桙衝神社(ほこつきじんじゃ)は 社伝によれば 日本武尊が御東征の折り この神居山(亀居山)に柊の八尋の矛をつきたて 武甕槌神を祀ったのが神社草創の始めとされています 一説には日本武尊ではなく 武甕槌命の事績に由来するとも云う 延喜式内社 陸奥國 磐瀬郡 桙衝神社(ほこつきの かみのやしろ)です

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目次

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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
桙衝神社(Hokotsuki shrine)
【通称名(Common name)】
鹿島様(かしまさま)
【鎮座地 (Location) 】
福島県須賀川市桙衝字亀居山97-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》日本武尊(やまとたけるのみこと)
建御雷命(たけみかづちのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
桙衝神社
日本武尊が御東征の折り、この神居山(亀居山)に柊の八尋の矛をつきたて、武甕槌神を祀ったのが神社草創の始めで約二〇〇〇年前といわれている。
この社は、延喜式内の古社で、岩瀬郡の総鎮守として代々領主の信仰あつく、神域四五ヘクタール、一の鳥居随神門より中世建築の本殿を拝す。本殿より左の参道を登れば、祭祀遺跡の「磐座」が現存する。
閏年の十月一日に行なわれる御輿渡御、太鼓獅子舞は、奈良時代から続いたと伝承される。稚児ばやしと踊りに和して、賑やかに百足獅子が歩む姿は、優雅華麗にして古風ゆかしいおもかげを今に伝えている。また、本殿は県指定の重要文化財である。
長沼町教育委員会
このくにの名におうらかに
ひいらぎ
やひろのほこを
たてしあとなれ
明治三十八年 室田定幸現地案内板より

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【由 緒 (History)】
由緒
長沼町桙衝 亀居山の東斜面中腹に、東面して鎮座する。亀居山とは、亀が伏せたような独立丘に見えたために、その名が起ったというが、また一説には、神居山の転化であるともいわれている。
祭神は、社記によると武甕槌命と日本武尊の二神であるが、桙衝の名称は、伝柊の尋矛を衝き立てた古事に基くものとされている。
一説に日本武尊ではなく、武甕槌命の事績に由来するともいう「延喜式神名帳」延喜4年(904)に登載された社号からみれば、武の神ないし武器の神が祭られたことが明白である。それはまた、蝦夷征討との関係からであったろう。
養老2年(712)常陸国より移住した民人、常陸国の一宮神を当山の二の平に勧請して、鹿島大明神と称す。
弘仁12年(821)神鉾が塚より現出したので、秘蔵して、祭神の御霊代として崇める。
天喜5年(1057)源頼義、阿部氏誅伐の誓願成就したのをもって、鹿島大明神を桙衝神社に合祀したので、以来、桙衝鹿島大明神と称するようになった。
明治3年(1870)、社号を延喜式登載の桙衝神社に復した。
本殿 桁行三間、梁間三間で、切妻の三間社流れ造りの形式をとっている。柱は円柱、柿(こけら)葺きで三方縁、妻飾りの大瓶束を始め、虹梁の上下面や懸魚の形などに時代と地方色が濃厚である。
この本殿の建立については、慶安元年(1648)5月の棟札に「奉修造奥州 惣社磐瀬郡惣鎮守 桙衝大明神 本地十一面観音菩薩社堂一構」と記されていることや、同年月銘の「祈年祭祓」の内容から、当時の白河藩主 榊原忠次の命によることが明らかである。
本殿始め本殿に関する棟札12枚を含め、昭和51年県指定重要文化財となった。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・桙衝神社 社殿

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福島県指定重要文化財(建造物)
桙衝神社(ほこつきじんじゃ)本殿 附棟札十二枚
昭和五十一年五月四日指定
所在地 須賀川市桙衝字亀居山九三番地
所有者 桙衝神社桙衝神社は、建御槌命(たけみかづちのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀(まつ)り、延喜式神明帳に「磐瀬郡一座 桙衝神社」と記された式内社である。本社は、中世からは鹿島神宮と呼ばれていたが、明治三年桙衝神社と再び改称された。
現在の本殿は、慶安元年(一六四八)白河藩主 榊原忠次(さかきばらただつぐ)の命によって建立(こんりゅう)されたもので、桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)三間、切妻(きりづま)の流造(ながれづくり)木羽葺(こばぶき)の三間社で、三方に縁を付している。
この建物は、妻飾(つまかざり)・大瓶束(だてへいづか)の結綿(ゆいわた)部分・虹梁(こうりょう)の上下面・懸魚(げぎょ)の形などに特に時代と地方の特色を示していて、貴重である。本殿の建立、修復の記録として慶安元年から明治年間までの十二枚の棟札が保存されており、本殿の修理・屋根ふき替えなどの経過とともに奉行(ぶぎょう)・大工・名主(なぬし)などの氏名が記されており、当時の営繕組織をよく知ることができ、これも貴重な資料である。
福島県教育委員会現地案内板より

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・桙衝神社 拝殿

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・神楽殿

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・鉾衝神社太鼓獅子(須賀川市指定無形民俗文化財)
鉾衝神社太鼓獅子
指定年月日 昭和四十三年四月一日
保存団体 鉾衝神社太鼓獅子保存会
所 在 地 福島県須賀川市鉾衝字亀居山鉾衝衝神社
開 催 日 旧暦の閏年十月ー日鉾衝神社のお祭りは、現在では毎年十月一日に行われていますが、旧暦の閏年の時だけは盛大な神輿渡御が行われます。その神輿渡御の際に演じられるのが太鼓獅子と呼ばれる獅子神楽です。
鉾衝神社の神輿渡御の最大の見物は、ゆったりとした調子で優雅に舞進む古式ゆかしい伎楽風の獅子舞と顔に化粧を施し、華やかでまるで女の子が着るような紅絹の振袖の襦袢をまとった地区の子供達による太鼓打ちです。
バチさばきも鮮やかに踊りながら大太鼓の曲打ちを行う少年達の華麗な姿は、見る者を魅了します。
平成13年10月1日 須賀川市教育委員会
現地案内板より

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・社殿に向かって右の丘に祀られる境内社・石祠多数

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・社殿に向かって左に祀られる境内社・二社

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・隋神門

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・社頭

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・参道

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・参道入口

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥國 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)磐瀬郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 桙衝神社
[ふ り が な ](ほこつきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hokotsuki no kaminoyashiro)
【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内で゛桙衝神社(ほこつきの かみのやしろ)゛の社号の類社について
延喜式内社 甲斐國 八代郡 桙衝神社(ほこつきの かみのやしろ)の論社について
・鉾衝神社(笛吹市八代町)《主》天鈿女命
・美和神社(笛吹市御坂町二之宮)《主》大物主命
・杵衝神社 (笛吹市御坂町)〈美和神社古社地〉《主》素盞嗚尊
延喜式内社 陸奥國 磐瀬郡 桙衝神社(ほこつきの かみのやしろ)について
・桙衝神社(須賀川市桙衝亀居山)《主》日本武尊 建御雷命
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR東北本線 鏡石駅から西方向へ約9.5km 車で18分程度
神社の東南方向には 田園風景が広がっています

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参道の入口には社号標と石灯籠が建っていて その先に参道が伸びています

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参道の途中に石段があります

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参道の石段を上がると なだらかな土地に参道が山に向かって伸びています

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参道の先に 社頭の鳥居が見えてきました

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桙衝神社(須賀川市桙衝亀居山)に参着

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一礼をして鳥居をくぐり抜けると すぐに手水舎があります
そして 石畳の参道の両脇に狛犬が座し 石段を上がると隋神門が構えています

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隋神門までの参道の両脇には杉木立の中に 石灯籠が立ち並び 古社の風情ある参道です

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隋神門の扁額には゛磐瀬郡一座 鹿嶋大明神 惣社惣鎮守゛と記されています

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石段を上がりながら隋神門をくぐると 再び平坦な石畳の参道となり もう一度石段があり 一段高い社地に社殿が建てられています

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拝殿にすすみます

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拝殿の扁額には゛延喜式内 桙衝神社゛と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして参道を下りながら 隋神門 鳥居を抜けて 参道を戻ります

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 桙衝神社について 所在は゛桙衝村に在す、今 鹿島明神と稱す゛〈現 桙衝神社(須賀川市桙衝亀居山)〉と記しています
【抜粋意訳】
桙衝神社
桙衝は 保古都岐と訓べし
〇祭神 詳ならず
〇桙衝村に在す、今 鹿島明神と稱す、〔参拝録、参考〕
例祭七月十日、
【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 桙衝神社について 所在は゛今 桙衝村にあり鹿島大神と云ふ、゛〈現 桙衝神社(須賀川市桙衝亀居山)〉と記しています
【抜粋意訳】
桙衝(ホコツキノ)神社
今 桙衝村にあり鹿島大神と云ふ、
凡 毎年七月十日祭りを行ふ、〔鷲峯文集、陸奥式社考、巡拝舊祠記、〕
【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 桙衝神社について 所在は゛岩瀬郡桙衝村大字桙衝゛〈現 桙衝神社(須賀川市桙衝亀居山)〉と記しています
【抜粋意訳】
桙衝神社
祭神 健御雷乃男命 稀 鹿島明神
今按 社傳 祭神 日本武尊 健御雷神二座とす説に云 日本武尊 東征の時 鳳輩を比地に停め 柊鉾を建て 茲にましませるを以て 桙衝村の名起り 山を神居山と云ふ
又 元正天皇養老二年 常陸國多珂郡を割て石背國に属せし時 鹿島大神を相殿に祭れるなるべしとあれど 日本武尊と云ふものは 比々羅木の八尋鉾に 桙衝を思ひよせたるにて 取がたけれど 健御雷神とあるぞ主神なるべく思はるさるは 常陸風土記に鹿島大神のことを 美麻貴天皇之世 大阪山乃頂爾 白細乃大御服坐而 白枠御杖取坐識賜命者云々とある鉾衡神と云に由ありて聞え
又 其祭日 七月十日なるは常陸鹿島神社の祭日を遷せるものにていと由あればなり祭日 七月十日
社格 郷社所在 桙衝村〔龜井山〇今属 岩代國〕(岩瀬郡桙衝村大字桙衝)
【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
桙衝神社(須賀川市桙衝亀居山)について 式内社 桙衝神社であり 縣社に列した旨が記されています
【抜粋意訳】
〇福島縣 岩代國 岩瀬郡鉾衝村
縣社 桙衝(ホコツキノ)神社
祭神 健御雷(タケミカヅチノ)命 (或云 日本武(ヤマトタケルノ)命 )
本社は慶長二丁酉年 火災に罹り 社殿及び舊記等悉く焼失せしを以て、創立年代 並に由緒緣起詳ならずと雖も、古來 口碑に依れば、祭神は健御雷命或云 日本武命と、
然るに神名帳考證に、桙衝神社、穂己都久命と見え、
日本紀に云ふ「大己貴神以に平國時所 杖之廣矛授に二神、吾以に此矛 卒有に治功、天孫若用に此矛 治國、必當に平安」と、
出雲風土記には、「須佐能乎命 御子 桙衝等平面留比古命」とあり、
又 神社覈録に云ふ、「桙衝は保古都肢と訓べし、祭神詳ならず、桙衝材に在す、今 鹿島明神と稱す」、
神祇志料に、「桙衝神社、今 桙衝村にあり鹿島大神と云ふと見え、
共に磐瀬郡式社の一とす、尚社傳によれば、太古 健御雷命 其部靈を率て、邪神を攘ひ天下を平定し、遂にに鹿島宮に鎭座す、其後 養老二戊午年 常陸國多珂郡二百十戸を割きて石脊園に属す、蓋 其時 里民自國の産土神として鹿島大神を奉迎鎮祭す、是を以て延喜の制式の小社に列せらる、
天喜五年 源頼義見 兇賊殲滅の後、社を龜井山に遷して戦功を賽す、即ち白河風土記に云く、「延喜式、磐瀬郡の官祀、桙衝神社は今 鹿島明神と呼ばれ、此地の龜井山に在り、塚中より出でし鉾以下 太刀數口を寶器とす、
社家の外に眞言宗 長楽寺を以て舊別賞とし地方の名祠たり」と、降つて慶長二年祝融の災に罹る、越えて同十年蒲生氏郷 社殿を再興す、其後 慶安元年 榊原忠次 神殿を建立し、自ら祈年の祭文を奉り 豊饒を禱る、享和元辛酉年 少將源定信拜殿を再建す、爾來代々の領主 崇敬厚く常に藩費を以て造營修補怠らず、明治二年官命に依り修補を加ふ、同五年八月十八日小五區の郷社に列し同月廿八日十二區郷社に改められ、同廿九年五月五日縣社に昇格す、面して桙衝の名稱は、往昔弘仁十二年七月十日神鉾の此宮に天降りしに因ると云ふ、
然れども巡禮舊神祠記には、「今在に鉾街村龜居山、稱に鹿島明神、相傳、祀に日本武尊、配に享鹿島大神、初武尊 東征至此、植に其所 携比比羅木矛、而憩焉、故名に其地 曰に桙衝、呼に、其山曰に、神居云」と見ゆ、尚考ふべし。
社殿は神殿、幣殿、拜殿、神楽殿、隨神門、神庫、玉垣、木島居、石燈籠、石漱盥、清祓竃、石段等具備し、境内坪数五町四反三畝三步(官有地第一種)外に上地林四町七反二畝二十歩を近く境内に編入許可せらる。境内神社
稲荷神社 息栖神社 疱瘡神社 多賀神社 豐年神社 愛宕神社
雨降神社 雷神社 事平神社 熊野神社 八雲神社例祭日 九月十八日
【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278
桙衝神社(須賀川市桙衝亀居山)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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