日撫神社(ひなでじんじゃ)は 神功皇后(じんぐうこうごう)が 祖先が代々住むこの地を深く慕われ 三韓より凱陣の後 此の地に祠を建て 少昆古名命と御父 息長宿弥王を祀られたのが創祀と伝わり 『延喜式神名帳927 AD.』所載の近江国 坂田郡 日撫神社(ひなでの かみのやしろ)とされます
目次
- 1 1.ご紹介(Introduction)
- 2 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
- 3 【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
- 4 神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
- 5 神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
- 6 近江国 式内社 155座(大13座・小142座)について に戻る
- 7 東山道に鎮座する 382座『延喜式神名帳』の所載一覧に戻る
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
日撫神社(Hinade shrine)
【鎮座地 (Location) 】
滋賀県米原市顔戸77
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》少彦名命(すくなひこなのみこと)
息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)
応神天皇(おうじんてんのう)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・国土経営の神・医薬神・無病息災の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
日撫神社御由緒
一、鎮座地 滋賀県坂田郡青海町顔戸鎮座
一、御祭神 少彦名命、應神天皇、息長宿禰王
一、御由緒
当社は、延喜式神名帳 記載の坂田郡 五座 名神小の内の一にして、創祀の年代は詳らかでないが
「神祇志料」では「新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直あり、共に後漢宣帝四世の孫、阿智使主の族也と云へり、之によるに、二氏の族、或いは此處に居るもの其の祖先を祀れるか」と、
また「神社覈録」でも「祭神 火撫直祖神歟」と記している。
社伝及び明治の神社誌によると 当地は 神功皇后の祖先代々住まれし地なるを以て、皇后此の地を慕い給う事深く、三韓より凱陣し給うや、此の地に祠を建て、御父 息長宿禰王、及び 国土経営と医薬に功ありし少毘古名命を祀り給いしを創始とす、とその創立の由来を説いている。中古は、社領六百石を有し、朝妻庄十一カ村の大社であり、数個の大伽藍と十九の社坊を数え、多くの社僧がいたことを記録にのこしている。歴朝の崇敬深く、特に後鳥羽上皇はしばしば参詣され、応神天皇を祀り給い、その時 村人等による角力を御覧され給う。この角力が今日も伝承され 毎年奉納されている。また黄牛を奉納されたとも伝えられている。
その他、武門、武将の崇敬厚く、後小松天皇の應永年中、京極高光の建立せし伽藍等がありしが、数度の兵災に罹りまた織田信長の叡山諸院を焼亡するや神官僧侶等これを恐れて自焼くし、古記録ことごとく焼失する。
社殿は享保八年(1723)三月に再建され、拝殿等は寛政年中に落成されたものである。
宝物として、弘安六年の銘のある銅鐘一口、また、紙本淡彩古祭礼図三巻、
懸佛三面等あり。
明治十四年二月郷社に列し、明治二十四年内務省より古社保存資金を受け、大正十年五月県社に昇格せらる。
一、例祭 五月三日 秋祭 九月十五日
日撫神社
現地案内板より
【由 緒 (History)】
日撫神社 御由緒略記
當社の鎮座地は上古 息長の一部にして神功皇后の御出生地として特筆大書すべく 境内の朝妻山は万葉集以来古歌の名所として知られ、今を去る一千数十年前 醍醐天皇の御宇 延喜式内社に列せられる、
社記に神功皇后 当社を御創祀ありて 少昆古名命を祀り給ひしと伝う、
爾来歴朝の御尊崇厚く別けて村上天皇の勅願を賜りけり 天明六年 准三后一品公遵親王御自筆の額を賜り 小野道風 下馬碑を書すと云う
武門武将に於いてわ 源頼朝 佐々木氏の崇敬あり 足利将軍の教書並びに内書を寄す、
明治十四年 村社より郷社に昇格し 同二十四年七月 内務省より古社保全資金御下賜 大正十年 県社に加列し 同年十一月十六日 幣帛供進指定を受く、 古鐘あり、弘安六年の銘にて、尚 神事の角力は往古より名高く後鳥羽上皇御潜幸の砌(みぎり)御上覧ありしと云う、境内には戦国の力競石あり
手水舎に掲げられた説明板より
日撫(ヒナデ)神社
御祭神 少彦名命 息長宿禰王 應神天皇
御神紋 左三ツ巴
御由緒
延喜式神明帳記載の坂田郡五座名神小の一にして、創祀年代は詳かでないが、
「神祇志料」では「新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直ありて、共に後漢霊帝4世の孫阿知使主の族也と云う、之によれば、ニ氏の俗或は此地に居る者、其の祖先を祀れるか」と、
また「神社覈録」でも、「祭神火撫直祖神譽」と記されている。
社伝および明治の神社誌によると、当地は、神功皇后の祖先代々住まわれし地なるを以て、皇后此の地を深く慕われ、三韓より凱陣の後、此の地に祠を建て、少昆古名命と御父息長宿弥王を祀られたのが創祀と、由来を説いている。中古は、社領600石を有し、朝妻庄内11ヶ村の大社で、数個の大伽藍と19の社坊があり、多くの社僧がいたことを記録に残している。
歴朝の崇敬厚く、村上天皇は宸翰の額を奉納され、小野道風をして、下馬札を書かせ給う。特に後鳥羽上皇はしばしば参詣され、応神天皇を合祀されて、村人等による角力を叡覧され、この角力が今日伝承され、毎年秋祭に奉納されている。上皇は黄牛を奉納され、ひとえに御寵愛の牛と言はれ、この牛神慮にかない寿百余歳を保つと伝えられている。
武将の尊崇も厚く、佐々木四郎高綱は、常に当社を敬い武運長久を祈願され、太刀並に生食馬(いけづきうま)の鞍を奉納される。後小松天皇の応永13年京極高光は、社殿の造営と大伽藍を建立されたが、数度の兵火に罹り、織田信長叡山諸院を焼亡し戦火北上するにより、神官、僧侶等これを恐れて自焼したため、古記録、宝物悉く焼失した。
享保6年現在の社殿を修営され、拝殿は寛政年間に建てられたものである。また正保3年北小路の田の中より古鏡が発掘される。明治14年郷社に列し、同24年内務省より古社保存資金を下賜され、同41年神饌幣帛料供進指定となり、大正10年県社に列す。式内社本殿・境内建物
〔本殿〕3間社流造 間口2間 奥行2間
〔拝殿〕入母屋造 間口4間 奥行3間主な祭礼(神賑行事)
9月第3月曜日秋祭 奉納角力 角力踊り祭礼日
祭礼日は神事(祭儀)のみ行ない、御神輿・山車・露店などは別の日に出る場合があります。お出かけの際は念のため神社にお尋ねください。
5月 1日
9月 15日 角力踊り
日撫神社の角力は、後烏羽上皇参拝の時からと伝えられるが、角力踊りは江戸時代以降のものと推測される。奉納角力中入りに、緞子・倫子の化粧まわしをつけた力士24人が、角力甚句(一ツ拍子、三ツ拍子)に合わせて踊る姿は勇壮である。化粧まわしは、井伊家からの奉納といわれている。
〔本務社|米原支部〕
滋賀県神社庁HPより
https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=1044
【境内社 (Other deities within the precincts)】
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江国 155座(大13座・小142座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)坂田郡 5座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 日撫神社
[ふ り が な ](ひなでの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hinade no miko no kamino yashiro)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
日撫神社・奉納角力と角力おどり
米原市役所HPより
https://www.city.maibara.lg.jp/soshiki/keizai_kankyo/shoko_kanko/kanko_info/spot/saiji/3503.html日撫神社には、800年ほど昔から伝わる角力(すもう)おどりがあります。角力は、鎌倉時代前期、顔戸の隣村にある名超寺を密かに訪れた後鳥羽上皇を慰めるため、村人が力くらべをしたのが始まりと伝えられています。祭りには、大関、関脇、小結の三役が神角力を奉納し、地元の豆力士たちが子供角力を行ない、中入りには、若衆20人ばかりが土俵に登場し、江戸末期に、井伊家から拝領した紫や赤、朱、草色の豪華な化粧まわしをつけ、一ツ拍子、三ツ拍子の珍しい角力甚句(すもうじんく)に合わせて、掛け声とともに土俵を踏みしめる踊りを見せます。
スポンサーリンク
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
米原駅から R8号経由約4.3km 車10分程度
米原市顔戸(ごうど)にある米原市立双葉中学校の北側に鎮座します
参道の入口は 中学校の直ぐ東側で小川に石橋が架かりる社頭となります
檜皮の屋根付きの「定書き」〈昭和十四年〉があります
石灯籠が立ち 狛犬が構え 鳥居が建ちます 扁額は「日撫神社」と掲げられています
日撫神社(米原市顔戸)に参着
一礼をして 鳥居をくぐります 鳥居の脚に榊が祀られている事を見ながら 参道を進みます
更に参道を進むと左手に社務所があり 案内の石板には「日撫神社 所蔵 梵鐘」とあります
「正保三年に広林寺近くの水田中より出土した釣り鐘で、弘安六年(鎌倉時代)の銘がある。薬師・釈迦・阿弥陀・彌勒如来の四仏と持国天・増長天・広目天・多聞天の四天が鋳込のれた珍しいもので県指定の文化財であるが、宝珠の欠損が惜しまれる。 平成八年十月 淡海文化」
参道の先には「下馬石」があり 小野道風の作と 案内が石版に刻まれています
「社寺の境内は神聖な場所として古来から牛馬の乗り入れが禁じられているが、この石は聖域への結界を示すものである。書は平安時代中期の書家で日本三跡の一人小野道風の作と言われている 平成八年十月 淡海文化」
参道は左に大きく折れて 手水舎が立ち 緩やかな石段が続き 鳥居が建ちます その先には社殿が見えています
手水舎の手前には「黄牛(あめうし)塚」なる案内の石板があります
「後鳥羽上皇(1180~1239)は名越(長浜市)の名超寺に行幸のおり、日撫神社に参拝され黄色の牛を奉納された。黄牛塚は、この牛を葬った墓所と伝えられていたが、1975年の発掘調査により六世紀後半の古墳であることが判明した。現在は北陸自動車道下に埋没している。 平成八年十月 淡海文化」
御由緒略記の掲げられた手水舎には 龍頭から流れ出る手水にて清めます
内の鳥居の脚には榊が祀られています 一礼をして神域へと進みます
階段を上がると 立派な社殿が迫ってきます 拝殿へとすすみます
拝殿前の立札には 御祭神が記されています
御神紋は巴紋
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 一段と高い社地に神垣が廻されて本殿が鎮座しています この本殿まで幣殿が続き 実に見事な社殿です
本殿の屋根は銅板葺きですが 厚みからして檜皮葺に銅板を被せているようです
社殿の周囲には「祓所」「力競石」「神馬像」「神輿所」
社殿に一礼をして参道を戻ると 狛犬が坐しますことに気付きました 会釈をして参道を戻ります
スポンサーリンク
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【意訳】
日撫神社
日撫は 比奈天と訓ずべし
〇祭神 火撫直祖神歟
〇顔戸村に在す姓氏録 河内国 諸蕃 火撫直 後漢霊帝三世孫阿知使主
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【意訳】
日撫(ヒナデノ)神社
祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)
祭日 四月初丑日
社格 村社(縣社)
所在 顔戸村
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【意訳】
〇滋賀縣 近江國 坂田郡 日撫(ヒナデ)村 大字 顔戸(ガウド)
郷社 日撫(ヒナデノ)神社
祭神 少昆古名命(すくなひこなのみこと)
応神天皇(おうじんてんのう)
息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)祭神に関して神祇志料は説をなして曰く、「新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直あり、共に後漢宣帝四世の孫、阿智使主の族也と云へり、之によるに、二氏の族、或いは此處に居るもの其の祖先を祀れるか」と、
「神社覈録」もまた日撫直の祖神を祀るといへり 当地は 神功皇后の祖先代々住まれし地なるを以て 皇后此の地を慕い給う事深く 三韓より凱陣し給うや 此の地に祠を建て 御父 息長宿禰王 及び 国土経営と医薬に功ありし少毘古名命を祀り給いしを創始とす、
当時 朝妻郡十ヶ村を寄せ給い 応神天皇以後も歴代の崇敬甚だ深く、仁賢 崇峻 天智 持統 元正等の諸帝 各御寄進の品あり 醍醐天皇 延喜の制 小社に列す 坂田郡五座の一なり
(延喜式)中古以後 神仏混沌の説によりて 堂塔伽藍の建立あり 降って白河法皇 特に社領六百石を進め給い 二条天皇 長寛二年 俊寛僧都 素戔嗚命を合祀し 更に鳥羽天皇の朝応神天皇を合祭す
後 足利氏の代に及ぶや この地 数々の交戦の巷となり 後醍醐天皇 元弘三年 官軍この地に陣して 北條仲時等を辻堂に襲いしことあり 後光厳天皇康安元年 足利義詮また ここに陣す 足利義満以後は高貴の崇敬も浅からず 御奈良天皇 天文 弘治 永禄の間 六角 京極 浅井 等の諸将交々屯し 社殿の兵火にかかるもの一再のみにあらず 後小松天皇の応永中 京極高光の建立せし伽藍も多く鳥有に帰す
永禄以後は また数々諸将の依る所となり 織田信長 叡山諸院を焼亡するや 僧侶神官等 これに恐れて火を堂宇に放ちしかば 堂塔古記録 悉く灰塵に帰し ただ神宮寺最期状一巻を残すのみ
中御門天皇 享保六年三月 社殿を建造し 光格天皇 寛政年中に至り 拝殿 神楽堂 唐門 廻廊等を築成す
明治七年 村社に列し 十三年郷社に昇格す
社地 琵琶湖を距る遠からず 境内 二千八百六十九坪・・・
【原文参照】