出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています
目次
- 1 出雲国造(いつものくにのみやつこ)とは
- 2 出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)とは
- 3 六国史などに記される 出雲国造による神賀詞奏上の記録 について
- 3.1 ①『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉霊亀二年(七一六)の条に記される伝承
- 3.2 ➁➂④ 『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉・神亀元年・神亀三年(七二六)・天平十年(七三八)に記される伝承
- 3.3 ➄⑥➆ 『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉・天平十八年・天平勝宝二年(七五〇)・天平勝宝三年(七五一)に記される伝承
- 3.4 ⑧➈⑩ 『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉・天平宝字八年(七六四)・神護景雲元年(七六七)・神護景雲二年(七六八)に記される伝承
- 3.5 ⑪ 『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉・宝亀四年(七七三)に記される伝承
- 3.6 ⑫⑬ 『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉・延暦五年(七八六)に記される伝承
- 3.7 ⑭ 『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
- 3.8 ⑮ 『日本後紀(Nihon koki)』〈承和7年(840年)完成〉・延暦二十四年(八〇五)に記される伝承
- 3.9 ⑯ 『日本後紀(Nihon koki)』〈承和7年(840年)完成〉め弘仁三年(八一二)に記される伝承
- 3.10 ⑰ 『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
- 4 『延喜式(えんぎしき)』〈延長5年(927)〉に記される
出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)について
- 4.1 『延喜式(えんぎしき)巻3』〈延長5年(927)〉神祇 負幸物(においさちのもの)について
- 4.2 『延喜式(えんぎしき)巻3-4』〈延長5年(927)〉神祇 国造神壽詞(くにのみやつこ かんのよことことぶき)について
- 4.3 『延喜式(えんぎしき)巻11-12』〈延長5年(927)〉(太政官 国造)(中務省 神寿辞)について
- 4.4 『延喜式(えんぎしき)巻18』〈延長5年(927)〉(式部上 国造叙位)について
- 4.5 『延喜式(えんぎしき)巻19-20』〈延長5年(927)〉式部下・大學寮について
- 4.6 『延喜式(えんぎしき)巻29-30』〈延長5年(927)〉刑部省・大蔵省について
- 4.7 『延喜式(えんぎしき)巻41-43』〈延長5年(927)〉弾正臺・左京職右京職・春宮坊ついて
- 4.8 『延喜式(えんぎしき)巻44-47』〈延長5年(927)勘解由使・左近衛府右近衛府・左衛門府右衛門府・左兵衛府右兵衛府ついて
- 5 『延喜式(えんぎしき)』〈延長5年(927)〉に記される 出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)の内容
- 6 『延喜式(えんぎしき)巻8』〈延長5年(927)〉神祇 祝詞 出雲国造神賀詞(いつものくにのみやつこのかんよごと)について
- 7 『延喜式(えんぎしき)巻8』〈延長5年(927)〉神祇 祝詞 出雲国造神賀詞(いつものくにのみやつこのかんよごと)の記述文
- 8 『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』に記される 大穴持命が〈御自分の和魂と三柱の御子神を〉皇御孫命〈天皇〉の守護神として置かれた4つの神社と御自分の鎮まる出雲大社について
- 9 ⑭豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに) に進む
- 10 ”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ) 『古事記』に登場する神話の舞台 に戻る
出雲国造(いつものくにのみやつこ)とは
出雲国造(いずものくにのみやっこ)は 出雲東部の意宇地方を支配した古代豪族の首長を指す名称とされます
大化改新(645年)以前には 日本国内には約140の国造が各地を支配していたが このなかでも出雲国造は 宮廷信仰とは異なる独自の信仰を背景として地方の祭政の一切を掌握し 山陰道に一大勢力をもった地方豪族でだったとされます
このように上古には 出雲を中心とした大きな勢力を誇った出雲氏(いずもうじ)〈姓は臣〉だったが やがて大和王朝の勢力が広がり〈6世紀後半から まず出雲西部についで意宇平野の東も〉制圧されて 出雲氏は服属支配下に置かれ 出雲国造に任ぜられていったとされます
このため 出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)の性格としては 服属儀礼とみる見方と復奏儀礼〈復奏(かへりごと)とは 来た道を帰ってから会って報告を申し上げる〉とする見方があります
出雲国造(いつものくにのみやつこ)とは
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出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)とは
新任の出雲国造(いつものくにのみやつこ)が 代替りごとに朝廷に参上して 天皇(すめらみこと)へと奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされます
すなわち任命された新任の出雲国造は 先ず 朝廷に参向して 新任の式が行われ〈太政官(おほいまつりことのつかさ)の庁舎で行われたとされている〉 次に天皇から負幸物(においさちのもの)を賜ります
「賜二出雲国造一負幸物 金装横刀一口、糸廿絇、絹十疋、調布廿端、鍬廿口」
其の後 直ちに出雲国に戻り 1年間の潔斎に入る
〈出雲の神々(186社)を1年間潔斎して祭る〉
その後 国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り 吉日を選び朝廷に参内〈国造が諸祝部(はふりべ)並びに子弟等を率いて入朝したこと 数々の献上物を奉ったこと 又 その式が神祇官長自らが監視 あらかじめ吉日を卜(ぼく)してその旨を奏聞し 宣旨の下で斎行されたこと等 細々とした式が 延喜式に記されています〉
そして 天皇の前で 神宝 御贄(みにえ)を献って奏上した祝詞(のりと)が 神賀詞(かんよごと)とされます
その後 再び 国造は出雲に帰り 一年の潔斎を行い 再び 朝廷に参向して献物を捧げて 神賀詞を奏上するとされます
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六国史などに記される 出雲国造による神賀詞奏上の記録 について
奈良時代より出雲国造による神賀詞奏上の記録は 六国史などによれば 霊亀2年(716)~天長10年(833)までの間に15例の確認ができます
これら史書に関連するものを掲載します
①『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉霊亀二年(七一六)の条に記される伝承
神賀詞の奏上の初出記事
ただし 神賀詞奏上が この年から始められた訳ではなく これ以前にも 出雲国造の就任に際して 神賀詞奏上が行われていたものと考えられています
「出雲国造による神賀詞奏上は天武朝に始まった」とする説もあります
【抜粋意訳】
霊亀二年(七一六)二月十日(丁巳)の条
〇(丁巳)出雲国の国造外正七位上 出雲臣果安(はたやす) 斎(もの忌み)し竟りて神賀事を奏す 神祇大副〈神祇官の次官〉中臣朝臣人足 其の詞を以て奏聞す 是の日 百官斎す〈文武百官が仕事を斎して止める〉果安より祝部〈出雲各社の神官〉に至るまで一百一十余人に 位を進め禄を賜ふこと各差(しな)有り
【原文参照】
➁➂④
『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉・神亀元年・神亀三年(七二六)・天平十年(七三八)に記される伝承
神亀元年 第26世 果安(はたやす)の後 第27世 出雲国造に就任したのが出雲廣嶋(いずもの ひろしま)
出雲廣嶋(いずもの ひろしま)は 二年後の神亀三年(七二六)に 再度 参内して 神社の剣・鏡・ならびに白馬・鵠などを献上し 位二階を進められ 絢・綿・布を賜っています
およそ200人近くの大人数の神官が 出雲から都〈奈良〉を訪れていた様子が伺えます
【抜粋意訳】
神亀元年・養老八年(七二四)正月二十七(戊子)・二十八日(己丑)の条
〇(戊子)出雲国造外従七位下 出雲臣廣嶋 神賀辞を奏す
〇(己丑)廣嶋と祝・神部らとに 位を授け禄を賜ふこと各差(しな)有り
【抜粋意訳】
神亀三年(七二六)二月二日(辛亥)の条
○(辛亥)出雲国造従六位上 出雲臣廣嶋 斎事畢はりて〈出雲に戻り 斎(もの忌み)し戻ったことを指す〉 神址(かみのやしろ)の剣・鏡併せて白馬・鵠等を献る 廣嶋併せて祝二人に並びに位二階を進む
廣嶋に絁廿疋 綿五十屯 布六十端 自余の祝部一百九十四人〈出雲の諸神社の神官〉に禄を賜ふこと各差有り
【抜粋意訳】
天平十年(七三八)二月十九日(丁巳)の条
〇(丁巳)出雲国造外正六位上 出雲臣広嶋に外従五位下
【原文参照】
➄⑥➆
『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉・天平十八年・天平勝宝二年(七五〇)・天平勝宝三年(七五一)に記される伝承
出雲廣嶋(いずもの ひろしま)の後 第28世 出雲国造に就任したのが出雲弟山(いずもの おとやま)
天平勝宝二年には「天皇 大安殿に御します」〈聖武天皇が直接奏聞した〉とあり ここでは 出雲国造の神賀詞は 天皇へ直接奏上しています
天平勝宝三年は 出雲弟山(いずもの おとやま)の二回目の神賀詞奏上
【抜粋意訳】
天平十八年(七四六)三月七日(己未)の条
○(己未)外従七位下 出雲臣弟山に外従六位下を授け 出雲国造とす
【抜粋意訳】
天平勝宝二年(七五〇)二月四日(癸亥)の条
〇二月(癸亥)天皇 大安殿に御します 出雲国造外正六位上 出雲臣弟山 神斎賀詞を奏す 弟山に外従五位下を授く 自余の祝部に位を叙すること差有り 並びに絁綿を賜ふこと 亦各差(しな)有り
【抜粋意訳】
天平勝宝三年(七五一)二月二十二日(乙亥)の条
○(乙亥)出雲国造出雲臣弟山 神賀詞を奏す 位を進め物を賜ふ
【原文参照】
⑧➈⑩
『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉・天平宝字八年(七六四)・神護景雲元年(七六七)・神護景雲二年(七六八)に記される伝承
出雲弟山(いずもの おとやま)の子で 第29世 出雲国造に就任したのが出雲弟山(いずもの ますかた)
神護景雲元年の「東院に幸したまふ」は 東の離宮に天皇が行幸されたの意
神護景雲二年 祝部の男女159人とあるので 女性の神官がいたことが分かります
【抜粋意訳】
天平宝字八年(七六四)正月二十日(戊午)の条
○(戊午)外従七位下 出雲臣益方を国造と為す
【抜粋意訳】
神護景雲元年(七六七)二月十四日(甲午)の条
○(甲午)東院に幸したまふ 出雲国造 外従六位下 出雲臣益方 神事を奏す 仍りて益方に外従五位下を授く 自余の祝部等に 位を叙し物を賜ふこと差(しな)有り
【抜粋意訳】
神護景雲二年(七六八)二月五日(庚辰)の条
○(庚辰)出雲国国造 外従五位下 出雲臣益方 神事を奏す 外従五位11を授く 祝部の男女百五十九人〈出雲の諸神社の神官〉に爵各一級を賜ふ 禄も亦 差(しな)有り
【原文参照】
⑪
『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉・宝亀四年(七七三)に記される伝承
出雲弟山(いずもの ますかた)の後 第30世 出雲国造に就任したのが出雲国上(いずもの くにかみ)
出雲國造神賀詞の奏上については 記されません
【抜粋意訳】
宝亀四年(七七三)九月八日(庚辰)の条
○九月(庚辰)外従五位下 出雲臣国上を国造と為す
【原文参照】
⑫⑬
『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉・延暦五年(七八六)に記される伝承
出雲国上(いずもの くにかみ)の後 第31世 出雲国造に就任した出雲国成(いずもの くになり)について
延暦四年「其の儀 常の如し」とあり この頃には出雲國造神賀詞の奏上の規定や儀式がほぼ決定して その規定通りに運ぶ意とされます
【抜粋意訳】
延暦四年(七八丘)二月十八日(癸未)の条
○(癸未)出雲国国造 外正八位上 出雲臣国成ら 神吉事を奏す 其の儀 常の如し 国成に外従五位下を授く 自余の祝らに 階を進むること各差(しな)有り
【抜粋意訳】
延暦五年(七八六)二月九日(己巳)の条
○二月(己巳)出雲国国造 出雲臣国成 神吉事を奏す 其の儀 常の如し 国成及び祝部に物を賜ふこと 各差(しな)有り
【原文参照】
⑭
『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
出雲国成(いずもの くになり)の後 第32世 出雲国造に就任したのが出雲人長(いずもの ひとおさ)
出雲人長(いずもの ひとおさ)は 平安京遷都に際しても神賀詞の奏上をしたと伝わります
【抜粋意訳】
延暦九年(七九〇)四月十七日(癸丑)の条
○(癸丑)従六位下 出雲臣人長を出雲国造と為す
【原文参照】
⑮
『日本後紀(Nihon koki)』〈承和7年(840年)完成〉・延暦二十四年(八〇五)に記される伝承
出雲臣門起とは 第33世 出雲国造に就任した出雲兼連のこと
【抜粋意訳】
延暦二十四年(八〇五)九月二十七日(壬辰)の条
〇(壬辰)出雲国造 外従六位上 出雲臣門起に 外従五位下を授く
【原文参照】
⑯
『日本後紀(Nihon koki)』〈承和7年(840年)完成〉め弘仁三年(八一二)に記される伝承
第34世 出雲国造に就任した出雲旅人の奏上の際には 嵯峨天皇が大極殿に御していたことが記されます
【抜粋意訳】
弘仁三年(八一二)三月十五日(癸酉)の条
○(癸酉)大極殿に御します 出雲国造 外従五位下 出雲臣旅人 神賀辞を奏す 併せて献物有り 禄を賜ふこと 常の如し
【原文参照】
⑰
『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
第35世 出雲国造に就任した出雲豊持の奏上について 淳和天皇が大極殿に御していたことが記されます
【抜粋意訳】
天長十年(八三三)四月二十五日(壬午)の条
○(壬午)出雲国司 国造出雲豊持らを率ゐて神寿を奏す 併せて白馬一疋 生雉一翼 高机四前 倉代の物五十荷を献ず 天皇大極殿に御しまして 其の神寿を受く 国造豊持に外従五位下を授く
【原文参照】
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『延喜式(えんぎしき)』〈延長5年(927)〉に記される
出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)について
『延喜式(えんぎしき)巻3』〈延長5年(927)〉神祇 負幸物(においさちのもの)について
この条項は 新任の出雲国造が国司に率いられて上京し 国造として正式任命を受ける時 天皇から賜る負幸物(においさちのもの)について記した条項
※「負幸物(においさちのもの)」は、出雲国造が新任の際に天皇から賜る品々の総称
【抜粋意訳】
『延喜式』巻三(神祇三 臨時祭 負幸)の条
出雲国造に賜はる負幸物(においさちのもの)
金装(こがねつく)りの横刀一口、糸廿絢、絹十疋、調布廿端、鍬廿口
右 国造に任じ屹はらば 弁一人 史一人 神祇官庁に就く
[弁の座を伯の座の上に設く 即ち弁西より入り座に就く 史の座は前敷に設く 其の史は東より入り座に就く]
次に伯已下祐已上 次ぎてを以て座に就く 史一人 大蔵の録一人 南門より入りて座に就く[録の座は前敷に設く]
史 官掌を唱びて仰せて云はく 「出雲の国司弁びに国造を喚せ」と
官掌 国司・国造を率ゐて版位に就く[国造版位に就き 国司次に立ち 官掌西に立つ 若し国司五位ならば座に就く]
史も亦 神部を喚す 神部一人進み[木綿の鬘幷びに手繦を著す]
大刀の案の下に就き 之に跪く 時に弁宣りて曰く「出雲の国造と今定まり給へる姓名に負幸の物を賜はくと宣る」と 国造唯と称す
再拝すること両段 手を拍つこと両段 屹りて大刀の案の下に進み 之に跪く 神部大刀を取りて授く 手を拍ちて賜ふ[柏手すること両段]退きて後取の人に授く 即ち版位に就く
次に大蔵の録国造を喚す 国造禄の下に就き跪く 後取一人進みて 先ず糸を取りて国造に給ふ 手を拍つこと一度 賜はりて後取に授く 後取退きて本の列に立つ 絹布鍬も亦之の如し
国造退きて版位に就く 更に大刀を取りて出づ[後取前に立つ 国造後ろに立つ 其れ国造は名を喚び及び禄を給ひし時 毎度唯と称す]次に録 次に本官 次に史 次に弁退出す
【原本参照】
『延喜式(えんぎしき)巻3-4』〈延長5年(927)〉神祇 国造神壽詞(くにのみやつこ かんのよことことぶき)について
負幸物を賜はり 出雲もに戻り 一年間の潔斎を終えて都に入る出雲国造による神賀詞奏上の儀礼について
国司は 国造や祝部また子弟などを引率し 京外の便宜の良い場所で献上物を整えると記されています
なお 出雲では 国造による一年間の潔斎の期間中は 重刑〈謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義の八罪〉の執行や校班田を停止したとしています
【抜粋意訳】
『延喜式』巻三(神祇三 臨時祭寿詞) 国造神壽詞(くにのみやつこ かんのよことことぶき)を奏す の条
玉六十八枚[赤水精八枚 白水精十六枚 青石玉四十四枚]
金銀装りの横刀一口[長さ二尺六寸五分]
鏡一面「径七寸七分」
倭文二端[長さ各一丈四尺 広さ二尺二寸 並びに案に置く]
白眼鴾毛馬一疋
白鵠二翼[軒に垂らす]
御贅五十舁[舁別に十籠を盛る]
右 国造に負幸物を賜はり 国に還りて潔斎すること一年[斎の内に重刑を決せず 若し校班田に当たらば 亦停めよ]
訖らば即ち国司は国造・諸の祝部幷びに子弟らを率ゐて入朝す 即ち京外の便処に於いて 献物を修め飾る 神祇官の長自ら監視す 預め吉日を卜し 官に申して奏聞すること 所司に宣り示す 又後の斎すること一年 更に入朝す 神寿詞を奏すること初儀の如し[事は儀式に見ゆ]凡そ 国造神寿詞を奏する日の平旦 神祇官は国造の奏事を試む 座料の調薦五枚を賜ふ
神寿を奏には斎すること一日 前に在りて官に申す 国造已下 祝・神部・郡司・子弟五色の人らに禄を給す 但し其の人数は 臨時に申す所にして定額有ること無し 禄の法は国造に絹廿疋 調布六十端 綿五十屯とす 祝・神部には有位無位を論ぜず 各調布一端 郡司各二端 子弟各一端
【原本参照】
『延喜式(えんぎしき)巻11-12』〈延長5年(927)〉(太政官 国造)(中務省 神寿辞)について
(太政官 国造)では 出雲国造は まず国司が よく詮議して太政官に言上とし 負幸物(においさちのもの)は 神祇官で賜ったことが記されますので 祭祀の意があるものとわかります
(中務省 神寿辞)では 儀式の場が太極殿の南庭と記されています
【抜粋意訳】
『延喜式』巻十一(太政官 国造)の条
凡そ 出雲国造は 国司例に依りて詮擬して言上せば 即ち太政官に於いて補任する 諸国の郡司を任ずる儀の如し 宣命及び叙位は並びに常儀の如し
禄を賜ふこと数有り 畢らば弁大夫及び史各一人 神祇官に就(ゆ)きて負幸物を給ふ 国に還りて一年斎す 畢らば国司国造を率ゐて入朝し 神寿詞を奏す
初め京外の便所に到りて停まり 献物を修め飾る 神祇官に申して預め吉日を択び 官に申して奏聞し 例に依りて供へ進れ[後の斎も亦此に准へ]
其の日 史二人朝堂院に入りて献物の数を勘へ 例に依りて所司に頒ち允てよ[事は神祇式及び儀式に見ゆ]
【抜粋意訳】
『延喜式』巻十二(中務省 神寿辞)
凡そ 出雲国造の応に神寿辞を奏すべきは 前だつこと二目 内舎人十六人を差点す 前だつこと一日 版位を大極殿の南庭に置く[事は儀式に見ゆ]
【原本参照】
『延喜式(えんぎしき)巻18』〈延長5年(927)〉(式部上 国造叙位)について
出雲国造叙位に関する条項〈出雲国造に任命されると四階昇叙 神賀詞奏上ごとにさらに四階昇叙する 五位以上の叙位には天皇から授与がある〉が記されます
【抜粋意訳】
『延喜式』巻十八(式部上 国造叙位)の条
凡そ 初めて出雲国造に任じらるれば 四階を進めて叙す 其れ斎畢りて神寿詞を奏す 又四階を進めて叙す 進み加へて応に五位に至るべき者は 勅の処分を聴け
【原本参照】
『延喜式(えんぎしき)巻19-20』〈延長5年(927)〉式部下・大學寮について
国造の詮議は 群領と同じであると記しています
【抜粋意訳】
『延喜式』巻十九(式部下 神寿)の条
出雲国造神寿詞を奏す
国造を詮擬すること 一に郡領の如し
其れ位を叙し禄を賜ふこと並びに常式有り
斎畢らば諸の祝部を率ゐ 更に復入京して神寿詞を奏す[警蹕(けいひつ)の声を聞かば会昌門〈平安京 大内裏朝堂院の門〉の外に列立せよ 後の斎もまた同じ]
其の日 諸司務めを廃む 若し叙位に応ずる者あらば 預め省をして位記を書かしむ 前だつこと一日 録は史生・官掌を率ゐて 竜尾道〈平安京 大極殿の南庭への通路〉より南に版位を置く[事は儀式に見ゆ]
【原本参照】
『延喜式(えんぎしき)巻29-30』〈延長5年(927)〉刑部省・大蔵省について
出雲国造補任と神賀詞奏上に与えられる禄について 記しています
【抜粋意訳】
『延喜式』巻三十(大蔵省 国造)の条
凡そ 初めて出雲国の国造に任じらるれば 物を賜ふ 絁十匹 糸廿絢 鍬廿口
斎畢りて神寿辞を奏さば 絁廿疋 綿五十屯、布六十端
郡司に布二反 祝部は有位無位を論ぜず 各布一端凡そ出雲国造に禄を給するときは 弁官式部並びに集む 式部 国造以下の名を唱ふ 省蔵部〈大蔵省の職員〉らを率ゐて班ち給ふ
【原本参照】
『延喜式(えんぎしき)巻41-43』〈延長5年(927)〉弾正臺・左京職右京職・春宮坊ついて
斎王が 賀茂の河原で祓を行い 伊勢に下向する時と同じように 出雲国造が神賀詞奏上するときにも 進〈左京右京の三等官〉・属〈左京右京の四等官〉各一人 史生〈下級官〉一人 坊令二人が兵士十人を率いて前駆すると記しています
【抜粋意訳】
『延喜式』巻四十二(左右京職 斎王祓)
凡そ 斎王河に臨みて祓除し 及び伊勢に向かふは 進・属各一人 史生一人 坊令二人 兵士十人を将ゐ 前駆す
[出雲国造神賀詞を奏す 大唐渤海等の国に遣はし 天神地祇を祭らしむ 若しくは上道等の日 及び蕃客入朝の時も 亦同じ]
【原本参照】
『延喜式(えんぎしき)巻44-47』〈延長5年(927)勘解由使・左近衛府右近衛府・左衛門府右衛門府・左兵衛府右兵衛府ついて
宮中で行われる儀礼は 大儀 中儀 小儀の三つに分かれ
出雲国造神賀詞を奏す は 小儀に含まれている と記されます
【抜粋意訳】
『延喜式』巻四十七(左兵衛府 小儀)
小儀は 告朔・正月上卯日・臨軒・授位・任官・十六日踏歌・十七日賭射・五月五日・七月廿五日・九月九日・出雲国造神賀詞を奏す・皇后を冊命す・皐太子を冊命す・百官賀表・遣唐使に節刀を賜ふ・将軍に節刀を賜ふを謂ふ
【原本参照】
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『延喜式(えんぎしき)』〈延長5年(927)〉に記される
出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)の内容
『古事記』や『日本書紀』の「国譲りの段」に於いて 天穂日命(あめのほひのみこと)の役割について 「出雲国造神賀詞」とは相違があるとされています
『古事記』には「天菩比神は 大国主神(おほくにぬしのかみ)に媚びへつらって、三年経っても復奏(かへりごと)をしてこなかった」と記されています
しかし「出雲国造神賀詞」の中に挿入されている「国譲り神話」の部分は 出雲国造にとって 重要な意味があるとされ
すなわち 自らの祖神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉が いかに天皇家に対して功績かあったかについて奏上しています
「出雲国造神賀詞」のなかでは 天穂日命(あめのほひのみこと)と その子の天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)は 迅速に国譲りの役目を果たした神として描かれます
記紀神話〈大和朝廷の製作〉の中でも 特に重要な箇所 国譲り神話を 記紀神話と相違する内容を 朝廷で奏上することが許されるであろうか
この点については 諸説あり 明確な理由づけが なされる説はありません
しかし 記紀神話〈大和朝廷の製作〉と 相反する異なる内容の祝詞を 出雲国造が朝廷に赴き奏上した「出雲国造神賀詞」の事実
そこには出雲国造の祖神である天穂日命(あめのほひのみこと)に始り
以来の祖先神の活躍と歴代出雲国造の天皇への忠誠の歴史とともに 明つ御神と表現される 天皇(すめらみこと)への献上物の差出と長寿を祈願する言葉が述べられています
当時の大和朝廷は「出雲国造神賀詞」を出雲国造に奏上させていた事実があり この壽祝詞(ほととぎの のりと)は 朝廷にとって必要とされていた訳であります
それでは その祝詞について記していきます
『延喜式(えんぎしき)巻8』〈延長5年(927)〉神祇 祝詞 出雲国造神賀詞(いつものくにのみやつこのかんよごと)について
第1段は 出雲での祭祀について
〈出雲国造が 熊野・杵築など 出雲国内一八六社を忌(いわ)い清め その返答をする出雲の神々が 天皇を守る旨 賀詞を奏上することを述べる〉
第2段は 神賀詞奏上の起源について
1.〈高天原を主宰する高御魂神の命により 天穂比命が天下を見廻り その児の天夷鳥命が天降って大八島国を平定した〉
2.〈この時 出雲の大穴持命〈大国主命〉は 自らの和魂(にぎみたま)そして 子の神々の御魂を大和に鎮座させ「皇孫命の近き守神」と貢ぎ 御自分は杵築宮〈出雲大社〉に龍り入った由来〉
3.〈そして カムロギ・カムロミの命は 天穂比命に下した命に対し 祝いの神宝の献上を奏上する〉
第3段は 神宝・贄(にえ)を奉る次第を述べ 天皇の世を寿(ことほ)ぐ
〈献上の神宝の品々をなぞらえ 出雲の神々の言寿ぎの詞章を出雲国造〈出雲臣〉が奏上する〉
『延喜式(えんぎしき)巻8』〈延長5年(927)〉神祇 祝詞 出雲国造神賀詞(いつものくにのみやつこのかんよごと)の記述文
【抜粋意訳】
延喜式 巻8 神祇 祝詞
出雲国造神賀詞(いつものくにのみやつこのかんよごと)出雲國造者 穂日命之後也
(出雲国造家は 天穂日命(あめのほひのみこと)の末裔である)
八十日(やそかひ)は在れども 今日の生く日の足る日に
出雲國國造(いつものくにのみやつこ)姓名(かばねな)
恐(かしこ)み恐(かしこ)みも 申し賜はく(まをしたまはく)掛けまくも恐(かしこ)き 明御神(あきつかみ)と大八嶋國(おほやしまのくに)知(し)ろしめす 天皇命(すめらみこと)の大御世(おほみよ)を手長(たなが)の大御世と斎(いは)ふと〔若し後(もしのち)斎の時(いはいのとき)は 後斎(のちのいはい)の字を加ふ〕為(し)て
「80日とあるが 今日の吉日にあたりまして 出雲国造姓名が 恐れ畏まって申し上げますに 言葉にして申し上げるのも畏れ多い 現人神としてこの倭国〈大八嶋國〉を治められる天皇の大御世を長久の大御世でありますようにと寿ほぎます」
出雲國の青垣 山の内に 下つ石根(したついはね)に宮柱(みやばしら)太(ふと)知り立て 高天原(たかまのはら)に千木高知り坐す(ちぎたかしりいます)
伊射那伎の日真名子(いざなぎのひまなご)加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろき くまぬのおほかみ くしみけぬのみこと)
國作り坐し(くにつくりまし)大穴持命(おほなもちのみこと)二柱の神を始めて 百八十六社(ももやそまりむつのやしろ)に坐す皇神(すめかみ)達を 某甲(それ)が弱肩(よわかた)に太襷(ふとたすき)取り挂(か)けて 伊都幣(いつぬさ)の緒結び(をむすび)天乃美賀秘冠りて(あめのみかげ かがふりて)伊豆の真屋に(いつのまやに)麁草(あらくさ)を伊豆の席(いつのむしろ)と苅(か)り敷(し)きて 伊都閉黒まし(いつへくろまし)天の厳和(あめのみかわ)に斎(い)みこもりて 志都宮(しつみや)に 忌ひ静め(いわいしずめ)仕へ奉りて(つかえまつりて)朝日の豊栄登(あさひのとよさかのぼり)に 伊波比の返事(いわいのかえりごと)の神賀吉詞(かむほぎのよごと)を奏し(まをし)賜はく(たまはく)と 奏す(まをす)
「出雲国の青々と木々か垣根のように生い茂る山々の中に 地下の岩盤に太い宮柱を建て 又 天空高く千を立てた宮殿に鎮座なさる伊射那伎の鐘愛され給う御子 尊神なる熊野大神櫛御気野命と 国を造られた大穴持命との二柱の神を始め 出雲国中に鎮座の百八十六社の皇神等を 私の弱肩に太い襷を取り掛けて 斎み清めた木綿の緒を組紐として結び 木綿の鬘を頭に戴き冠り 斎み清めた真屋に人手の触れられていない清浄な草を刈り 清浄な席を敷き設け 神饌を調理する竃の底を火を焚いて黒く煤づかせて 神厳な斎屋に籠り 安静なる神殿に忌み鎮め 御祭を営み この朝日の差し昇る良き日にここに参朝し 復命の神賀の吉詞を奏上致します事 ここに奏します」
高天の神王(たかまのかぶろき)高御魂命(たかみむすひのみこと)の皇御孫命(すめみまのみこと)に 天下大八嶋國(あめのしたおほやしまのくに)を事避り(ことさり)奉りし時(まつりしとき)
出雲臣等(いずものおみら)が 遠祖(とほつおや)天穂比命(あめのほひのみこと)を國體見(くにかたみ)に遣はしし時(つかはししとき)に 天の八重雲(あめのやへぐも)を押し別けて 天翔り(あまかけり)國翔りて(くにかけりて)天下を見廻りて(みめぐりて)返事(かへりごと)申し給はく(まをしたまはく)
豊葦原の水穂國(とよあしはらのみずほのくに)は
昼は 五月蝿如す(さはえなす)水沸き(みずわき)
夜は 火瓮の如く(ほへのごとく)光く神(かがやくかみ)在り
石根木立青水沫(いはねこのたちあほみなわ)も 事問ひて(こととひて)荒ぶる國なり
然れども 鎮め平けて(しずめたひらけて)皇御孫命(すめみまのみこと)に 安國(やすくに)と平(たひ)けく 知(し)ろしめし坐(ま)さしめむと申して
己命の児(おのれのみこ)天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)に 布都怒志命(ふつぬしのみこと)を副(そ)へて 天降し(あまくだし)遣して(つかはして)荒ぶる神達(かみども)を撥ひ平け(はらいむけ)
國作之大神(くにつくらししおほかみ)をも 媚ひ鎮めて(まはひしずめて)大八嶋國(おほやしまのくに)の現事顕事(うつしあらはにごと)事避らしめき(ことさらしめき)「高天原の神王 高御魂命が 皇御孫命に 天の下の大八嶋国の国譲りを仰せになられました時
出雲臣達の遠祖 天穂日命を国土の形成を覗う為にお遣わしになられました
幾重にも重なる雲を押し分け 天を飛翔し 国土を見廻られ 復命して申し上げられました「豊葦原の水穂国は 五月ハエが飛び回るほど煩(うるさ)く騒ぎ 夜は炎が燃えさかるように光り輝く恐ろしい神々がはびこっております 岩も樹木も青い水の泡までもが物言い騒ぐ荒れ狂う国でございます しからば これらを鎮定服従させ 皇孫命が安穏平和な国として御統治になられますように とのことと申されました
御自身の御子 天夷鳥命に 布都怒志命を副へて 天降しお遣わしになられ 荒れ狂う神々を悉く平定され 国土を開拓経営されていた大穴持命をも 心穏やかに鎮められ 大八嶋国の統治の大権を譲られる事を誓わせになられた」乃ち(すなはち)
大穴持命(おほなもちのみこと)の申し給はく(まをしたまはく)
皇御孫命(すめみまのみこと)の静(しず)まり坐(ま)さむ 大倭國(おほやまとのくに)と申(を)して 己命(おのれ)の和魂(にぎみたま)を八咫鏡(やたのかがみ)に取り託けて(とりつけて)倭大物主櫛厳玉命(やまとの おほものぬし くしみかたまのみこと)と御名(みな)を称へて(たたへて)大御和(おほみわ)の神奈備(かむなび)に坐せ(ませ)
己命乃御子(おのれのみこ)阿遅須伎高孫根命(あぢすきたかひこねのみこと)の御魂(みたま)を葛木乃鴨(かつらぎのかも)の神奈備(かむなび)に坐せ(ませ)
事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂(みたま)を宇奈提(うなで)に坐せ(ませ)
賀夜奈流美命(かやなるみのみこと)の御魂(みたま)を飛鳥(あすか)の神奈備(かむなび)に坐せて(ませて)
皇御孫命(すめみまのみこと)の近守神(ちかき まもりかみ)と貢り置きて(たてまつりおきて)八百丹杵築宮(やほにきづきのみや)に静(しず)まり坐しき(ましき)「この時
大穴持命が申し上げられるのに 皇御孫命のお鎮まりまします国は 大倭国でありますと申され 御自分の和魂を八咫鏡に御霊代とより憑かせ 倭の大物主なる櫛厳玉命と御名を唱えて 大御和の社に鎮め坐させ
御自分の御子 阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の社に鎮座せしめ
事代主命の御魂を 宇奈提に坐させ
賀夜奈流美命の御魂を 飛鳥の社に鎮座せしめて
皇御孫命の御親近の守護神と貢りおいて 御自分は八百丹杵築宮に御鎮座されました」
是に(ここに)親神魯伎神魯備乃命(むつ かむろぎ かむろみ のみこと)の宣はく(のりたまはく)
汝(いまし)天穂比命(あめのほひのみこと)は 天皇命(すめらみこと)の手長大御世(たながのおほみよ)を 堅石(かきは)に常石(ときは)に 伊波ひ奉り(いはいまつり)
伊賀志乃御世(いかしのみよ)に 幸(さき)はへ奉れ(まつれ)と 仰せ(おほせ)賜ひし(たまひし)
次(つぎて)の 随まに(まにまに)供斎(いはひごと)(若し後(もしのち)斎乃時(いはひのとき)には 後斎(のちのいはい)の字を加ふ)仕へ(つかへ)奉りて(まつりて)朝日乃豊栄登(あさひの とよさかのぼり)に神乃禮白臣(かみの ゐやしろおみ)の禮白(ゐやしろ)と御祷乃神宝(みほぎのかむだから)献らく(たてまつらく)と奏す(まをす)「ここに 天皇の皇祖神 神魯伎神魯備命の仰せられるには
汝天穂日命は 天皇の長久の大御世をいつまでも変わる事無く御守護申し上げ 盛大なる御世として繁栄せしめ奉れと仰せ賜り お言葉を国造代々伝えて参りました通り 斎事をお仕え申し上げ この朝日の差し昇る良き日に当たりまして 神の礼白 臣の礼白として 御世の寿祝を祝福する神宝を奉献致します事を奏します」
白玉(しらたま)の大御白髪(おほみしらが)在し(まし)
赤玉(あかたの)の御阿加良び(おほみあからび)坐し(まし)
青玉(あをたま)の水江玉乃行相(みずえのたまのあひゆき)に
明御神(あきつかみ)と大八嶋國(おほやしまのくに)知(し)ろしめす天皇(すめらみこと)の手長大御世(たながのおほみよ)を「ここに献上致します
白玉の如く 天皇の御髪が真っ白になられるまで 御寿命は長くあらせられ
赤玉の赤々と輝くように 竜顔も勝れて麗しく御強壮にましまし
緒に貫いた青玉が 水の江の行相のように整い乱れぬように 明御神として大八嶋国を統治なされます天皇の長久なる大御世を捧げ奉ります」御横刀広(みはかしのひろ)らに 誅ち堅め(うちかため)
白御馬(しろきみうま)の前足の爪(まえのあしのつめ)後足の爪(しりへのつめ)の 踏み立つる事は 大宮(おほみや)の内外御門の柱(うちとの みかどの はしら)を 上つ石根(うはついはね)に踏み堅め(ふみかため)下つ石根(したついはね)に踏凝し立て(ふみこらしたて)振り立つる(ふりたつる)耳の弥高(みみのいやたか)に 天下(あめのした)を知(し)ろしめさむ事の志(しるし)のため
白鵠乃生御調(しらとりのいきみつき)の玩物(もてあそびもの)と倭文(しづ)の大御心(おほみこころ)も多親(たし)に
彼方の(をちかたの)古川原(ふるかはら)此方の(こなたの)古川岸(ふるかわきし)に生立てる(おひたてる)若水沼間(わかみぬま)の弥若叡(いやわかえ)に御若叡(みわかえ)坐し(まし)
須須伎振る(すすぎふる)遠止美乃水(おどのうるはしのみず)の弥乎知(いやをち)に御袁知(みをち)坐し(まし)
麻蘇比乃大御鏡乃面(まそひの おほかがみのおも)をおしはるかして 見行す(みそはなす)事のごとく
明御神(あつきみかみ)の大八嶋國(おほやしまのくに)を天地日月(あめつちひつき)と共に 安けく(やすけく)平けく(たいらけく)知しめさむ(しろしめさむ)事の志(しるし)の 太米と(ためと)
御祷神宝(みほぎの かむたから)を 擎げ持ちて(ささげもちて)
神禮白(かみの ゐやしろ)臣の禮白(おみの ゐやしろ)と
恐(かしこ)み 恐(かしこ)みも天津次(あまつつぎて)の神賀吉詞(かむほぎのよごと)白し(まをし)賜はく(たまはく)と奏す(まをす)「御横刀にて 広く世を打ち従えて 揺るぎ無く礎を固め
白い御馬の前足の爪 後足の爪を踏みたてて ここへつれ来る事は 大宮の御門の内外の柱を地の底までも踏み固め揺るぎ無いものとし
この馬の耳を振り立てます事は 聞き耳を高々と立てる程 天下を隆盛に治められます事への祝福であります
白鵠の生きた献物を 御愛玩され 倭文布の文様がしっかりと通っているように大御心も乱れる事無く 彼方や此方の古川岸に生え出る若々しい「みるめ」のようにますます若々しく若返りになられ
奉献の物を 濯ぎ清める淀の水が溯って流れるように若返えられて
真澄の大御鏡の面を払い清めて御覧になられますのように
天皇が 大八嶋国を天地日月と共にいつまでも平安に統治なされます事を祝福致します為に
これらの神宝を捧げ持って 神の礼白 臣の礼白として つつしみ畏まって祖先の神より代々伝わります この めでたき 良き詞を 奏上致します 奏します」
【原文参照】
『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』に記される
大穴持命が〈御自分の和魂と三柱の御子神を〉皇御孫命〈天皇〉の守護神として置かれた4つの神社と御自分の鎮まる出雲大社について
⑴
御自分の和魂祀る 大御和の社〈大神神社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉大和國 城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗
・大神神社(桜井市三輪)
⑵
御自分の御子 阿遅須伎高孫根命(あぢしきたかひこねのみこと)の御魂を葛木の鴨の社〈高鴨神社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉大和國 葛上郡 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗
・高鴨神社(御所市鴨神)
⑶
事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提〈河俣神社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉大和國 高市郡 高市御縣坐鴨事代主神社 大
・河俣神社(橿原市雲梯町)
⑷
賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の社〈飛鳥坐神社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉大和國 高市郡 飛鳥坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗
・飛鳥坐神社(明日香村飛鳥)
・酒船石(明日香村岡)〈飛鳥坐神社 旧鎮座地〉
⑸
〈御自分は〉杵築宮〈出雲大社〉に坐(ましま)す
〈延喜式内社〉出雲國 出雲郡 杵築神社 名神大