飯野神社(鈴鹿市長太旭町)〈三つの式内社①飯野神社②都波岐神社③大木神社の論社〉

飯野神社(いいのじんじゃ)は 鈴鹿の長太(なご)〈穏やかな海面・豊かな漁場の意を持つ地名〉に鎮座します 鈴鹿市無形民俗文化財「長太の鯨船行事」〈昔 伊勢湾に迷い込んだ鯨を銛で仕留める古式鯨漁法を模して 神に様々な祈願を行う祭事〉があります 三つの式内社〈伊勢國 河曲郡飯野神社都波岐神社大木神社の論社となっています

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

飯野神社(Iino shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県鈴鹿市 長太旭町(なごあさひまち) 1-11-34

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主祭神本殿に祀られる神)〈式内社〉
 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
(伊勢國河曲郡 飯野神社)の論社〈旧跡は 長太村の北位稲田の中 飯野森土宮と云う所〉

《配祀神(相殿に祀られる神)
 建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)〈旧 須賀神社の祭神〉
 鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)〈旧 長太神社の祭神〉

合祀神〈式内社〉
多紀理毘売命,市寸島比売命,多岐津比売命,正哉吾勝勝速日天忍穂耳命,天之菩卑命,天津日子根命,活津日子根命,熊野久須毘命
(伊勢國河曲郡 都波岐神社)の論社(合祀)〈津萩神社(北長太村小路の産土神) 江戸時代は゛八王子社゛〉

合祀神〈式内社〉
保食神(うけもちのかみ)or〈宇迦之御魂神〉
(伊勢國河曲郡 大木神社)の論社 (合祀)〈津萩大木神社(北長太村) 江戸時代は゛老翁殿゛〉

合祀神
大山津見神,猿田毘古神,大宜都比売神,速秋津日子神,速秋津比売神,阿夜可志古泥神,伊邪那美命,速玉之男命,黄泉事解男命,菅原神,底筒之男命,中筒之男命,上筒之男命,
※(同大字の無格社全部を合祀)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

『河芸郡史』大正7年(1918)〉に記される内容

【抜粋意訳】

河芸郡史 第五章 社寺編 第二項 神祠/194

村社 飯野神社

一ノ宮村大字長太にあり、宇迦之御魂外二十二神を祭る合殿なり、速須佐之男命、鵜草葛不合命を迎れり、

神社明細帳曰、飯野舊跡は當里より北位禾田の中、飯野森土ノ宮と稱する有、是垂跡南位を流れ飯野川、然るに正和五年の洪水あり、因て須賀長太神社正殿に移轉奉祭す、とあり、
之五鈴遺響に記する大木神社ならん、然れども飯野神社と名稱するは僭越の罵免れず、大木神社 延喜式河曲郡二十二座の一なるが五鈴遣響は南長太にありとす、三國誌は鈴鹿郡に属すとせり、

其他種々の説多し、今 飯野神社 東軽便鐵道に沿ふ右側に 式内大札神社、津萩神社舊趾と書刻せる石碑あり、之を稱して大木神社の舊地にして津萩神社と云ふは 式内都波岐神社の訛稱なりと俗せり、今此社にありし棟札を壮掌後藤氏保有せり、文に曰、保安五年閏二月之有日吉辰奉造営日天八王子明神、裏に勢州河曲郡海邊郷北長太村三里代々神主左太夫藤原朝臣川北義能小路村惣氏子中とあれども 後世の僞物の如し、併記して後者の考に委す、近年同大字の無格社全部を合祀せり、故に前記の祭神あり

【原文参照】

中林楓水 著『河芸郡史』,河芸郡史編纂会,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959169

中林楓水 著『河芸郡史』,河芸郡史編纂会,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959169

【由  (History)】

由緒

 社伝によれば当社の創祀は保安五年(一一二四)二月と伝えられている。「明細帳」及び『吹上藩明細帳』によれば土宮或いは飯野神社と呼び、正和五年(一三一六)の洪水により社地を移転している。又宝永六年(一七〇九)の棟札には「延喜式内勢州河曲郡北長太村飯野神社寛永六巳丑歳九月一二日」とあり、伊勢国河曲郡 式内飯野神社と称している。しかし普通は土宮と呼ばれていたようである。明治三九年の「神社明細帳」記載の神社名は、飯野神社・須賀神社・長太神社合殿で記載されており、後年飯野神社と単称したものと推定される。又一説には幕末までは「土の宮」と称していたが、明治二年前後に鎮座地の地名北長太村字飯野里から飯野神社と社名改称されたとも言われている。明治四〇年には九社を合祀している。宝物等 『式内社調査報告』(前掲書)には明治一二年上進の『寶物目録』により、棟札一枚(寛永一四年《一六三七》)の存在が報告されている。又宝永六年の棟札一枚は現存している。

皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会・三重県神社庁HPより
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63766

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・本殿

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・拝殿

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・拝殿横の鳥居

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・手水舎

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・二の鳥居

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・社頭・一の鳥居・社号標

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

飯野神社(鈴鹿市長太旭町)は 三つの式内社の論社です 1社は本殿 その他に合祀した2社が式内社の論社です

①本殿 (伊勢國河曲郡 飯野神社)の論社〈旧跡は 長太村の北位稲田の中 飯野森土宮と云う所〉

(伊勢國河曲郡 都波岐神社)の論社(合祀)〈津萩神社(北長太村小路の産土神) 江戸時代は゛八王子社゛〉

(伊勢國河曲郡 大木神社)の論社 (合祀)〈津萩大木神社(北長太村) 江戸時代は゛老翁殿゛〉

①本殿 (伊勢國河曲郡 飯野神社)の論社〈旧跡は 長太村の北位稲田の中 飯野森土宮と云う所〉

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 飯野神社
[ふ り が な ]いゐの かみのやしろ
[Old Shrine name]Iino no kaminoyashiro

(伊勢國河曲郡 都波岐神社)の論社(合祀)〈津萩神社(北長太村小路の産土神) 江戸時代は゛八王子社゛〉

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 都波岐神社
[ふ り が な ]つはき かみのやしろ
[Old Shrine name]Tsuhaki no kaminoyashiro

(伊勢國河曲郡 大木神社)の論社 (合祀)〈津萩大木神社(北長太村) 江戸時代は゛老翁殿゛〉

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大木神社
[ふ り が な ]おほき かみのやしろ
[Old Shrine name]Ohoki no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

飯野神社(鈴鹿市長太旭町)は 三つの式内社の論社となっています

三つの式内社の現在の論社について

①本殿 (伊勢國河曲郡 飯野神社)の論社〈旧跡は 長太村の北位稲田の中 飯野森土宮と云う所〉

(伊勢國河曲郡 都波岐神社)の論社(合祀)〈津萩神社(北長太村小路の産土神) 江戸時代は゛八王子社゛〉

(伊勢國河曲郡 大木神社)の論社 (合祀)〈津萩大木神社(北長太村) 江戸時代は゛老翁殿゛〉

① 伊勢國 河曲郡 都波岐神社(つはきの かみのやしろ)の論社

・都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市)伊勢国一之宮

・飯野神社(鈴鹿市長太旭町)に合祀
(合祀)〈津萩神社(北長太村小路の産土神) 江戸時代は゛八王子社゛〉

② 伊勢國 河曲郡 飯野神社(いひのの かみのやしろ)の論社

・飯野神社(鈴鹿市三日市)

・神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)

・飯野神社(鈴鹿市長太旭町)
〈旧跡は 長太村の北位稲田の中 飯野森土宮と云う所〉

・菅原神社(鈴鹿市国分町)

③ 伊勢國 河曲郡 大木神社(おほきの かみのやしろ)の論社

・大木神社(鈴鹿市石薬師町)

・長太の大樟(大楠)
〈須伎神社 に合祀された大木神社の旧鎮座地〉

・須伎神社(鈴鹿市長太栄町)に合祀

・大塚神社(鈴鹿市林崎)

・飯野神社(鈴鹿市長太旭町)に合祀
 (合祀)〈津萩大木神社(北長太村) 江戸時代は゛老翁殿゛〉

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄名古屋線 長太ノ浦駅(なごのうらえき)から西北へ約650m徒歩10分程度

社頭は南向きです

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飯野神社(鈴鹿市長太旭町)に参着

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一礼をして鳥居をくぐり 参道を進みます

参道を進むと 二の鳥居があり 右手に手水舎 正面に拝殿が見えます

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 都波岐については 所在は゛中戸村 奈加等神社相殿に在す、今當社と主とす゛〈現 都波岐神社・奈加等神社鈴鹿市一ノ宮町〉と記しています

その上で 伊勢國の一之宮ともされるが ゛鈴鹿郡椿大神社をも一宮といひ、此社は神位ありて、今に歷然としたり、此等壹ー宮記に疑ひある一ツ也゛と記していて 一宮記は疑いがあるとも但し書きが添えられています

【抜粋意訳】

都波岐

都波岐は 假字也

〇祭神 猿田彦大神、〔頭注〕

〇中戸村 奈加等神社相殿に在す、今當社と主とす、

〇當國一宮也、〔一宮記

 考証云、楠村産社此乎、と云るは非也、抑一宮とも稱す神の、中古より廃れて相殿に在すといふいといぷかしく、されどー宮記に、河曲郡云々とあれば、しばらく是に從ふ、然て鈴鹿郡椿大神社をも一宮といひ、此社は神位ありて、今に歷然としたり、此等壹ー宮記に疑ひある一ツ也

式内社 飯野神社について 所在は゛神戸市中神館社に相殿に在す゛〈現 神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市神戸)〉と記しています

【抜粋意訳】

飯野神社

飯野は伊比乃と訓べし

○祭神 飯豊姫命、考証、俚諺、〕

○神戸市中神館社に相殿に在す、俚諺〇勢陽俚諺云、昔は四條村にあり、弘治年中遷す、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

式内社 大木神社について 所在は゛南奈古村に在す 背書國史に、堀江村ノ西畠中ニ楠アリ、゛〈現 長太の大樟(大楠)〈須伎神社 に合祀された大木神社の旧鎮座地〉〉と記しています

【抜粋意訳】

大木神社

大木は於保岐と訓べし

〇祭神 詳ならず

〇南奈古村に在す、俚諺

背書國史に、堀江村ノ西畠中ニ楠アリ、勢陽俚諺に、一説に其跡なるべし、社なし大木あり、神祓明神と號すといへり

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 都波岐について 所在は゛今 北長太村 八王子祠の相殿に合祭る .津荻大明神是他゛〈現 飯野神社鈴鹿市長太旭町に合祀 津萩神社(八王子社)〉と記しています

【抜粋意訳】

都波岐(ツキハノ)神

今 北長太村 八王子祠の相殿に合祭る .津荻大明神是他、〔式内社検録、〇按 舊址は八王子祠の北四十間許 畑中なね小路塚にあり、小路或は 老翁(オホナ)大木に作るは誤れり〕

式内社 飯野神社については 所在は゛今 神戸村 石橋町 神舘神明社に合祭る、舊址は飯野郷西條村にあり゛〈現 神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市神戸)〉と記しています

【抜粋意訳】

飯野(イヒヌノ)神社

今 神戸村 石橋町 神舘神明社に合祭る、舊址は飯野郷西條村にあり、〔西條村玉田氏系議、式内社検録〕

式内社 大木神社について 社号が記されているのみです

【抜粋意訳】

大木(オホキノ)神社

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 都波岐については 所在は゛明細帳〔都波岐奈加等〕両神社とあり゛〈現 都波岐神社・奈加等神社鈴鹿市一ノ宮町〉と表記していますが考証がなされていて 本来は゛南長太村 八王子津萩大明神と二座゛〈現 飯野神社鈴鹿市長太旭町に合祀 津萩神社(八王子社)〉であろうと記しています

【抜粋意訳】

都波岐

祭神
祭日
社格

所在 明細帳〔都波岐奈加等〕両神社とあり村社

今按るに 傍注考證再考等には楠村産神 諏訪社に配す是れ諏訪と都波との音通より出たる説にて憑據あるに非す 所在紛転せるを幸として 中戸村神官山部廣眞已か奉祀する社を奈加等神社に配するか 余に都波岐神社も合併してー殿に在とし 一宇の殿に両扉を設け、都波岐は伊勢ノ國ノー宮と一宮記に在るを以て これを主神の如くし 奈加等を中宮とし却て客神の加くす 其造意を逞くして棟札を僞作し両扉内に收む奉遷宮 都波岐大明神 猿田彦命御鎖座所云々 勢州ー宮天正四丙子歳二月と書し 又奉遷宮 奈加等大明神〔天椹野命 中筒男命〕御銀座所云々 中宮天正四丙子歳三月と記せり 其余慶長十ー同十九寛永八同十九正德元享保八寬保三明和四等の札 両戸内にあり各同手に出たる偽物にて支證とするに足らず 其上 勢州河曲郡中戸村神社記を編述せしめ奈加等神社一座〔中筒男命〕都波岐神社ー座〔猿田彦神〕とす 三國地志に奈加等社 今 都波岐社を混合して一宮の偽記を著すと辨駁せしは確論なり 此挙や正德より明和頃まてに所作せしなりけむ 然か故に按内記以降ノ諸書 本社を中戸村に配して偽作を悟らす 往昔國内の一宮とも稱すへき神の他の神殿中に合祀して在なむや憶はさるの甚しきなり されは中戸の都波岐は信受しかたし
依て 更に考るに三國地志云 都波岐神社 南長太村字老翁山の地是にして 長太は狹長田の略 猿田彦命御鎭坐の地なりと云ふと載す 但南長太は北長太に作るへし 老翁山は北長太村の属邑 小路(ヲホチ)なる小路山といふ小丘陵を謂ふなり
老翁殿ー宮記云 伊勢國川曲郡海部郷長太邑 老翁殿ー宮津萩神社 波岐

社 両用に謂之田の中に一つの在古墳 櫻木を神木として小木ノ森も少し有り 神殿は無し 則田圃之字爾 今長田の神樹と唱 今土民唱ふるは ながたのをじやま殿と云 古墳を山と見てをしやま殿と云なりと載す 是即ち舊 都波岐神社の在たる舊址を謂ふなり 當今の形容は北長太ノ地方小路村の西神ノ木 と字する田圃の東方に南北長さ三間許弘五尺許高四尺許に鋤遺して樹木はある事なし 併里民は口碑に傳て 津萩神社の舊地と云へり 然て其神社を遷移せし事は 長太村神社記に永正十酉二月吉辰 大木神社神ノ木より日天の宮 八王子今ノ宮地に奉遷宮とあり 大木とあるは小路(ヲオヂ)の誤にて 此時神ノ木の小路山より産神八王子社に合併せしなり 仍て今 其社の調度或は灯範等にも必す八王子津萩大明神と二座の號を記し 殿内の神霊も二座在て 八王子は石津萩は男體の木像なり 是を以て 本社都波岐神は舊と北長太村の小路山に在りたるを永正十年二月に其社地より四十間許南なる小路の産神八王子社に合祭せりと判決すへきか 必るを小路を大木と訛て式社の大木神社をここに牽合し棟札に入墨し額字を偽作なとして大木に紛混せむとすらは妄説なり 宜く糺明すへきか

式内社 飯野神社について 所在は゛①北長太村②三日市村③神戸石橋町゛の三ヶ所を挙げています

①北長太村〈現・飯野神社(鈴鹿市長太旭町)〉
②三日市村〈現・飯野神社(鈴鹿市三日市)〉
③神戸石橋町〈現・神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市神戸)〉

【抜粋意訳】

飯野神社

祭神
祭日
社格

所在
 今按るに この社 注進帳等に北長太村 三日市村 神戸石橋町等三所にありとす
 北長太村にては 産神 神明社に配す 寶永六年九月の棟札あり 延真式内飯野神社と傍書し 其舊跡は村の北の禾田の中にありて 今飯野森土之宮と云ひ 其南に流るる川を飯野川と云ふを證とす 棟札の書體疑なきにあらす飯野川といふも 田畝に曳く堰水にて井の川なるを飯野に牽合するなり

 三日市村にては 産神 牟山明神に配す社地の邊を飯野と云ひ 社の辰巳に飯野宿禰塚と云あるを證とす 併孟浪の口傳にて 徴とすへきものなし

 神戸石橋町にては 神館大明神と稱する河曲神戸の神明社 市中に在て 産社とするに飯野神社を合併すといへり 其來由を捜宗するに 其社の氏子 西條村玉田彌十郎所蔵 系譜云 飯野権之進〔正中二乙丑五月十三日逝去〕八代飯野十兵衛〔天文九庚子九月朔日死去〕男玉田権右衛門〔永禄十二巳巳四月十九日〕當所 飯野郷と称し我先祖代々 此所に住居 故姓を飯野何某と名乗 當村根元たり云々 永禄之頃 神戸蔵人友盛一圓に守護し 飯野郷卯ノ方に城廊築 當村民家 城西に相成 在名西條村と相改 飯野社 今之所に社境相移し 其節 飯野某へ住地拜領 此時姓を玉田と改むと載たるを見れは 古來本社は今の四條村に在たる事著し 永祿年中 神館社域に遷轉したる後も 神祭の日は 西條村人來て供奉する事今に絶えず 其舊地は神戸城内乾隅なる鈴木勇記の宅地是なり 仍て西條村の内高六百九石五斗ニ升八合之處三十石二斗七升社地溝等城内になりたる故 引免となる由 元文元年十月二十七日 寬保元年十一月十五日等の證文を西條村に藏す 此等の證據を以來 社は神明宮合併と判定すへきか

式内社 大木神社について 所在は諸説あって判明しない と記し
一は 西林崎村一色村立合にて祀る 産神明細帳に大塚神社〈現 ・大塚神社(鈴鹿市林崎)〉゛今度改めて大木神社と注進す゛

②゛又南太村の西一丁許畑中に字あをきといふ森あり 其地に在たる社を六十年許前に支邑瀬古の産神 熊野社に合併したるを慶應三年に引分て 村ノ西南五丁許の畑中大樟樹のある下に新に小祠を造誉し奉遷したる゛〈現 長太の大樟(大楠)〈須伎神社 に合祀された大木神社の旧鎮座地〉〉

゛鈴鹿郡石藥師村鞠鹿野地に在る産神天王祠を大木神社とす゛〈現・大木神社(鈴鹿市石薬師町)〉

④゛南長太村の産神髙明神と稱する社の棟札に 慶安元年九月大木神社とある由を載す゛〈現 飯野神社(長太旭町)に合祀 津萩大木神社(北長太町)〈俗称 老翁殿〉

と記しています

【抜粋意訳】

大木神社

祭神
祭日
社格

所在
 今按 本社所在諸區々にして分明ならす

 一は 西林崎村一色村立合にて祀る 産神明細帳に大塚神社と記せり 廣大の塚山に在る社なれはなり 然るを今度改めて大木神社と注進す 是れ村北に字大木江と伝 田地あるを以て附會するなれば諾ひ難し

 又南太村の西一丁許畑中に字あをきといふ森あり 其地に在たる社を六十年許前に支邑瀬古の産神 熊野社に合併したるを慶應三年に引分て 村ノ西南五丁許の畑中大樟樹のある下に新に小祠を造誉し奉遷したる 新社を本に配して 大木神社とす 是れ案内記に南長太村五丁許南を過て一木樟あり 是古地なるへしと謂へる憶説にて 猥に作為せるにて確證あるにあらす 全くあをきに大木を附會するなり 但 其あをきに六十年前にも社なかりし事は 三國地志勢陽雜記拾遺にも あをきには祠なしといへるを知らすして 合併の妄説をなすなり 信受すべからす

 又北長太村の支邑 小路村の産神八王子祠を木社に配す 正徳三年二月の棟札に太木王子殿と注し 又大才社と號にて文字を彫りて 朽木に釘せる古額ありと云を證とすれと棟札は もと八王子殿とありたるを入墨して八を木に作り太字を加へたるものなり 額は近世の拙作物にて論するまてもなし 永正年中小路山(ヲヂヤマ)殿と唱ふる津荻明神を合併し  小路(ヲォジ)を大木(オホキ)に混するなり從ふへからす

 鈴鹿郡石藥師村鞠鹿野地に在る産神天王祠を大木神社とす 元石藥師は髙飛村と稱して 今の地より南東にありしを 元和中 今の地に遷りて宿驛となる  其 舊趾を古里と唱ふ 其處より三丁許巽に在りたる社を後に産神に合祭す 其社跡を青木大日森と云ひて河曲郡に隷すと云を以て證とすれと 青木と大木と音相近しと云のみにて 木社たる明證ある事なし 附會信するに足らす 此余燕近考證に追分村乎とあれと三重郡にて本郡に遠し論に及はす

 又遺響には南長太村の産神髙明神と稱する社の棟札に 慶安元年九月大木神社とある由を載す 髙明神とは南長太村の支邑瀬古の産神高宮熊野太神と唱ふ る祠を謂ふなるへし 然るに其社の棟札を檢するに慶安のものある事なし 併慶應三年分離の時まで 此村に大木の神を合併したりと云ふを見れは所由なしにも非す 社地偏小なれども 古色ある形狀なり 猶確證を案むべし 

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

飯野神社(鈴鹿市長太旭町) (hai)」(90度のお辞儀)

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伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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