韓國神社(豊岡市城崎町飯谷)〈延喜式内社 物部神社〉

韓國神社(からくにじんじゃ)は 第25代 武烈天皇の命を受け 物部眞鳥(もののべのまとり)が 韓國へ派遣された後 但馬の楽々浦に着き 都へ報告に上った その功績により 韓國連を賜わり 物部韓國連眞鳥と称し その子・墾麿(こま) 城崎郡司に任命され その孫・物部韓國連 鵠(くくひ)が創建した物部神社とされます

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

韓國神社(Karakuni shrine

通称名(Common name)

・江戸時代までは「宸旦国大明神」

【鎮座地 (Location) 

兵庫県豊岡市城崎町飯谷(はんだに)250-1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》物部韓 眞鳥命(もののべからくにむらじ まとりのみこと)
   物部韓 懇麻命(もののべからくにむらじ こまのみこと

※社号石柱に刻字
韓国神社

元 物部神社

御祭神
 物部韓 眞鳥命
 城崎郡司 物部韓 懇麻命

 當地方開拓の祖神なり

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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

・ 第25代 武烈天皇の命を受け 物部眞鳥(もののべの まとり)が 韓國(朝鮮半島)へ派遣された後 但馬の水戸 楽々浦(ささうら)に着き 都へ報告に上り その功績により 韓國連を賜わり 物部韓國連眞鳥(もののべからくにむらじ まとり)と称した

・ 第29代 欽明天皇の頃 眞鳥の子・渚鳥(すとり)は 城崎郡司に任命され 名を墾麿(こま)と改め この付近を開墾し 地名を墾谷(はりたに)とし 墾谷(はりたに)から針谷(はりたに)となり 現在の飯谷(はんだに)となったと云う

・ 墾麿(こま)の子・眞鳥(まとり)の孫・物部韓國連 鵠(くくひ)〈久々比命〉 天武天皇白鳳3年(663墾谷の丘に祖父 眞鳥と父 墾麿を祀り 韓國神社となった〈当社は元々、飯谷川の上流、通称「森さん」と呼ばれる場所にあった

※物部韓国連墾磨命を墾谷丘の物部の宮に祀った 式内社 重浪神社(おもなみ かみのやしろ)は別記事にて

・重浪神社(豊岡市畑上字宮)

【由  (History)】

遷社碑

韓国神社者 舊区字宮津
 明治四十二年十一月偶内失火 社殿及山悉帰烏有 唯幸而  頼楽々浦岩崎石 拾得無事
 明年十一月 區民一致 建本殿上覆等 社堂高田伊織請宮 昇格為 幣帛供進指定神社
 昭和二年三月奥丹際大震災  此地山林崩壊埋没 殿宇無復 舊態 是遷社之議起 社掌高田恭 博質諸神 遂卜此地移 境内凡三百六十歩 其二百三十歩依 左記奉納 既得翌年二月起工寄進 氏子浄財 且助役十一月告成 今之社殿是也 総工費七千 千四百円財之補助 而専岩本吉兵衛之斡旋也  總七百余人於此得 氏子始安堵永誓無災 過建碑如 是時 昭和四年一月吉辰 城崎神宮 山口新一郎謹撰並書
當區氏子中
土地寄付者・・・・

現地石碑文より

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由 緒

 当社は元々、飯谷川の上流、通称「森さん」と呼ばれる場所にあったがその後、現在地から700m奥の宮ノ下へ遷座。

 昭和2年(1927)3月7日、奥丹後震災による山崩れにより社殿が全壊し、現在のシケ谷へ移転新築された。

 近くには戸島湿地帯が広がり、コウノトリ人工巣塔には時折コウノトリが舞い下りる。

2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6322099.html

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

韓國神社 社殿

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韓國神社 本殿の覆屋

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韓國神社 拝殿

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〈社殿の向かって左 境内社 三社あり〉

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手前から

・養父神社

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・奥の二社

〈祭神はわかりません〉

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・奥の一社には 狐が祀られているので稲荷社か?

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・鳥居・参道

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)但馬国 131座(大18座・小113座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城崎郡 21座(大1座・小20座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 物部神社
[ふ り が な ]もののへの かみのやしろ
[Old Shrine name]Mononohe no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 但馬國 城崎郡 にある 物部氏の祀られている式内社について

・ 第25代 武烈天皇の命を受け 物部眞鳥(もののべの まとり)が 韓國(朝鮮半島)へ派遣された後 但馬の水戸 楽々浦(ささうら)に着き 都へ報告に上り その功績により 韓國連を賜わり 物部韓國連眞鳥(もののべからくにむらじ まとり)と称した

・ 第29代 欽明天皇の頃 眞鳥の子・渚鳥(すとり)は 城崎郡司に任命され 名を墾麿(こま)と改め この付近を開墾し 地名を墾谷(はりたに)とし 墾谷(はりたに)から針谷(はりたに)となり 現在の飯谷(はんだに)となったと云う

・ 墾麿(こま)の子・眞鳥(まとり)の孫・物部韓國連 鵠(くくひ)〈久々比命〉 天武天皇白鳳3年(663墾谷の丘に祖父 眞鳥と父 墾麿を祀り 韓國神社となった〈当社は元々、飯谷川の上流、通称「森さん」と呼ばれる場所にあった

初 代 物部韓國連 眞鳥(もののべからくにむらじ まとり)

その子 物部韓國連 渚鳥(もののべからくにむらじ すとり)〈名を墾麿(こま)と改め〉

その孫 物部韓國連 鵠(もののべからくにむらじ くくひ)〈久々比命〉

この三代の物部連に関わる式内社と伝わります

延喜式内社 但馬國 城崎郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)

天武天皇白鳳3年(663物部韓國連 鵠(くくひ)〈久々比命〉 墾谷の丘に祖父 眞鳥と父 墾麿を祀り 韓國神社となったと云う

・韓國神社(豊岡市城崎町)

延喜式内社 但馬國 城崎郡 久久比神社(くくひの かみのやしろ)

一般には 創建について

 垂仁天皇の皇子、誉津別王は、年30歳になっても物を言われなかったが、ある日、空を飛んでいる鵠をご覧になり、初めて何物であるかと仰せられた。天皇は大いに喜ばれ、天湯河板挙命にこの鵠の捕獲を命じられた。命はこれを追って、但馬国で捕え、天皇に献じたという「日本書紀」の記述と神社の創立は、何か関連あるものと考えられる とする〈2008 兵庫県神社庁HPより〉

一説『国司文書 但馬故事記』には  物部韓國連 鵠(くくひ)〈久々比命〉を祀るものとする説あり

 当初は 大宝元年(701)秋 城崎郡司 物部韓国連神津主の子 久々比(くくひ)は 三江村に葬られ 祠を建て祀ったのが起源とされ
何時頃からか 
祭神が久々比命から 現在の木の神 久久遲命(くくのちのみこと)に変更されたのではないかと伝わる

・久々比神社(豊岡市下宮)

延喜式内社 但馬國 城崎郡 重浪神社(おもなみ かみのやしろ)

 天武天皇白鳳3年(675)6月久久比命が城崎郡司となり、その父・楮主(かみつ)命を敷浪の丘に葬り祠を建てて祀ったとき、共に祭祀を受け、重浪神社と称したという2008 兵庫県神社庁HPより

・重浪神社(豊岡市畑上字宮)

延喜式内社 但馬國 城崎郡 酒垂神社(さかたるの かみのやしろ)

酒垂神社は、物部韓国連久々比命が、五穀豊穣を祈って酒造神、酒弥豆男命(さかみずおのみこと)を祀ったとされる2008 兵庫県神社庁HPより

・酒垂神社(豊岡市法花寺字長楽寺)

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『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「物部神社」の名称を持つ式内社の論社について

太古の大和朝廷では 物部氏は 神道を奉じ軍事を司る氏族として「八十物部(やそのもののべ)」と云われ 絶大な勢力を保持していました
その後 神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります

『延喜式(Engishiki)』(927年12月編纂)の時代となっても かつての物部氏の勢力の大きさを示すように 広範囲に物部の神社は分布しています

東海道

「伊勢國 飯高郡 物部神社」 

・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈合祀〉

「伊勢國 壹志郡 物部神社」 

・物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉

「尾張國 春日部郡 物部神社」 

・味美白山神社(春日井市二子町)〈合祀〉

・味美二子山古墳(春日井市二子町)〈旧鎮座地〉 

・諸大明神社(春日井市松本町)

・八所神社(豊山町豊場木戸)

「尾張國 愛智郡 物部神社」 

・物部神社(名古屋市東区筒井)

・御器所八幡宮(名古屋市昭和区)

「甲斐國 山梨郡 物部神社」 

・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉

・物部神社(笛吹市石和町)

・大石神社(山梨市西)

・大石神社(甲州市塩山赤尾)

・白山建岡神社(山梨市上栗原)

「武蔵國 入間郡 物部天神社」 

・北野天神社(所沢市小手指元町) 

東山道

「美濃國 厚見郡 物部神社」 

・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)

・伊奈波神社 旧跡(岐阜市赤ケ洞)

・岩戸八幡神社(岐阜市長森岩戸)

・岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈参考論社〉

北陸道

「越中國 射水郡 物部神社」 

・物部神社(高岡市東海老坂)

「越後國 頸城郡 物部神社」 

・物部神社(上越市清里区)

「越後國 三嶋郡 物部神社」 

・二田物部神社(柏崎市西山町)

「佐渡國 雑太郡 物部神社」 

・物部神社(佐渡市小倉)

山陰道

「丹後國 與謝郡 物部神社」 

・物部神社(与謝野町石川)

「但馬國 城崎郡 物部神社」 

・韓國神社(豊岡市城崎町)

「石見國 安濃郡 物部神社」 

・物部神社(大田市)石見国一之宮

山陽道

「播磨國 明石郡 物部神社」 

・可美真手命神社(押部谷町細田)

・惣社(神戸市西区伊川谷町)

西海道

「壱岐島 石田郡 物部布都神社」 

・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉

・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉

・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR山陰本線 城崎温泉駅から円山川を渡り 東南方向へ約3km 車で5~10分程度

飯谷川が円山川と合流する地点は 湖のような様子ですが かつては海に直接繋がる 楽々浦(ささうら)でした

この楽々浦(ささうら)は かつて 物部眞鳥(まとり)が 韓國(朝鮮半島)へ派遣された後 但馬の水戸とされた楽々浦(ささうら)に着いたとされる場所です

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この楽々浦に流れ込む飯谷川がつくり上げたのが 飯谷です
県道9号を進みます

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神社への入口はわかりづらく 飯谷公園の所で二股を 9号線に進まず 右手の方へ飯谷川に沿って 真っ直ぐに集落へと向かいます さらに途中左へと狭い道があり飯谷峠の方を向いて伸びています この道はかつて飯谷峠への街道だったのでしょうか

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谷間の道に苔むした境内があり 石灯籠と鳥居が建ちます

韓國神社(豊岡市城崎町飯谷に参着

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左手の手水舎で清めて鳥居に向かいます
鳥居の扁額には「韓國神社」とあり 一礼をしてくぐり抜けて境内へ

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狛犬や石灯籠のある参道を

拝殿にすすみます

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社殿は冬場の風雪に耐えるよう 覆いがされています

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿の向かって左手には 三宇の境内社が祀られています

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社殿に一礼をして参道を戻ります

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再び 細い道で里へと戻ります

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先程の楽々浦(ささうら)湾は 物部眞鳥(まとり)が 韓國(朝鮮半島)へ派遣された後 但馬の水戸とされた楽々浦(ささうら)に着いたとされる場所でしたが

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飯谷峠を越えて東隣の谷 氣比川の流れる地 隣の谷には 物部韓国連墾磨命を墾谷丘の物部の宮に祀った 式内社 重浪神社(おもなみ かみのやしろ)があります

そちらに向かいます

重浪神社は別記事を参照ください

・重浪神社(豊岡市畑上字宮)

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 物部神社について 所在は゛在所 詳ならず゛不明としています
祭神については 物部多遅麻連公の祖神ではないだろうか と記しています

【抜粋意訳】

物部神社

物部は 毛乃々部と訓べし

〇祭神 物部多遅麻連公祖歟

〇在所 詳ならず

〇舊事記、〔天孫本紀〕宇摩志麻治命九世孫 物部多遅麻連公

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 物部神社について 所在は 不明としています
祭神については 物部多遅麻連公 ではないだろうか と記しています

【抜粋意訳】

物部(モノベノ)神社

〔〇按 舊事記本紀に、物部多遅麻連公あり、此に據らは、其 氏人或は 此に住る者、之を祭る歟、姑附て考に備ふ、

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 物部神社について 所在等 すへてについて未記入です 不明としています

【抜粋意訳】

物部神社

祭神
祭日
社格
所在

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

韓國神社(豊岡市城崎町飯谷 (hai)」(90度のお辞儀)

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但馬国 式内社 131座(大18座・小113座)について に戻る

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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