河原神社〈御同座 毛理神社〉〈豊受大神宮(外宮)摂社〉

河原神社(かわらじんじゃ)〈御同座 毛理神社(もりじんじゃ) どちらも『延曆儀式帳804年成立)』に川原社(かはらのやしろ)毛理社(もりのやしろ)と記載される千年以上の古社 川原社は寛文三年に当地に再興された『延喜式神名帳(927年)所載伊勢國 度會郡 川原大社かはらの おほやしろの論社 毛理社明治三年1870)に御同座御再興されて 今日に至ります

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

河原神社(Kawara shrine

〈御同座〉毛理神社(Mori shrine)

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市御薗町新開下倉304

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

河原神社
《主》川神(かわのかみ)

〈御同座〉毛理神社
《主》木神(きのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社河原神社
〈豊受神宮(外宮)摂社〉河原神社
〈豊受神宮(外宮)末社〉毛理神社

【創  (Beginning of history)】

『神宮摂末社巡拝 下』に記される内容

【抜粋意訳】

河原神社(からじんじゃ)

 河原淵神社を拜して大湊道を進むと度會郡 (みそのむら)に出る。左手の大字 新開(しんがい)の宮川のー支流の堤の下に鎭座してゐるのが、受大神宮の攝社河原神社である。十間四方の小さなお森の中に鎭座してゐる。こゝも宮川の流の河原の田地守護のための神社で、御祭神は川神と水神とになってゐる。
 本社も先きの河原淵神社と同様一千年以上の古社で、延曆儀式帳には川原社とあって、官幣供進の社に加へられてゐる。
延喜大神宮式には河原大社同齋宮式には川原社、同神名帳には原大社と見えてゐる。神名秘書に箕曲郷勾(みののがうまがり)村にありと見えてゐる。
宮川の下流の水の鬱曲してゐる邊りの守護神であったことが分る。

この社も中世戰乱の波を受けて社地滅せしを寬文三年、この地に再興したものである。

毛理神社(もりじんじゃ)

 本社は 豊受大神宮の末社で、河原神社の中に御同座してゐる神である。
延曆儀式帳に毛理社(もりのやしろ)と見えてゐるから、未官帳の社ではるが、一千年以上の古社であることが分る。
 毛理の意味は、長徳檢錄といふ書物に杜社(もりのやしろ)と書かれてゐる樣に、森の社のことで、森の神木の神を祭った神社である。
御社地は、古くから河原神社の
付近と傳へられてゐるが、中世戰乱のため社地滅に帰し、久しく不明になってゐたのであるが、明治三年に至り、これを、河原神社の御社殿の中に、御同座御再興申上げ、全日に至てゐる。

【原文参照】

猿田彦神社講本部 [編]『神宮摂末社巡拝』下,猿田彦神社講本部,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033626

【由  (History)】

『大神宮叢書』に記される内容

【抜粋意訳】

外宮宮社 所攝神社 川原神社

 此社は帳に川原社、大神宮式に河原大社、神名式に川原坐國生神社と出たり。(神名祕書に、川原坐國生神社を高河原社とし、月夜見命御玉を祭るといへるはたがへる説なりけり)
此川原と云は 地のさまをもて云なるべく、(地名にはあらじ。)
大社といへるは國生の神に坐故 稱へいへるならん。(帳の神社ども十三區とも同じ狀なれば、此社のみ其制大なるにはあらず。)
 さて國生は國御神にまして、此地に功ありし神なるべし。(古は土地の廣狹にかかはらず、いさゝかなる地をも國といへり。)下なる大間國生社も同じ。(内宮帳の攝社に川原神社と云あリて、月讀神の御玉を祭れりといへば、此社も同じかるべくおもへど、國生社と正しくあれば然らず。)
 此社地は箕曲郷勾村字三ッ社にありといへり。(神名秘書・神名略記も同じさまにいヘり。又 三ッ社は水社といふよし異説あるはひが言なり。)
元祿二年の引付に、舊地知がたかりしかば 寬文三年に勾村は今の新開村なりとて、此村の東方に建たりしを、元祿五年十一月八日、河原大社造立の時、司中政所より王中島村年寄に符を下し、今度河原大社大宮司殿被ニ修造候慮、社地狹少故、新開王中島両村之領、當社之西方南北十ー間、東西五間被レ寄ニ附之、誠以神忠之至候云々、とあり。今も此地に建たり。(神境紀談に、下野村の中大勾といふ地あり。卽ち古の勾村なり。寬文三年再興の時彼村に公訴ありければ、村老等更に勢せん事を恐れて深く秘しけると里人のいへり。あに遺恨ならずや、といへり)

外宮宮社 不載官帳攝社 毛理神社

此社は 帳に毛理社とあり。此毛理は地名なるべし。(神名秘書に、三津社、ー云に杜社、とある杜も毛理なり。)
祭神詳かならず。
社地は高向郷高向村に在りといへり。

(今按に、神名秘書に、川原社在に箕曲次勾村、一云に三津社、一云に杜社、とある杜社は此毛理の社ならんか。此あたり高向郷なリ。猶考ふべし。)

【原文参照】

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

河原神社は 豊受神宮(外宮)摂社
〈御同座 毛理神社〉は 豊受神宮(外宮)の末

・豊受神宮(外宮)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭並預゛と記されます

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭

以下略

【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 川原大社
[ふ り が な ]かはらの おほやしろ
[Old Shrine name]Kahara no ohoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原大社かはらの おほやしろの論社について

『神宮要綱〈昭和3年1928)〉』に記される内容

河原大社〈豊受大神宮(宮)摂社の旧鎮座地について
箕曲郷勾村に在り〈明応7戌午年1498地震津波のため 流出した神社

①寛文三年再興〈河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉の現社地
檜木尻の社〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
③神社町大字竹鼻の西南田圃中の叢林〈大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)

何れであるかは 判断がつかないと記しています

【抜粋意訳】

攝社末社所管社

河原神社

鎭座地 三重縣度會郡御薗村大字新開

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其
右神宮司廰造替

河原(かはら)神社は 延喜大神宮式及び神名式に河(川)原大社に作る。
神名祕書及び神祇本源所引の社記には 箕曲郷勾(ミノガウマガリ)村に在り、祭神 川神・水神の二座と爲せり。
中世以後 社地 湮滅して明かならず。
寬文三年 大中臣精長 之を地名と傳説とに考へ、現地に再興す。
但し 両宮攝社参詣記には 檜木尻の社を以て本社に擬し、神名帳考證再考・勢陽五鈴遺響等之に從へり。
又 二宮管社沿革考には、神社町大字竹鼻の西南田圃中の叢林を以て ,本社の奮地と爲せり。勾の地名は鎌倉時代に於て既に存せること、光明寺舊記及び神宮雜書に載する所の文書によりて知るべく、之を地理と遺跡とに徵するに、今の御蘭村の東部より神社町に亘る地域之に相當するが如し。
然れども寬文再興の現社地が果して眞の古址たるや否やに至ては、容易に之を断言し得べからざるに似たり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社

・河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

②・河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

③・大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)
〈式内社の論社 川原大神社の旧鎮座に祀られていた祠(水饗社)を合祀〉

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR参宮線・近鉄 伊勢市駅から 県道201号経由で北上 約3.4km 車15分程度

新開地区の住宅街と水田との境界辺りに鎮守の杜が見えてきます

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境内の周囲には 生垣が廻されています

河原神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉に参着

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入口は 境内の南東側に設けられていて 社号標の小さな石柱には゛河原神社社域゛と刻字されています

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殿にすすむと 石柱が立ち゛豊受神宮 摂社 河原神社゛とあります

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お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 川原大社について 所在は 載せず
大社と呼ぶのは 同じ郡に川原神社がある為で深い意味はない と記しています

【抜粋意訳】

川原神社

川原は前に同じ

○祭神 川神、水神、神名秘書
○(欠く)

○式四、伊勢大神宮 度曾宮所摂十六座の第十一に載す

連胤云、式内小の社にて、大社とあるは社と近江國 栗太郡 小槻大社のみ也、
当社は上に川原神社あり、小槻大社も同郡に小槻神社あり、共に同を分むため かくいふにて、大社といふに深き心あるに非ずと知るべし、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 川原大社について 所在は゛昔 箕曲郷勾村 川原渕社 玉垣内にあり、三津社と云゛と記すが 現在地については 明言しません

【抜粋意訳】

川原(カハラノ)大社

昔 箕曲郷勾村 川原渕社 玉垣内にあり、三津社と云、神祇本源、神名秘書、
後 舊址詳ならず、近世 之を新開村に建つ、神境紀談、神名略記、
〇按 今 船江町産神社の地に淵形池あり、毎年 淵祭あり、是蓋 川原渕社にして、其北 檜尻地に川原渕社と云ふは、此の説據あるに似たり、附て考に備ふ

醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 川原大社について 所在は゛蘭村大字新開゛〈現 河原神社(伊勢市御薗町新開)〉とし
旧鎮座地の所在について゛竹ケ鼻村に今も川社と唱ふる小祠あり是ならむ゛〈現 大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)〉である と記しています

【抜粋意訳】

川原大社

祭神
祭日 六月九月十二月並十八日

社格 外宮所攝十五所之一 (外宮摂社)

所在 三重箕曲郷新開村 (度會蘭村大字新開 )

今披るに檢錄に寬文三年の地に造立あり 舊社はと云へり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

河原神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

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