磐坂神社(いわさかじんじゃ)は 医家神社(三好市池田町)の旧鎮座地であると伝わります 従って『延喜式神名帳(927 AD.)』所載 阿波國 美馬郡 倭大國玉神大國敷神社 二座(やまとおほくにたまのかみおほくにしきのかみのやしろ ふたくら)の旧鎮座地の論社となっています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
磐坂神社(Iwasaka shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
徳島県三好市池田町シンヤマ3959
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》石凝姥神(いしこりどめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
天文年間(一五三二)~(一五五五)の創建と伝える
【由 緒 (History)】
磐坂神社由来
主祭神 石凝姥命(いしこりどめのみこと)(伊斯許理度売命)は天抜戸命(あまのぬかどのみこと)の子で鏡作の祖とされている。現在も神殿には御鏡が奉詞されている。(旧無格社)
天文年間(一五三二)~(一五五五)の創建と伝える。 口伝によれば往古に磐坂大権現と称した。磐坂日子神を奉りし故に名付け奉りしお名なりと、 その訳は出雲風土記に佐能孚命(さのふみこと)、 お子 磐坂日子命(いわさかひこのみこと)とあり。 出雲意宇郡磐坂神社がある。 佐能浮命は素戔嗚尊(すさのをのみこと)である。 その子、大國主命(おおくにぬしのみこと)。 その子 事代主命(ことしろぬしのみこと)である。 後祭神、山を下り給う。此の宮、今の医家神社なりという。
その社地跡に元亀年間(一五七〇~一五七七)高井萬太夫、 石凝姥神を奉祠せしが、社名は変えることなく磐坂の神としてまつり、 広く産婦等の悩めるを治し給い、 又蜂須賀公の崇教厚く、 家臣権現氏に神社の周囲八丁四方をあたえ守り役を命ぜらたという。
一、祭神 石凝姥命(いしこりどめのみこと)(伊斯許理度売命)
二、境内 四百三十七坪
三、位置 池田町字シンヤマ三九五九番地
四、徳島県庁 十九里十丁平成十三年(二〇〇一年)十月吉日 竹内照夫謹書
現地案内板より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・本殿・幣殿
・御神木
・拝殿
・社殿
・境内社 祠一宇
・鳥居
・手水舎
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・磐坂大権現の遷座先〈元亀年間(一五七〇~一五七七)以前〉
・医家神社(三好市池田町)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)阿波國 50座(大3座・小47座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)美馬郡 12座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 倭大國玉神大國敷神社 二座
[ふ り が な ](やまと おほくにたまのかみ おほくにしきのかみ のやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Yamato Ohokunitama nokami Ohokunishiki no kamino yashiro Futakura)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
倭大國玉神(やまとおほくにたまのかみ)と同じ社號を持つ式内社について
一般に゛國魂神〈國玉神・國霊神〉(くにたまのかみ)゛とは その地域の゛国土そのものの神霊゛を意味するとも云われます
これらの゛國魂神(くにたまのかみ)゛は 國造(くにのみやつこ)一族が奉斎したものであろうとされています
又 平安期以降に〈国司が任国の主要神社を集めて祭祀させた神社〉゛総社゛を゛國魂神(くにたまのかみ)゛とする場合もあります
そうした國魂神の中でも゛大國魂神(おほくにたまのかみ)゛さらには゛大和〈倭〉國の大國玉神゛と明示している式内社が三ヶ所あります
①大和坐大國魂神社 三座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(おほやまとにます おほくにたまの かみのやしろ)
御祭神の゛倭大国魂神゛は 大地主大神として 第10代崇神天皇6年までは 天照大神とともに天皇と瑞籬宮の大殿に同殿共床で祀られていました
・大和神社(天理市新泉町)
②淡路國 三原郡 大和大國魂神社(貞・名神大)(やまとおほくにたまの かみのやしろ)
淡路島の南あわじ市に鎮座する 淡路国二之宮 大和大國魂神社があります
延喜式で 名神大社に列しています
・大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)
③倭大國玉神大國敷神社二座(やまとおほくにたまのかみ おほくにしきかみの やしろ ふたくら)
・医家神社(三好市池田町)
・磐坂神社(三好市池田町シンヤマ)
〈医家神社 旧鎮座地〉
・倭大國魂神社(美馬市美馬町字東宮ノ上)
・倭大國敷神社(美馬市脇町拝原)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR土讃線 阿波池田駅から 南下して約3.1km 車15程度
池田には゛五社参り゛〈医家神社・杉尾神社・諏訪神社・八幡神社・丸山神社〉の習慣があるそうです
JR土讃線の踏切を渡ると゛五社参り゛の一社 杉尾神社の参道があります
車道は 杉尾神社の社頭に出ましたので お参りをします
案内板によれば
杉尾神社の御由緒
杉尾神社は凡そ壱阡有余年の昔 当時の農民代表が出雲国の美保神社を農耕の守り神として御勧請申し上げてより始まったものと伝えられています。
美保神社の御祭神 事代主神は 出雲大社の御祭神 大国主神の御嫡男神で有名な恵比寿神であります。その後幾星霜時代は移り 氏子は農耕民より商工民として大きく変動している。
ます。平成の御代において御祭神の事代主神を商工業殖産福穂の神としてその御威徳を氏子と共に遍く世に広めんとするものであります。
この゛杉尾神社゛の社頭前から山を登り 磐坂神社へ向かいます
場所は ちょっとわかり難いのですが
磐坂神社(三好市池田町シンヤマ)に参着
手水舎で清めてから 廻り込むように社頭に向かいます
一礼をして 鳥居をくぐり
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には゛磐坂神社゛゛医神 石凝姥之命゛
由緒書きもあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が続いています
本殿の左隣に境内社の祠一宇が祀られています
祭神はわかりません
お参りをして境内を戻ります
山道を下ると 再び ゛五社参り゛の一社 杉尾神社の社頭にでます
ふと 想ったのですが 杉尾神社の口伝では゛壱阡有余年の昔 当時の農民代表が出雲国の美保神社を農耕の守り神として御勧請申し上げてより始まったもの゛と伝わっていて
つまり出雲美保から 1000年以上前に農民が勧請したもの
・美保神社 (松江市美保関町)
磐坂神社(三好市池田町シンヤマ)も天文年間(一五三二)~(一五五五)の創建とありますが ゛出雲の磐坂日子神を奉りし故に名付け奉りし゛とあり 磐坂神社の社号は あまり聞かない 他には出雲意宇郡磐坂神社ぐらいしか心当たりがない じつは 杉尾神社と並んで 出雲から勧請された古社なのではないだろうかと 創建は古いのではないか? とふと思ったわけです
式内社にある゛磐坂神社゛について
磐坂神社(三好市池田町シンヤマ)の口伝には
゛往古に磐坂大権現と称した。磐坂日子神を奉りし故に名付け奉りしお名なりと、その訳は出雲風土記に佐能孚命、お子磐坂日子命とあり。出雲意宇郡磐坂神社がある゛とあります
式内社 出雲國 意宇郡 磐坂神社(いはさかの かみのやしろ)について
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『阿波志(awashi)』〈文化12年(1815)全12巻〉に記される伝承
式内社 倭大國玉神 大國敷神社について 二柱の内 一柱の大國玉神について゛倭大國玉祠゛として 所在は゛重清村谷口里 即廃城東麓゛〈現 倭大國魂神社(美馬市美馬町字東宮ノ上)〉として 延喜式内社であるが 兵火に罹り今は小祠である と記しています
【抜粋意訳】
阿波志 巻之五 美馬郡 祠廟 倭大國玉祠
延喜式 亦爲 小祠在 重清村谷口里 即廃城東麓 神代紀註一書云 又曰 葦原醜男 又曰八千戈神 又曰大國玉神 又曰顕國玉神 其舊祠 大祭料十緡城主 小笠原氏所割罹兵火爲小祠
【原文参照】
式内社 倭大國玉神 大國敷神社について 二柱の内 一柱の大國敷神について゛大國敷祠゛として 所在は゛池田村池神゛〈現 医家神社(三好市池田町マチ)〉がこれである 延喜式に小社として祀られているがよくわかっていないと記しています
【抜粋意訳】
阿波志 巻之六 三好郡 祠廟 大國敷祠
延喜式 又爲 小祀未詳 或曰 池田村池神 是也
按 延喜式 配食 大國玉神 今別置可疑 其祝曰 髙井和泉藏甲及鞍鐙
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 倭大國玉神。大國敷神社二座について 所在は゛池田村に在す゛〈現 医家神社(三好市池田町マチ)〉と記しています
【抜粋意訳】
倭大國玉神。大國敷神社二座
倭大國玉は、夜萬止乃於保久爾多麻、』大國敷は、於保久爾志支と訓べし
〇祭神 明か也
〇池田村に在す、〔検録書入〕例祭
連胤 按るに、當國は麻殖郡天村雲神云々、天水沼間比古神云々・秘羽目神云々等、皆當社の例にて、神號を重ねたるあり、他國に例なき書さま也、乙は全く國司の注文による事と見えたり、
類社
大和國 山邊郡 大和坐大國魂神 三座〔並名神大月次相嘗新嘗〕
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 倭大國玉神。大國敷神社二座について 社號のみが 記されています
【抜粋意訳】
倭大國玉神、大國敷神社二座
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 倭大國玉神。大國敷神社二座について 所在は゛池田町に在り 俗醫家大明神と號す゛〈現 医家神社(三好市池田町マチ)〉とする説があり 恐らくはここであろう
しかし゛在 重清村谷口里とありて一定しがたし゛〈現 倭大國魂神社(美馬市美馬町字東宮ノ上)〉とする説もあり 一定しない と記しています
【抜粋意訳】
倭大國玉神大國敷神社二座
祭神 大國魂神
大國敷神祭日
社格所在
今按 阿府志に二座合殿 池田町に在り 俗醫家大明神と號すとみえ 式社略考にも 恐らくは是ならん款と云り而るに 阿波志に 在 重清村谷口里とありて一定しがたし 猶よく考べし
【原文参照】