日吉社(ひよししゃ)は 八大神社の古社地とされています 昭和15年(1940)に゛紀元2600年゛を記念して甚目寺境内が拡張されて 戦後に八大神社〈現 漆部神社〉が 現在地に移転した際の八大神社の旧鎮座地に 現 日吉社が鎮座しています 八大神社は昭和32年(1957)に式内漆部神社と改称しています

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目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
日吉社(Hiyoshisha)〈八大神社古社地〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
愛知県あま市甚目寺東門前11〈漆部神社 境内〉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大山咋命(おほやまくひのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
『神道大辞典 : 3巻』第三卷に記される内容
【抜粋意訳】
ハチダイノヤシロ
八大社
愛知縣海部郡 甚目寺町甚目寺に鎭座。郷社。祭神不詳。
もと甚目寺觀音の鎭守であつた。一に延喜式內の海部郡 漆部神社に充てる説もある。
例祭日、八月十八日。
【原文参照】

平凡社 編『神道大辞典 : 3巻』第三卷,平凡社,1941. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1913359
漆部神社 由緒
当社の名が世に知られるに至ったのは、文献上では延喜式神名帳を以て初見とする。延喜式神名帳というのは、平安朝の中期、醍醐天皇の延長5年(927)に撰進されたものであるから、今日から1030年程前のものである。それに神社名の載っているということは、これが1000年以上の古社であることを示すもので、当社も従って1030余年以前には、既に存在していたと言える。延喜式の制度に従えば、当社は当時、国幣の小社とされ、尾張国司から幣帛を奉られる名社とされていた。
鎌倉時代には尾張国神明帳に「従三位漆部天神」と称され、神格の高い神として尊崇され、引き続いて、同国司の幣帛を受けた。
然るに南北朝時代以降、戦国時代にかけて、当地方は戦乱の巷となり、このとき当社も戦火にかかり、社名さへも忘れられるに至った。
そのため、室町時代以降は、八大明神社と称され、その維持の計られたことは、現在も当社に残る明応7年(1498)8月23日の墨書銘によって、明らかである。
その後のことは、元和6年(1620)5月25日の棟札が残っているので、このとき社殿の造替が行われたことがわかり、その後引きつゞく修造を経て、今日に至っている。
江戸時代には尾張藩は、当社に20石の祭祀料を寄進して崇敬し、明治維新後は、同40年10月26日、指定郷社の社格が与えられた。氏子は先祖以来の氏神として、厚く奉斎、その維持に当たっている。
昭和32年10月21日に至り、その社名を旧来の漆部神社に復した。御祭神と御神徳
当社の御祭神三見宿祢命は漆部の祖神である。漆部というのは、今の言葉で言えば漆を栽培、採取し、それによって漆器具を製作する工業団体をいったものである。
日本で漆器、塗物のことの世に知られるに至った初めは、上代のことで、日本書紀 用明天皇2年(587)の條に、大和国で漆器工業に従事するものに「漆部造兄」というものの名が見えるのを初見とする。今日から1370余年程前のことである。
次いで同紀天武天皇の條にも、大和国に「漆部友背」というものの名が見えている。当時は大陸の文明が、朝鮮を経て、日本に輸入されていたときなのであるから、新しい漆塗の技術の輸入に伴って、その技術者団体が、我が国でも発生していた様が知られる。
奈良時代に至ると、播磨国風土記や出雲国風土記を見ると、これらの国に漆の樹の生じていることが、珍らしい事実として記載されている。
平安時代には越後国磐船郡に漆の生ずる山があり、そこに漆山神社が存在していた。これも延喜式内社となっているから、古社の1つだと言える。
右によれば、漆塗に関する古い神社としては、日本には当社と漆部神社との存することが知られる。
但しここで注意すべきは、右二社にはその御神徳の性質に相違のあることである。
即ち漆部神社という方は、漆の樹の守護神である。これに対し、当社の漆山神社という方は、漆器、塗料の技術並びに同工芸の作製、頒布に関係する団体の守護神になる。ここに当社が漆器工芸の諸団体組合の祖神であり、守護神とされる基本的な神格を見出し得る。
この漆器工芸団体が古語でいう「漆部」で、その祖神が三見宿祢命という神に当る。この神は平安時代に編簒された先代旧事本紀という書物の巻五、天孫本紀の條によると、「漆部連の祖」とあるので、この神が漆器工芸団体の祖神であったこと、明らかである。
この神は尾張国を開拓した天火明命(一名を饒速日尊という)の五世の孫で、天火明命の子孫が大和国から尾張国に移住すると共に、同国海部郡に移って、漆器工芸の技術の普及に従い、現在の他にその祖神を祭ったのが、漆部神社である。
当社に隣接する甚目寺を創設した「甚目連公」というのも、その一族である。漆部神社はその氏神、甚目寺はその氏寺とされ、共にその氏人、氏子によって崇敬されたのである。甚目寺御本尊の御前立である十一面観世音菩薩象が尾張国唯一の乾漆像であることは、この寺が漆部の神と深い関係あることを示す有力な証拠とされる。当社には漆部の祖神たる三見宿祢命を奉斎する外、古来の由緒によって、同殿に木花咲耶姫命と八大明神との祭っている。木花咲耶姫命というのは、桜の花の如き優に柔しい婦徳を授けられる神で、慈悲円満の女性の守護神である。又 八大明神というのは、世上一般の信仰を集めている賀茂、春日、祇園、稲荷、住吉、松尾、平野、貴船の八社を指し、その御神徳は、広く各地方面に亘っている。
以上これをまとめていえば、当社の御神徳は漆器、塗料に関する工芸守護の神たることを根本の御神徳とするものであるが、同時に農商工の産業開発に、又諸徳円満の神徳をもたらす神として、末永く仰がれるものである。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由 緒 (History)】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇愛知縣 尾張國 海東郡甚目寺(ジモクシ)村大字甚目寺字束門前
郷社 八大(ハチダイノ)社
祭神 不詳
舊記 古文書 焚失に罹りて今由緒を詳かにすること能はずといへども、古老の口碑に曰く、延喜式神名帳の海都郡 漆部神社は當社にして、元と本村を距る西三町許の地にあり、今其跡と稱するもの田中にありて袴塚と稱す、康安年中 今の地に奉遷したるが、社殿宏莊にして、神領亦三百石を有せり、然るに中世 両部習合の説を唱へて 当社域内に観音を安置したるが、遂に社詞を奪ひて僅かに二十石を当社に寄進するに至れり、加之當社を以て観音の鎭守と稱せり。士俗亦好僧の妄説に惑ひて観音に帰依するもの其数を増しければ、寺僧機に乗じて、祭神を八大龍王神と偽稱せり、然るに明治維新に至り、當社神威再び世に輝き、式の漆部神社、奉唱 國内神名帳の「從三位漆部天神、」参考に「從三位漆部神社、 天神、一本作 正四位上漆部」と見えたるそれなるよし判明したりと、御神體は丹溪先生に坐ます。明治五年村社に列せられしが後 郷社となる。
社殿は本殿、拜殿、祭文殿、渡殿、社務所等を具備し、境内地二百四十六坪(官有地第一種)あり。
例祭日 八月十八日
神饌幣帛料備進 指定年月日 明治四十年十月二十六日 告示 四十三百六十五號
會社法適用 指定年月日 明治四十一年九月三十日
【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・甚目寺観音(じもくじかんのん)(あま市甚目寺東門前)〈八大神社古社地〉
甚目寺は 法隆寺や四天王寺に次ぐ我国有数の古刹です
伝承によれば 推古天皇5年(597)この地付近は 当時は海であったので 伊勢国の海人豪族である甚目龍麿(甚目龍麻呂、はだめたつまろ)が漁をしていた すると観音像が網にかかった この観音像を近くの砂浜に堂を建て安置したのが始まりと云う 観音像は 敏達天皇14年(585)に物部守屋 中臣勝海の手によって海に投げられた3体の仏像のうち1体(聖観音)といわれています 残りの2体・阿弥陀如来は善光寺・勢至菩薩は安楽寺(太宰府天満宮)にあると云われます
甚目寺の裏手(北側)〈現 名鉄 津島線の線路辺り〉には かつて 漆塚と呼ばれるものがあったとされ そこが漆部神社の古社跡であったとする説があります

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甚目寺観音ご案内
・甚目寺誌略
甚目寺観音は、聖観音像が推古天皇5年(597年)甚目龍麻呂の手により「江上の庄」の入り江にて、魚網にかかりこの地に祀られて以来1400年もの間、天下泰平・万民富楽・五穀豊穣の祈願所として栄え、
特に江戸時代には名古屋城主より寺領300石を受領し、尾張四観音の筆頭寺院として、その隆盛を天下に誇ってきました。
現在は、境内も整備され、三重塔・南大門・東門など国の重要文化財を抱え、愛知県内屈指の寺院として日々参詣者が絶えることがありません。
・主な年中行事
一月一日より三日 新春初祈祷会
二月三日 節分会
旧暦一月十八日 初観音会
八月第二土曜日 桃十日まつり(九万九千功德日)
十二月第二日曜日 桝供養・秋葉大祭
十二月三十一日 除夜の鐘・願い事
厄除祈願・災難消除・家内安全・身体健康・交通安全・
病気平癒・心願成就・商売繁昌・良縁祈願・懐妊成就・
安産祈願・知恵授与・入試合格・安全祈願・おさる様・交通
名鉄電車 津島線 甚目寺駅 下車 徒歩五分
駐車場完備(乗用車十台)
*ただし、行事の際には駐車場はご利用いただけません
公共の交通機関をご利用ください。・境内順拝図(諸堂めぐり)
鳳凰山甚目寺
現地案内板より

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・現在の漆部神社〈八大神社〉
・漆部神社〈八大神社〉(あま市甚目寺東門前)の記事を参照
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)海部郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 漆部神社
[ふ り が な ](うるしへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Urushihe no kaminoyashiro)
【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 尾張國 海部郡 漆部神社(うるしへの かみのやしろ)の論社
・漆部神社〈八大神社〉(あま市甚目寺東門前)
・日吉社(あま市甚目寺東門前)〈八大神社古社地〉
・甚目寺観音(あま市甚目寺東門前)〈八大神社古社地〉
・市神社(津島市米町)〈津島神社の境外社地〉
・八幡神社(弥富市荷之上町字柴ケ森)
・浅間社(名古屋市中川区下之一色町南ノ切)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
名鉄津島線 甚目寺駅から西へ約300m 徒歩で5分程度
甚目寺観音と漆部神社の中央
甚目寺観音の向かって左 漆部神社の向かって右に鎮座します
これは 昭和15年(1940)に゛紀元2600年゛を記念して甚目寺境内が拡張されて 戦後に八大神社〈現 漆部神社〉が 現在地に移転した際の八大神社の旧鎮座地に 現 日吉社が鎮座していますので 日吉社の参道には゛郷社 八代神社゛の社号標が建っています

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日吉社(あま市甚目寺東門前)〈八大神社古社地〉に参着

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社殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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すぐ隣には 漆部神社〈八大神社〉(あま市甚目寺東門前)があります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 漆部神社について 所在は゛在所群ならず゛よくわからない と記しています
【抜粋意訳】
漆部神社
漆部は奴利倍と訓べし
○祭神 木花咲耶比咩命、〔圖帳〇今按 三見宿禰命歟〕
○在所群ならず
○民部省圖帳云、仁寿三年二月加に再復、實天智天皇三年五月之御新遷、所祭神靈 木花咲耶比咩也云々、〔見に元亨二年十月所記残篇〕
○舊事紀、〔天孫本記〕宇摩志麻治命四世孫三見宿禰命、漆部連等祖、
神位
國内神名帳、海部郡從三位漆部天神、神田
民部省圖帳云、漆郡大明神、神田七十二束有餘、
【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 漆部神社について 社名のみが記されています
【抜粋意訳】
漆部(ウルシベノ)神社
【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 漆部神社について 所在は゛今にては廃社なるべし゛〈廃絶したのであろう〉と記しています
諸説を挙げています
゛一説に津島 市神社ならん゛〈現 市神社(津島市米町)津島神社の境外社地〉
゛同郡荷之上村八幡宮゛〈現 八幡神社(弥富市荷之上町字柴ケ森)〉
゛愛智郡下之一邑村なる淺間社゛〈現 浅間社(名古屋市中川区下之一色町南ノ切)〉
゛甚目寺観音は此社の變ぜしものならんと云説゛〈現 甚目寺観音(あま市甚目寺東門前)〈八大神社古社地〉〉
それぞれの説に論拠が不足している とも記しています
【抜粋意訳】
尾張國一百廿一座
○海部郡八座 並小漆部(ヌリベノ)神社
祭神 三見宿禰(ミツミスクネノ)命
今按 舊事紀 饒速日命四世孫 大木食命〔三河國造祖云々〕の弟 三見宿禰命 漆部連等組とある此に由あり 民部省圖帳に祭神 木花咲耶比咩命と云るは疑しければ取らず
祭日
例祭
社格所在
今按 盬尻にこの社は津島社ならむと疑ひ 又 一説に津島市神社ならんと云へど更に證なし 同郡荷之上村八幡宮と云説ありて荷上はののへにて ののへは ぬりへならんかと云へど信がたし 又 愛智郡下之一邑村なる淺間社の御手洗川を奉仕の祠官は漆部川なる由云へれど 探索するに古よりおゐけすと云えば取にたらず 甚目寺観音は此社の變ぜしものならんと云説もあれど 是亦なければ取がたし 今にては廃社なるべし
【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
日吉社(あま市甚目寺東門前)〈八大神社古社地〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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