泉神社(いずみじんじゃ)は 『常陸國風土記(713年)』に「密筑里(みつきのさと)の清浄(いずみ)大井(おほゐ)と謂(いう)夏は冷たく 冬は温かく 湧流(わきなが)れて川となる」と記されます 又『三代實録』天之速玉神・『延喜式』常陸國 久慈郡 天速玉姫命神社(あめのはやたまひめのみことの かみのやしろ)の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
泉神社(Izumi shrine)
【通称名(Common name)】
・湧だり様(わいだりさま)
【鎮座地 (Location) 】
茨城県日立市水木町2-22-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天速玉姫命(あまのはやたまひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
泉神社 拝殿造営記念碑
泉神社は 延喜式内常陸国二十八座中の一座 久慈郷七座中の一座で 崇神天皇の御代この地に鎮祭祀されたと伝えられる由緒深い旧郷社である
社記には 古老曰く 社の側に神井あり いま泉河と云ふ 上古霊玉此地に天降り 霊水湧勝して泉をなす 号けて泉川と云ひ 霊玉を以て神体とす とあり
祭神はこの霊玉の神格化した天速玉姫命と伝えられ 延喜式神名帳には当神社を天速玉姫命神社と記している 三代実録の貞観十六年の条には祭神 天速玉姫神が従五位下から従五位上に神階を進められた記録があるさらに享保三年には佐竹義篤が社殿を造営し 社号を泉大明神と改め 続いて永禄三年には佐竹義昭の社殿屋根葺替 江戸時代には徳川光圀の修理 奉財が行われた
上古以来代々の氏子らもまた当神社を村の鎮守と仰ぎ 一族繁栄 五穀豊穣等を祈願し 崇敬奉斎のまことを尽くしてきたのであった しかるに昭和三十五年 当社は不慮の火災に遭い 本殿を除く拝殿等悉く灰燼に帰してしまった 以来仮拝殿のまま修理を重ねて二十余年を経たが 近年その老朽ことに激しく 氏子住民らの拝殿造営の願いは切なるものであった
かくして昭和五十五年 氏子総代らが中心となり 拝殿造営等についての協議を重ね 氏子ら一同の協賛を得 さらに建設委員 協力委員らによる東奔西走の労及び氏子崇敬者各位の浄財と甚大なる協力並びに関係者各位の熱意とによって 昭和五十六年六月五日 拝殿 神輿 神輿舎等の造営及び玉垣改修等の付帯工事を起工し 同五十八年五月三日竣工 落慶の奉祝祭を挙行したのである
いまや千古の浄泉のほとり 神殿の荘厳は旧に倍し 神域の雅趣さらに幽遂を加えるに至った ここに改めて永世の御加護を祈念しつつ当神社の由来を略記し 今次事業の経緯の概要を併記して 泉神社拝殿造営記念の碑文とするものである
昭和五十六年六月吉日 泉神社拝殿建設委員会撰文 佐藤丈助謹書
現地石碑文より
【由 緒 (History)】
由緒
崇神天皇の御字49年、久自国造、船瀬宿禰の奉請で、大臣伊香色雄命勅命を奉じて此に鎮祭りしたと伝ふ。
古くは天速玉姫命神社と云ふ。
祭神 天速玉姫命は天棚機姫命の女で、天太玉命の后神、天比理刀・命とも云ふ。
常陸風土記に蜜筑里の大井の、又常陸二十八社号に泉川、霊玉を以て神体とすとあり。霊妙なる浄泉が湧き神域を泉ケ森、泉山流れを泉川と呼ぶ。
三代実録「貞観八年五月二十七日庚午常陸国正六位上天之速玉神に従五位下を授く、十六年十二月二十九日癸未従五位下天之速玉神に従五位上を授く」
延喜式内小社、久慈郡七座の一、享禄三年九月佐竹義篤社殿造営、社号を泉大明神と云ふ。この時青山次郎延久神馬を奉ぐ。(棟札)※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・泉神社 社殿
・湧水〈弁財天〉厳島神社《主》市寸島比売命
茨木県指定文化財(史跡第二十三号)昭和四十四年十二月一日指定
泉が森
こんもりと生い茂った常緑樹に囲まれた区域、泉神社境内一帯が史跡として指定されています。
泉が森については、奈良時代に編纂された、「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」に次のように記されています。
此より東北のかた二里に密筑(みつき)の里あり。村の中に淨泉(いずみ)あり。俗(くにひと)、大井(おおい)と謂(い)う。夏は冷かにして冬は温かなり。湧き流れて川となれり。夏の暑き時、遠邇(おちこち)の郷里(むらさと)より酒と肴(さかな)をもちきて、男女会集(つど)いて、休(いこ)い遊び飲(さけの)み楽しめり。(原文は漢文)
密筑の里は、いまの水木の呼称で、淨泉・大井とは、神社の北側に湧出している泉のことです。周囲が五〇メートルほどある泉のほぼ中央部からは、今も青白い砂を吹き上げながら、絶え間なく清水が湧き出しています。水温は夏冬ともに約十三度で、「風土記」に記されているとおり、「夏冷冬温」です。
泉神社は、平安時代の編修である延喜式神名帳にも記載されている由緒ある神社で、天速玉姫命(あめのはやたまひめのみこと)を祭神とし、古くは天速玉姫命神社、さらには泉大明神とも呼ばれていました。
神社には、「水木のささら」(県指定無形民族文化財)や「当屋祭(とうやさい)」が伝えられています。
ささらは、泉神社の出社に際して、露払いとして神輿を先導し、村の五穀豊穣、浜大漁及び住民の安泰を祈願する獅子舞です。
また、当屋祭は、専業の神職をもたず、村人だけで神事を行なっていた、古い時代の名残とみられる珍しい行事です。日立市教育委員会
現地案内板より
・三峯神社《主》伊弉藷神・伊弉冉神
〈四社合殿〉
・鷺杜神社《主》天玉柱屋姫命
・富士神社《主》木花開邪姫命
・豊稔神社《主》月讀命・大穴牟遅命
・稲荷神社《主》宇迦之御魂大神
・厄割玉
・参道
・社頭・鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
泉神社(日立市水木町)の境内北側に湧出している湧泉 について記されています
延喜式内社 常陸國 久慈郡 天速玉姫命神社(あめのはやたまひめのみことの かみのやしろ)については 記されていません
【抜粋意訳】
久慈郡
この所を高市(たけち)と稱す
此より東北のかた二里に密筑里(みつきのさと)があり 村の中に清浄(いずみ)あり
俗(くにひと)大井(おほゐ)と謂(いう)夏は冷かにして冬は温かく 湧流(わきなが)れて川となる夏の暑き時 遠邇(おちこち)の郷里(むらさと)より酒と肴(さかな)を持ち寄り 男女(だんじょ)集会(つど)いて 休遊(あそ)び飲(さけのみ)楽しめり
その東南は 海浜に臨(のぞむ)〔石決明(アワビ)・棘甲蠃(ケウニ)・魚介の類 甚だ多し〕
西北は山野を帯びる〔ここに椎・櫟・榧・栗が生え 鹿・猪が住む〕
この山海の珍味を悉(ことごとく)記(しるす)ことは不可能です
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
天之速玉神とされ 從五位下を授ると記されています
【抜粋意訳】
卷十二 貞觀八年(八六六)五月廿七日庚午
○廿七日庚午
授に
常陸國
從五位上勳七等 薩都神 正五位上
正六位上 天之白羽神 天之速玉神 並に從五位下を備前國 旱疫す以て 正税十萬束を假に貸窮民に
【原文参照】
天之速玉神とされ 從五位上を授ると記されています
【抜粋意訳】
卷二十六 貞觀十六年(八七四)十二月癸未廿九日
○癸未廿九日
授に
常陸國
正五位上勳七等 薩都神 從四位下
從五位下 天之白羽神 天之速玉神 並從五位上河内國
正六位上 掃部神
佐渡國
正六位上 花村神 並從五位下是の日 詔め以て 權律師法橋上人位興照を爲に少僧都と 權律師法橋上人位宗叡を爲に權少僧都と 傳燈大法師位平恩 傳燈大法師位眞然 傳燈大法師位圓宗並に爲律師と 傳燈大法師位長朗 傳燈大法師位平智 傳燈大法師位豐榮 傳燈大法師位延壽並に爲に權律師と
酉時 地大震動
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)常陸國 38座(大7座・小31座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)久慈郡 7座(大1座・小6座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 天速玉姫命神社
[ふ り が な ](あめのはやたまひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ameno hayatamahime no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 常陸國 久慈郡 天速玉姫命神社(あめのはやたまひめのみことの かみのやしろ)の論社について
・泉神社(日立市水木町)
・鹿嶋神社 (常陸太田市春友町)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR常磐線 大甕駅から北へ約1.2km 車で3~5分程度
イトヨの里泉が森公園 の隣です
社頭には 鳥居が建ちます
泉神社(日立市水木町)に参着
社頭のすぐ脇には 聖徳太子堂があります
一礼をして 社頭の鳥居をくぐります
参道の両脇には 泉神社の奉納幟旗が立ち並びます
参道の途中には 慰霊塔があり 一礼をしてすすみます
参道を進み切ると 左手に手水舎があり 清めます
玉垣に囲まれた境内に 鳥居が建ち 拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして参道を戻ります
参道の右手には 湧泉に進む 下り道があります
湧泉に石橋があり弁財天が祀られています
弁財天にお参りをします 向かって左手の水色場所から水が湧き出しています
しかし この神秘的な湧き水を写真では表現しきれませんので 短い動画を添付します
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 天速玉姫命神社について 所在は゛水木村に在す、今泉明神と称す、今多珂郡に属す、゛〈現 泉神社(日立市水木町)〉とし
常陸國誌には 所在不明である とも記しています
【抜粋意訳】
天速玉姫命神社
天速玉姫は 阿女乃波夜多麻比賣と訓べし
○祭神 明か也〔鎮坐云、以玉為に神靈矣〕
○水木村に在す、今泉明神と称す、今多珂郡に属す、〔地名記〕
例祭月日、
常陸國誌には、今不知に所在と云り、
神位
三代實録、貞観八年五月二十七日庚午、授に常陸國 正六位上 天之速玉神 從五位下、
同十六年十二月二十九日癸未、授に常陸國 從五位下 天速玉神 從五位上、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 天速玉姫命神社について 所在 祭神については記されず 六国史の神階奉授のみ 記されています
【抜粋意訳】
天速玉姫命(アメノハヤタマヒメノミコトノ)神社
清和天皇 貞観八年五月庚午、正六位上 天之速玉神に從五位下を授け、十六年十二月癸未、從五位上を加ふ、〔三代実録〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 天速玉姫命神社について 所在は゛多珂郡水木村〔字和泉山〕(多賀郡水木村大字泉山)゛〈現 泉神社(日立市水木町)〉としていますが
ここは泉大明神と云われていて 郡も違い疑わしいが 他に候補もないので 定めている と記しています
【抜粋意訳】
天速玉姫命神社 稱 泉神社
祭神 天速玉姫命
今按 此神の神系詳ならず
神名式伊豆に波夜多麻和氣命神社あれど 別神なるべし
ただ陸奧志太郡 敷玉早御玉神社は 新沼村敷玉森にありて速御玉姫命を祭ると云もの由ありけに聞ゆ神位
清和天皇 貞観八年五月庚午、正六位上 天之速玉神に從五位下を授け、十六年十二月癸未、從五位上祭日 二月十三日 四月八日
社格 郷社所在 多珂郡水木村〔字和泉山〕(多賀郡水木村大字泉山)
今按 郡郷考に 天速玉姫命神社は今 多珂郡水木村にあり 中世 泉大明神と稱すとあれど 享祿三年棟札にも泉大明神とありて 速玉姫命神社とはなく 郡も違へれば疑しきに似たれど 他にあつべき社もなければ 水木村の泉大明神を定めて式内とすべきか姑附て考に備ふ
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
泉神社(日立市水木町)について 近年 式内社 天速玉姫命神社である事を 疑う説が多い 後の人々に託すとあります
【抜粋意訳】
〇茨城縣 常陸國 多賀郡坂上村大字水木
郷社 泉(イズミノ)神社
祭神 天速玉姫(アメノハヤタマヒメノ)命
御神體は瓊にして、社傳に云ふ、泉中より出つる所なりと、創立年代詳ならず、
三代實録に 清和天皇貞観八年五月庚午正六位上天之速玉神に從五位下を授け、同十六年十二月癸未、從五位上を加へ給へり、延喜の制式内小社に列せらる、
元と天速玉姫命神社と稱し奉りしが、〔〇延喜式〕享録三年佐竹義篤泉大明神と改称す、蓋、祠北に泉あり、甚だ著名にして、既に常陸風土記に見えたり、云く、「蜜築里、村中浄泉俗謂大井、夏冷冬温湧流成川、夏暑之時、遠邇郷里、酒肴斎来。男女集會、休遊飲樂、」
と、清深鏡潔、人労に至り小叫すれば小湧し、叫彌大なれば湧出彌甚しと、此の泉に因り山を泉森と稱し、地又舊く泉と號す、社號の泉大明神亦然らん、
享禄三年佐竹義篤神殿を営繕し、永禄三年同義昭又営繕せりと、徳川光圀什器若干を納奉りしと、徐地五斗一升三合、明治維新の後 社格制定に当り郷社に列せらる、社殿は本鍛、拝殿、境内千十六坪(官有地第一種)閑雅幽邃、風色絶佳なり。當社 式の天速玉姫命神社、國史の天速玉姫命なりとは郡郷考 及 二十八杜考等の説く所なるが、近時之を疑ふ者多し、
新編常陸「泉大明神ナリト云ヘリ、未ダ正シキ證ヲ得ズト雖他ニ本社アリト云コトモ聞エネバ。此社ト定ムベキニヤ」と云ひ、
特選神名 亦「疑シキニ似タレド、云々定メテ式内トスベキカ」と云へり、姑く附て後考に備ふ。境内神社
嚴島神社 八坂神社 豐稔神社 稲荷神社 鷺森神社 富士神社
【原文参照】