東別府神社(ひがしべっぶじんじゃ) は 創建年代等は不詳です 鎮座地 別府の地名由来は 平安末期頃 国府の支庁である別府が置かれていた為 又は 別府小太郎清重の在名から名付けられた地名とも云われ 居城の東別府城には 別府氏(藤原氏)の氏神 奈良の春日大社から分祀し 天正18年(1590)の落城まで 城の鎮守であったと伝わります 跡地には 明治42年に埋鳥の村社 榛名神社を合祀して 東別府神社と改称しました『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社とされています
目次
- 1 1.ご紹介(Introduction)
- 2 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
- 3 【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
- 4 神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
- 5 神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
- 5.1 『日本書紀(Nihon Shoki)』〈養老4年(720)編纂〉に記される伝承
- 5.2 『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』〈815年(弘仁6年)〉に記される伝承
- 5.3 『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
- 5.4 『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
- 5.5 『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
- 5.6 『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
- 5.7 『大日本地名辞書(Dainihon chimei jisho)』〈明治40年(1907)〉に記される伝承
- 5.8 『埼玉の神社』〈1986年発行〉に記される伝承
- 6 武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
東別府神社(Higashibebbu Shrine)
(ひがしべっぶじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県熊谷市東別府778
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天児屋根命(Ameno koyane no mikoto)
倉稲魂命(Ukano mitama no mikoto)
大物主奇魂命(Ohomononushi kushimitama no mikoto)
《合》彦由岐命(Hikoyuki no mikoto)
埴山姫命(Haniyamahime no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
・創建年代等は不詳
社殿改修記念碑
篆額 埼玉県神社市長 宝祭山神社宮司 横田茂ここ別府城址に鎮座する東別府神社は 今を去る八百余年の平安の昔 藤原鎌足の後裔 別府次郎行隆が この地に城を構えるにあたり その鎮守神として 大和の国奈良の春日神社から勧請したのを創始とするといわれている。
明治42年6月境内地を拡張するとともに当時 既に奉斎されていた春日神社 稲荷神社のほか この地域内に祭られていた榛名神社 神明社 御嶽神社 大国主神社 八坂神社 琴平神社 三船神社 等を合祀し 地域一円の崇敬の場が造営された。以来70年の間 神祇を崇め 祭祀を重んじ 喜びにもまた悲しみにも心のよりどころとして神人和合のまつりごとが行われてきた しかしながら 本殿拝殿など積年の雨風による損いもはなはだしく 之が修理について斉しく憂慮するところであった
昭和55年10月東別府自治会が中心となり 同憂の人達と協議をかさねた結果 東別府神社改修整備奉賛会を発起し 改修を計画して 浄財を勧募したところ 氏子をはじめ 各方面の崇敬者から欣然として 多大の奉賛をうけることができた
昭和53年2月起工し 奥宮3社の改修と同社銅板葺覆殿の新築工事また拝殿の改修 及び 各社の修理 尚 参道の敷石の整備等滞りなく完了し ここに面目を一新し 地域にふさわしい崇敬の場が復元された このことは奉賛会役員の長期にわたる なみなみならぬ努力と奉賛者 並びに 工事施工者の赤誠の結晶であり 深く敬意を表わしてやまないものであります
明治43年この地に合祀 以来 70年の星霜を経過した今日 氏子奉賛者の総意による 昭和の大改修成るにあたり 敬神崇祖の淳風とともに 地域の限り 繁栄を祈念し 改修整備の概要を 石に誌して永く記念しようとするものである
昭和54年4月吉日
境内石碑より
【由 緒 (History)】
鎮座地は 別府城跡です
埼玉県指定史跡 別府城跡
熊谷市別府777 他
昭和16年3月31日指定別府氏は、成田氏系図によると、成田助高の二男 次郎行高が別府に住んでから、その子 太郎能幸は東別府に、二郎行助が西別府に 数代相対して領知した。
この城跡は、東別府家の館として、東西南北ともに約一町(百余メートル)四方で、周囲には巾約2〜3メートルの横濠(現在は西、北、東側に残っている)をめぐらし内側に高さ約2メートルの土塁を築き、中世の武士の館跡として典型的な形をみることができる。
太郎能幸に初まった東別府家は、それから11代目の尾張守長清まで続いたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の北条氏攻略に際し、敗軍側についたため家禄を失ってしまったので、この東別府城も廃城になってしまった。
昭和54年3月31日 ・埼玉県・熊谷市 教育委員会現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・神明社《主》天照大御神
・御手長神社
・八坂神社《主》素盞嗚命
・八幡神社
・天満天神社
・御嶽神社
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)播羅郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 白髪神社
[ふ り が な ](しらかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shirakamino no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の5つの論社について
・白髪神社(妻沼)
・大我井神社(妻沼)
・妻沼聖天山歓喜院(妻沼)〈大我井神社の旧 鎮座地〉
・熊野大神社(深谷市)
・東別府神社(熊谷市)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
籠原駅から 県道276号を北へ約2.5km 車5分程度
別府城址に鎮座します 別府城の土塁跡が残り 別府城址碑があります
東別府神社(Higashibebbu Shrine)に参着
鳥居扁額には「東別府神社」 一礼をして 鳥居をくぐります
参道は右に直角に折れて 細い参道が左にあって 境内社の神明社が鎮座しています 正面参道の先に鳥居 左手には手水舎があります
参道には 狛犬が3対並びます 鳥居の前に1対 鳥居を過ぎて2対 その先の正面には 社殿が建てられています
拝殿にすすみます 扁額には「奉納 東別府神社」と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿の覆い屋と続いていて 覆い屋の中には 本殿3社鎮が座しています
境内社にお詣りをしてから 参道を戻り 社殿に一礼をします
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)』〈養老4年(720)編纂〉に記される伝承
第22代 清寧天皇(セイネイテンノウ)には 子が無く跡継ぎのいないことを憂いていた時の出来事として 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣して 白髪部を設置したとあり
当神社の社伝にも「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭 白髪神社」とあります
天皇は このあと 同年冬11月に 後継ぎとして 市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ)の御子の億計(オケ)・弘計(オケ)を見つけました
【意訳】
白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)〈第22代 清寧天皇〉即位2年 春2月 の条
天皇は 子が無いことを恨みて
大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣した
白髪部舎人(シラカベノトネリ)白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)白髮部靫負(シラカベノユケイ)〈靫は矢を入れる筒・靫負は警備者〉を設置しました
願わくは 遺跡を残し 後世に伝えようとされました
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』〈815年(弘仁6年)〉に記される伝承
第9代 開化天皇の第3皇子「彦坐命の四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)の後(スエ)なり」と記されていて この白髪王(シラガノミコ)を当神社の祭神とする説もあります
【意訳】
右第二巻 左京(ヒダリノミサトノ)皇別下 の条
軽我孫(カルノアビコ)
治田連(ハリタノムラジ)同祖
彦坐命(ヒコマスノミコト)
四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)の後(スエ)なり初(ハジメ)彦坐命(ヒコマスノミコト)の末(スエ)
賜(タマイ)に 阿比古(アビコ)の姓(カバネ) 成務天皇の御代(ミヨ)賜(タマウ)軽地(カルノトコロ)を十千代(トチシロ)是(コレ)負(オウ)軽我孫(カルノアビコ)姓(カバネ)の由(ヨシ)なり
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『新撰姓氏録』選者:万多親王/校訂者:橋本稲彦[書誌事項]刊本(後印) ,文化04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
祭神を 第9代 開化天皇の第3皇子「彦坐命の四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)」もしくは 清寧天皇(セイネイテンノウ)とする説があると記しています
【意訳】
白髪(シラカ)神社
新撰姓氏録 彦坐命の四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)
式社考 女沼村 白髪大明神 祭神 清寧天皇(セイネイテンノウ)
社記曰く 継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社 皇后者 吉備稚姫命なり祭日 9月朔日
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
春日社〈現 東別府神社〉は 別府氏の古城跡にあり 式内社の幡羅郡 白髪神社とする説があるが 隣村の熊野社も同じように論社だが 双方ともに確証がない と記しています
【意訳】
巻之227 幡羅郡之2 東別府村の条
榛名権現社
村の鎮守とす 観蔵寺持 下同じ
〇春日社(カスガノヤシロ)
古(イニシエ)は 城の鎮守なりと云う 今に古城跡にありて 稲荷を合祀す
按に〈考えるに〉
當社は 神名帳に出せる幡羅郡 白髪神社なる由 式内神社考に見えたれど 當社にては この伝なし 又 近村 東方村 熊野社をも 式内 白髪神社なりと云う説あれど 二社共に明証はなし
〇稲荷社
〇八幡社 共に福泉寺持云々
古城跡
村の中程にて 今も四方に土居の跡残れり 構への廣さ 東西40間 南北30間許 この内に春日の社あり 前に出せり 社地の外は年貢地なり 傳へ云 當所は 別府次郎行隆より 尾張守長清まで數代住せしが その子三郎左衛門顕清 天正年中 忍城に籠り 家禄を失ひしより廃すと云う 成田分限帳に 永500貫文 別府尾張守長吉と載たるは 則此 長清なりと傳れば その頃の家禄は推て知ばし
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
祭神は 清寧天皇(セイネイテンノウ)を採用して 妻沼に鎮座していると前提しながらも 様々な説も紹介していて 東方村に在る「熊野権現」も論社としています
【意訳】
白髪神社
白髪は 志良賀と訓ずべし
〇祭神 清寧天皇(セイネイテンノウ)式社考
〇地名記には 祭神 伊弉冉命(イザナミノミコト)素戔嗚尊(スサノヲノミコト)猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)東方村に在す 今 熊野権現と云うといえるは 信用びたし
〇女沼村に在す
〇日本書紀 清寧天皇2年 春2月の条 天皇は 子が無いことを恨みて
大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣した
白髪部舎人(シラカベノトネリ)白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)白髮部靫負(シラカベノユケイ)〈靫は矢を入れる筒・靫負は警備者〉を設置しました願わくは 遺跡を残し 後世に伝えようとされました〇社伝曰く 継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社 皇后者 吉備稚姫命なり
新撰姓氏録 左京(ヒダリノミサトノ)皇別下 の条 軽我孫(カルノアビコ)彦坐命(ヒコマスノミコト)四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)の後(スエ)なり 云々
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
日本書紀 清寧巻に白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)云々 生而白髪〈生まれながらの白髪〉とあり 即位2年 春2月の条に 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣した際に 白髪部の人々に祀られた神社であろうと推測しています
【意訳】
白髪神社
祭神
今 按〈考えるに〉
「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社」とあり
日本書紀 清寧巻に白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)云々 生而白髪〈生まれながらの白髪〉即位2年 春2月の条に 天皇は 子が無いことを恨みて
大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣した
白髪部舎人(シラカベノトネリ)白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)白髮部靫負(シラカベノユケイ)〈靫は矢を入れる筒・靫負は警備者〉を設置しました願わくは 遺跡を残し 後世に伝えようとされましたとあるのを合わせ思うに この時の因縁によりて 白髪部の人の清寧天皇を祭り奉りしなるべし
祭日 9月1日
社格 無社格
所在 妻沼村 字 高岡(大里郡妻沼町大字妻沼)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』1 『特選神名牒』2
『大日本地名辞書(Dainihon chimei jisho)』〈明治40年(1907)〉に記される伝承
別府の地名は 別府小太郎清重の在名から名付けられている
春日社〈現 東別府神社〉は 式内社の幡羅郡 白髪神社とする説があって 別府氏の旧跡にあると記しています
【意訳】
別府(ベップ)
今別府村と云う 幡羅村の東にして 玉井村の北とす 村の北方は低窪にして 水田広し
別府沼は一條の流江(ナカレエ)にして 長さ16町 幅1町許(最広3町に至る) 福川へ入りす新記云う 別府は古き村にて 別府小太郎清重の在名なり
平家物語 盛衰記等にも これ清重がことは著見なり又 春日社は 神名帳に出せる幡羅郡 白髪神社なる由 式内神社考に見えたり 別府氏の旧跡に その社あり 云々
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『大日本地名辞書』著 吉田東伍 冨山房1907-10-17
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815090『大日本地名辞書』
『埼玉の神社』〈1986年発行〉に記される伝承
【意訳】
東別府神社(熊谷市東別府七七七・七七八(東別府字北曲輪)
別府という地名の由来については
2説あり 平安末期ごろ荘園の周辺を別官符(追加開墾状)によって開墾したことによるとも 国府の支庁である別府が置かれたことによるともいういずれにしても この地は古くから開発された所であり
そのためか 当社を式内社とする説もあったことが 『風土記稿』の記事から知られる当社は 元来春日社と称し その境内は 別府太郎義家が居城として築いた東別府城の跡にあり 周りを高さ2メートルの土塁と幅3メートルの豪に囲まれている
別府氏は 藤原鎌足の後裔であるところから 氏神として奈良の春日神社を勧請したのが当社の始まりで 天正18年(1590)の落城まで代々 城の鎮守として崇敬された
その後 当社は 当山派修験の勧蔵寺(後の宮本院)持ちとなり 三石が除地され
享保19年(1734)には宗源宣旨を受けて 正一位 春日大明神と号した
神仏分離によって 寺の管理を離れた当社は 更に 明治42年に大字埋鳥の村社 榛名神社を合祀し ここに東別府神社と改称した
また 明治維新から明治42年に東別府神社となるまで 春日稲荷神社と称していたように 当社には いつのころからか 稲荷社が合祀されていた
宝暦年中(1751~64)当社の再建を機に 稲荷社を元地に戻そうという動きが氏子の間に起ったが 神意を伺った結果 元地に戻すのを取りやめたという『武蔵志』の話は興味深い『埼玉の神社』埼玉県神社庁神社調査団 編 埼玉県神社庁1986年発行より
東別府神社(Higashibebbu Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)