区上賀茂本山)
〈上賀茂神社 境内社〉
・幸神社(京都市北区上賀茂岡本町)
・厳島神社(京都市左京区静市市原町)
・大神宮(京都市左京区静市市原町)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉に参拝の後 太田神社経由で 幸神社(京都市北区上賀茂岡本町)に向かいます
・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)については こちらの記事を参照
上賀茂神社の社頭を東へすすみますへ
社家通りを 明神川沿いに東へ進むと 上賀茂神社の末社 藤木社があります
藤木社の先を 左折〈北へ〉すると太田社の社頭に出ます
大田神社の記事を見てください・大田神社(京都市北区上賀茂本山)
大田神社の社頭をさらに東へ170m程進みます
上賀茂神社の社頭から約850m 徒歩で15分程度
「愛染倉」と云う看板のある敷地内に鎮座すると調べていたのだがよくわからない
垣根沿いに進むと 生垣の切れ間に門があり 木戸〈竹戸〉があって その奥に社が見えます
扉を開くと 間違いなく お社が鎮座しています
幸神社(京都市北区上賀茂岡本町)に参着
人様の庭ですが 扉は開き 参拝が可能なようです
一礼をして 門をくぐり お詣りをさせていただきます
入って 左手には゛手水鉢゛と゛境内社が一宇゛祀られています
枯葉一枚ですら 落ちていませんので とても丁寧に祀られていることがわかります
社殿は 瓦屋根の覆い屋の中に祀られています
社殿にすすみます 先程の境内社が 本殿の左奥に見えます
社殿には 榊が祀られていて 祭祀は続いておられます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
古来から ゛神坂山(こうさかやま)゛を祀る社と伝わり 延喜式内社 山城國 愛宕郡 鴨岡太〈鴨岡本〉神社(かもをかもとの かみのやしろ)の旧社地と云い伝わっています
社の背後には 神坂山(こうさかやま)があります
社殿の向かって右手は「愛染倉」さんの庭続きです
一礼をして 後にします
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 鴨岡本神社について 所在は゛在所今廃亡す゛とあり 廃絶して不明と記しています
賀茂保房縣主の同氏福縣主記には゛岡本神社は神坂〔太田社の東二町の麓路をかく云り〕と中山〔神坂に続きたる山の惣名也とぞ〕の間 南の麓に、元射場と云所あり 是 岡本社の旧跡也と言伝へたり゛〈現 幸神社(京都市北区上賀茂岡本町)〉との説を挙げています
【抜粋意訳】
鴨岡本神社
鴨は前に同じ、」岡本は哀加毛止と訓べし、
○祭神詳ならず〔比保古に、太の字を據として、岡田賀茂と等しく建角身命と究めしは信用がたし〕
○在所今廃亡す
賀茂保房縣主云、同氏福縣主記〔延宝年間 人也〕に、岡本神社は神坂〔太田社の東二町の麓路をかく云り〕と中山〔神坂に続きたる山の惣名也とぞ〕の間 南の麓に、元射場と云所あり、彼射場〔今頽敗せり〕の邊に林あり、此内に神木とて伐らず綺(イロ)はざる樹立今にあり、是 岡本社の旧跡也と言伝へたりと見ゆと云り、
〔連胤〕按るに、今の岡本町は西に隔つるといへども、此邊すべて岡本と呼し處にもやあらん、雑事
續本後紀、天長十年十二月癸未朔、道場一処在山城國愛宕郡賀茂社以東一許里、本号岡本堂、是神戸百姓奉為賀茂大神所建立也、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 鴨岡本神社について 所在は゛今 廃たり゛とあり 廃絶して不明と記しています
寬文の頃にかける賀茂氏福筆記に゛岡本神社は神坂〔太田社の東二町の麓路をかく云り〕と中山〔神坂に続きたる山の惣名也とぞ〕の間 南の麓に、元射場と云所あり 是 岡本社の旧跡也と言伝へたり゛〈現 幸神社(京都市北区上賀茂岡本町)〉との説を挙げています
【抜粋意訳】
鴨ノ岡本神社
今 廃たり、〔山城式社考、式社考証〕
〔〇按 續日本後紀 天長十年十二月癸未朔日の條に、道場一所、山城國愛岩郡 賀茂社 以東 一許里にあり、本岡本堂と號く、是神戸百姓賀茂大神の為に建立する所也、とあるを思ふに、當社は其神戸ありしに因て祭られしものなるが、後に寺をも建しなるへし、さて寬文の頃にかける賀茂氏福筆記に、當社は神坂と中山との間 南の梺にありと云るによりて、式社考証に今 本社一鳥居より東七町餘にあれば、其邊と知られ、又此西側に岡本町あるも縁ありと云るは、舊社なるへし〕
盖 賀茂大神を祭る〔續日本後紀大意〇按 本書に、岡本は賀茂大神神戸の地也〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 鴨ノ岡本神社について 所在は
①市原村の産神なり〈現 大神宮(京都市左京区静市市原町)〉
②市原村の辨天祠〈現 厳島神社(京都市左京区静市市原町)〉
③賀茂氏福筆記に゛岡本神社は神坂〔太田社の東二町の麓路をかく云り〕と中山〔神坂に続きたる山の惣名也とぞ〕の間 南の麓に、元射場と云所あり 是 岡本社の旧跡也と言伝へたり゛〈現 幸神社(京都市北区上賀茂岡本町)〉
④本社一鳥居より東七町餘〈現 山森神社(京都市北区上賀茂山本町)〉
との四つの説を挙げて 説明をしています
【抜粋意訳】
鴨ノ岡本(ヲカモトノ)神社
祭神
祭日
社格所在
今按
京郡府式内考證に 當社或は市原村の産神なりと云ひ
又 西賀茂の邊ならんと云ふ 今 推考するに所謂 市原村と云は別雷神社あり 正保二年上申の書中に 山城國愛宕郡岡本郷市原村とあるを證としたるにて其社邊に 辨天祠あるを岡本堂の跡ならんと考へたるなれど 彼岡木郷は獨り市原村に限るべからず 況や岡本堂賀茂社以束にあること 正史に著きを 此村は同社の北にあれば 彼辨天祠は此堂の跡に非ること知るべし
又 西賀茂の邊と云るは 賀茂神記に 岡本郷の内に錦部郷中村郷ありて 此錦部郷は 今西賀茂の邊ならんと云るより 推當よる説なれば 分明ならず
賀茂縣主氏福筆記に岡本神社は 神坂〔太田社の東二町の麓〕と中山〔神坂の続き山の惣名〕の間 南の麓に 元射場と云所あり 彼射場の邊に林あり 此内に神木とて伐らず綺(イロ)はざる樹立今にあり 是 岡本社の舊跡也と云るは 今 本社一鳥居より東七町餘 小山の麓に小林尚存せる所にして 鴨岡本の號之を實地に徴すべく
又 續日本後紀に 賀茂社 以東一許里 本號 岡本堂とみえたる一里は 今の一里に非れば 凡此邊にありと知られ 又 北西側の人家を岡本町と云も尤縁ありて聞ゆれば 蓋是 當社舊地と定むベきかと云る據あるに似たり
【原文参照】