小祝様の旧跡(おぼりさまのきゅうせき)は 妙見寺縁起『花園星神記』の故事に 和銅7年(714)秋 管領が花園里に宿泊 北西の方角〈小祝池〉に北斗七星が天から降った 池から霊亀〈首が赤く甲羅が真白で金色の光明を放つ亀〉を得たので吉兆なり 時の帝(みかど)に献上し 年号が和銅から霊亀(れいき)に改元されたと伝 この小祝池の辺に祀られる石祠が 冷水 小祝神社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
冷水 小祝神社(Hiyamizu Obori shrine)
(ひやみず おぼりじんじゃ)
【通称名(Common name)】
小祝様の旧跡(おぼりさまのきゅうせき)
【鎮座地 (Location) 】
群馬県高崎市冷水町川窪
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》小祝明神
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
「小祝様(おぼりさま)」の旧跡
日本三大妙見の一つ妙見寺の縁起「花園星神記(はなぞのせいじんき)」に次の故事が残されています。
和銅7年(714)秋、管領(かんれい)上野大掾(こうずけだいじょう)左京職(さきょうしき)忠明卿(ただあききょう)が当地へ下向し、花園里に宿泊したとき、夜中に北西の方角に光明を放つものがあり、家臣に尋ねさせたところ、冷水の小祝池の中から光が出ていることが判りました。
水中に入らせ探らせると、首が赤く甲羅が真白で金色の光を放つ亀を得られ、不思議なことなので、時の帝(みかど)に献上したことにより、和銅の年号が霊亀(れいき)に改められたと言われています。地名もこの故事に基づき、池の霊水すなわち冷水によると伝えられます。
この由緒により宝暦4年(1754)に、間口1尺5寸、奥行2尺の石宮が祀られました。同年には、隣接する大日堂境内に、3人の村民による百観音巡拝(ひゃくかんのんじゅんぱい)を記念した「百番供養塔」が建立されています。
現地立札より
【由 緒 (History)】
『前橋市史 第一巻』〈昭和46年2月1日発行 前橋市〉
第一節 私寺の建立
・・・
次に『上野国神名帳』(総社本)の群馬郡之内、西郡之分に「従三位息災寺小祝明神」とある。小祝明神は『延喜式』の神名の部(神名帳)の上野国の片岡郡の項に「小祝神社」とあるので、片岡郡に存在した神社であり、片岡郡に居住の氏族の杞った神社である。
それが息災寺の鎮守として分杞されたのが、息災寺小祝明神と考えられる。
これが群馬郡の西郡にあげてあるのは、国府近くに位置していたものであろう。
国府推定地から西北三、五キロメートルのところに冷水(群馬郡群馬町)という地があるが、ここに小祝神社が現存している。「小祝」という特殊な名であり、他に例が見えないので、息災寺小祝明神の残存と見られる。したがって、息災寺は小祝明神を氏神とした氏族の氏寺であうたと見られよう。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・隣接する大日堂
〈隣接する大日堂境内に 3人の村民による百観音巡拝(ひゃくかんのんじゅんぱい)を記念した「百番供養塔」が建立されています〉
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
霊亀元年(七一五)八月丁丑〈廿八〉の条は 霊亀が献上されたことにより年号を霊亀に改元した記事で「左眼白 右眼赤 頸著三公 背負七星」とあり 北斗七星〈妙見信仰〉と通じています
宝亀八年(七七七)八月癸巳〈十五〉の条は 河内妙見寺に・上野国群馬郡・美作国勝田郡よりそれぞれ50戸の封戸を施入したとあり この封戸施入が契機となって上野国にも妙見信仰の 花園妙見寺〈現 引間妙見寺(高崎市引間町)〉〈息災寺小祝明神〉が創建されたと推測されます
【抜粋意訳】
霊亀元年(七一五)八月丁丑〈廿八〉の条
○丁丑
左京人大初位下 高田首久比麻呂
献 霊亀 長七寸 闊六寸 左眼白 右眼赤 頸著三公 背負七星 前脚並有離卦 後脚並有一爻 腹下赤白両点 相次八字宝亀八年(七七七)八月癸巳〈十五〉の条
○癸巳
授 無位 坂上女王 従五位下
上野国 群馬郡戸五十煙
美作国 勝田郡五十煙捨 妙見寺
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
上野國の神々と共に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻卅七 元慶四年(八八〇)五月廿五日〈戊寅〉の条
○廿五日戊寅
授に
上野國
正四位上勳八等 貫前神 從三位勳七等
從四位下 赤城沼神 伊賀保神 並に從四位上
正五位下 甲波宿禰神 從四位下
正五位下 小祝神 波己曾神 並に正五位上
勲十二等從五位上 賀茂神 美和神 並に正五位下勲十二等
正六位上 稲褁地神 從五位下勳十二等内藏寮置寮掌二員を 其の衣粮以て 藏部の料内を 給之に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上野國 12座(大3座・小9座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)片岡郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 小祝神社
[ふ り が な ](をはふりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wohafuri no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『上野国神名帳(kozuke no kuni jimmeicho)』〈寛政5年(1793)〉には三つの゛小祝明神゛が記されています
三ヶ所の小祝明神は
①正一位 小祝大明神〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉
➁従三位 息災寺小祝明神〈現 引間妙見寺(高崎市引間町)〉
➂従四位上 小祝明神〈現 冷水 小祝神社(高崎市冷水町)〉
が記載されています
【原文参照】
上野国神名帳 上埜国捴五百七十九座
鎮守十二社 正一位 抜鉾大明神 赤城大明神 伊香保大明神 榛名大明神 甲波宿祢大明神 小祝大明神 火雷大明神・・・・・・・
【原文参照】
群馬郡百四十六座
従四位上 放光明神 小祝明神 止々呂明神 若伊香保明神・・・・・・・
【原文参照】
群馬郡西郡百六十九座
正三位 宮姫明神
従三位 大奈知明神 小奈知明神 息災寺小祝明神 尾張明神・・・・
『群馬県群馬郡誌(Gunmaken gunmagunshi)』〈大正14年(1925)〉に記される伝承
星山妙見寺址(国府村)の旧跡「大字引間の東字花園に舊址」〈現 引間妙見寺(高崎市引間町)〉〈息災寺小祝明神〉について 記しています
【抜粋意訳】
二○。星山妙見寺址(國府村)
大字引間の東字花園に舊址を存す。相傅ふ天正九年聖武天皇の御建立にして同十八年火災に罹り焼失し後千葉氏再建すと。
續日本紀に曰く賓亀八年(光仁天皇朝)八月癸巳上野國群馬郡戸五十煙、美作國勝田郡戸五十煙捨妙見寺とありて、古は由緒正しき霊場なりしと見ゆ。
元は國府村にありしにや、後上野志に國分村より引移すと見え、其後千葉氏の信仰する處となり、下総國千葉に移せしか相馬日記に北斗山妙見寺に千葉氏が代々渇仰せし妙見菩薩立せ玉ふ、もとは上野國の花園と云ふ所より移し參らせし御佛也といへり云々とあり。
後上野志にも千葉妙見縁起に妙見大菩薩は初は上州群馬郡花園に鎮坐とありと見えたり。憶ふに千葉氏嘗て總社の地を領せしことありとの傅虎あれば或は然るやも知れず、去りながら其の移転の年代は不詳なり。(日本名蹟圖誌)
【原文参照】
『上毛花園星神縁記』〈東京都台東区 長国寺蔵本〉に記される゛小祝の信仰゛について
※長国寺蔵本『上毛花園星神縁記』は 和田山村(現・高崎市箕郷町和田山)の松本兵右衛門平常正が千葉妙見寺に奉納したもの
※『上毛花園星神縁記』は大島由紀夫『神道縁起物語(二)』(伝承文学資料集成第六輯、三弥井書店、平成十四年)に翻刻
小祝の信仰と妙見信仰との関わりについて 記されています
【抜粋意訳】
元正天皇の御宇 管領上野大掾藤原忠明卿が 花園村の乾に当たる小祝の池に北斗七星が天から降ったのを見る 池を浚わせると霊亀〈首が赤く甲羅が真白で金色の光を放つ亀〉が見つかったので 萩の花園に祠を作ってそこに置いた
その後朝廷に献上し 年号が和銅から霊亀に改元された 再び忠明卿は関東下向の勅命を蒙り 霊亀を元の池に納めた聖武天皇天平元年(七二九)三月二十二日の夜半 小祝の池が鳴動し 亀は光り輝きながら天に昇り北斗七星に入った このことが都へ伝えられ 占いの結果「あの亀は 神使いです 背中には 北斗七星の化身 妙見菩薩があり 菩薩のせて 今 天上に昇っていったのです これは 妙見堂を建立せよという神のお告げ」とあり 妙見社が建立され 七星山息災寺と号した また国分寺も建立された 本尊は七仏薬師如来
承平二年(九三二)桓武天皇の曾孫 鎮守府将軍村岡陸奥守平良文が勅命を受け 常陸大橡国香を征伐すべく 上野国群馬郡の染谷川で対戦した 良文は妙見菩薩の加護により勝利した 妙見は星の神の化身であると名乗った
良文は星の宮を里人に尋ね 相馬小次郎将門 村岡小五郎資通 陸奥権介忠頼 鎌倉中将忠光 上野介良時 栗飯原文次郎常時等の七騎で向かい 七番の小笠懸を射て奉った 良文の家臣 栗飯原文次郎は山伏姿となって息災寺に留まり 謀を以って妙見尊像一体を持ち出し 上野国平井で一宿した後 良文の領地である武蔵国藤田に社を立てて神楽を奉納した その後 鎌倉の村岡に寺を建立して妙見尊を安置し 平家千葉の守護神として祀った
良文の母が北斗七星に祈ると 七星の化身の童子が現れ 良文を授けた それゆえ良文は北斗の神の守護を受けた
武蔵国秩父の妙見は 良文の四代孫秩父三郎武基(忠常の甥)が勧請した処である 武基の父将常は兄忠常の謀叛に与して討死し 武基は佐渡に流され亡くなった 武基の嫡子武綱は本領を召し上げられて螢居していたが 妙見に祈請し 満願の夜に霊夢を見た その霊夢に従い 源義家の先陣を務めて 武衡家衡の反逆を征伐した その功によって秩父の庄を賜り 従五位下伊予守に任ぜられた
上総の仁見・植野・大椎・下総の大友・千葉郷の妙見も すべて上野国花園妙見社を移し奉ったものである その内で千葉の妙見尊は 千葉介平常重が勧請したもので 数度の合戦で御利益を被った
中でも源頼朝が安房国に逃れたとき 千葉介常胤と嫡子胤正は一族郎党率いて馳せ向かった しかし遅れて出立しようとした嫡孫成胤を千田判官親政が襲った 多勢に無勢のところを 成胤は妙見に祈ることで勝利することができた これを聞いた頼朝は大いに感じて妙見社に参詣した
堀川院の寛治七年(一〇九三)、下総の千葉常将の二男相満丸が 学問の為に上野国船尾山に登ったが 行方不明になった 寺の仕業であると恨んだ常将は兵を率いて馳せ登り 一山を焼き滅ぼした この時 息災寺妙見社等が類焼した 霊像は白雲に乗って天に帰った
天平より寛治まで 三百六十余年を経た諸堂玉殿は常将の怒りによって灰燈となった 常将の嫡子常長は父の過ちを悔い その昔忠明卿が霊亀を篭め置いた萩の花園の跡に妙見堂を再造営した 往古の広大な寺の跡は今も残っていて 大きな履石や焼崩れた布目瓦が残されている
宝暦四年(一七五四)小祝池のほとりに石祠が建立
①正一位 小祝大明神〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉について
➁従三位 息災寺小祝明神〈現 引間妙見寺(高崎市引間町)〉について
〈参考〉・妙見寺(高崎市引間町)〈息災寺小祝明神〉
➂群馬県高崎市冷水町字川窪 鎮座 従四位上小祝明神について
〈参考〉・小祝様の旧跡〈冷水 小祝神社〉(高崎市冷水町)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR上越線 群馬総社駅から県道161号と高崎渋川線バイパス/県道25号経由で 南西へ約5km 車10分程度
染谷川の北岸に「おぼりの森公園」があります
おぼりの森公園の道路を挟んだ東側は 草原〈小祝池の跡〉にあります
参道通路の先に石祠が見えます
小祝様の旧跡〈冷水 小祝神社〉(高崎市冷水町)に参着
石祠にすすみます
正面からでは 石祠の支柱に隠れていますが
向かって右には゛妙見宮乳母神゛の刻文字
向かって左には゛小祝神゛の刻文字
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
参道を戻り 祠に一礼をします
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 小祝神社について 所在は石原村〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉と記しています
【抜粋意訳】
小祝(ヲハウリ)神社
和鈔 新田郡祝人
国帳 従一位 小祝大明神 清奥 石原村に在といへり
三実 元慶四年(八八〇)五月廿五日 授 正五位下 小祝神 正五位上
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 小祝神社について 所在は石原村〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉と記しています
【抜粋意訳】
小祝神社
小祝は 乎波布里と讀り
〇祭神 少彦名命 地名記
〇石原郷半田村に在す 地名記神位
三代実録 元慶四年(八八〇)五月廿五日 授 正五位下 小祝神 正五位上
国内神名帳云 従一位 小祝大明神
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 小祝神社について 所在は石原村〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉と記しています
【抜粋意訳】
小祝(ヲハフリ)神社
今 石原村に在り 小祝大明神と云ふ、上野國志、巡拝舊祠記、上野國神名帳考証、
即 上野七宮也、神道集
陽成天皇 元慶四年(八八〇)五月廿五日 授 正五位下 小祝神 正五位上、三代実録凡 其の祭 三月十九日を用ふ、明細帳
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 小祝神社について 所在は石原村〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉と記しています
【抜粋意訳】
小祝神社
祭神
神位 陽成天皇 元慶四年(八八〇)五月廿五日 授 正五位下 小祝神 正五位上祭日 三月十九日
社格 郷社
所在 石原村(群馬郡片岡村大字石原)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
小祝神社(高崎市石原町)について 式内社 小祝神社であると記しています
【抜粋意訳】
〇群馬縣 上野國群馬郡片岡村大字石原字西半田名所
郷社 小祝(ヲハフリノ)神社
祭神 少名毘古那(スクナヒコナノ)神
創立年代詳ならず、但、三代実録に、「元慶四年(八八〇)陽成天皇 五月廿五日 授 正五位下 小祝神 正五位上」と見え、
延喜の制式内の小社に列せられたる古来著名の神社にして、國帳 従一位 小祝大明神と記し、当國七ノ宮たり、
正親町天皇 永禄三年兵火の為 社殿鳥有に帰せしが、中御門天皇 正徳年中 別当石昌寺四世住職高珍、領主間部越前守に乞て 新に社殿を造営し、同享保二年落成す、今の社殿なり、
社傍の田地に小祝名所の號あり、往古の神田なりしなるべし、
明治五年十一月郷社に列す、
社殿は本殿、拝殿、其の他神楽殿、籠屋等あり、境内は七百一坪 桧杉楓櫻相点綴す、境外に逆櫻あり、法性寺入道吉野より櫻の枝を杖として来り、此の地に挿みたりしに、後繁盛茂今日に至ると、樹下に碑あり、建武年代の建設なりと云ふ。境内神社 厳島社
【原文参照】
『上野國志(Kozukekokushi)』に記される伝承
式内社 小祝神社について 所在は石原村〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉と記しています
【抜粋意訳】
片岡郡 〇神社
小祝(をほふり)神社
石原村にあり、
延喜式曰、片岡郡、小祝神社
三代実録、元慶四年(八八〇)五月廿五日 授 正五位下 小祝神 正五位上
本地薬師佛
【原文参照】
小祝様の旧跡〈冷水 小祝神社〉(高崎市冷水町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)