服織神社(はとりじんじゃ)は 往古は当地の南西 社宮地というところにあり、当地方 服部郷の信奉の社であったと云い 式内社の当時は「羽織社」と称えていたことが石碑にみえ 付近に衣手谷(きぬてだに)服反田(はだんだ)社宮神(しゃぐじん)などの地名が残っており その信仰は今の社にも受け継がれ「扇神」「扇さん」「オオギリさん」と慕われています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
服織神社(Hatori shrine)
【通称名(Common name)】
・服織さん(はとりさん)
・扇さん(オオギリさん)
【鎮座地 (Location) 】
三重県津市河芸町久知野1781番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大日孁貴尊(おほひるめむちのみこと)
《合》誉田別尊,建速須佐之男命,伊邪那美命,木花開耶姫命,大山津見神,
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
服織神社
この神社は延喜式内社で、庵芸郡十三座の一座である。服織は機織りの義で、天照大神は農業養蚕機織を奨励され、天の服織女をして神衣を織らしめ給うたにより、祭神として奉祀したのであろう。
往古は当地の南西 社宮地というところにあり、当地方 服部郷の信奉の社であった。
いつ頃か社殿が潰廃して、別当寺の観音堂徳寺へご神体を移した。
永正十二(1515)福徳寺が火災に罹り焼滅したので 社殿を地区西端に近いところに建立して「服織社」と称し「扇神」といった。
その後 明治四十一年五月 地区にあった他の七社と共に上野神社に合祀、昭和三年一月再び分祀、今の地に、他の七社も合祀して社殿を建立した。
河芸町教育委員会現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
当社はもと延喜式内社で、現在地の西方三〇〇メートルの処に奉斎されていたが、大字久知野鎮座の八雲神社ほか一一社と共に、明治四一年四月上野神社へ合祀された。その後、里人達の強い希望により、昭和三年に御旅所を建設して奉斎してきたが、昭和二六年三月一五日には設立登記も完了して知事に届け出た。
式内社の当時は「羽織社」と称えていたことが石碑にみえ、付近に衣手谷(きぬてだに)、服反田(はだんだ)、社宮神(しゃぐじん)などの地名が残っており、その信仰は今の社にも受け継がれ「扇神」「扇さん」「オオギリさん」と慕われている。皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会と三重県神社庁教化ホームページ委員会HPより
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)奄藝郡 13座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ]服織神社
[ふ り が な ](はとりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hatori no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「服織(はとり)」とは
服織(はとり)とは 機織(はたおり)の変化した語で 機(はた)を織ること および それを生業とする人を指します
又 服部(はとりべ)は 大化の改新以前に機織の技術をもって朝廷に仕えた品部です
機織部(はたおりべ)が転訛したもので のちに「部(べ)」の音がとれ「促音」が入り「はっとり」とも発音されるようになりました
服部(はとりべ)について゛服部天神宮゛の記事を参照してください
・服部天神宮(豊中市服部元町)
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『延喜式神名帳(927 AD.)』所載社の内゛服織神(はとりのかみ)゛を祀る三ヶ所の神社について
①延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社 三社について
『延喜式神名帳』奄芸郡「服織神社」の論社は 付近一帯が 古代には 服部(はとり)郷であったので 諸説が生れたと云われる
・服織神社(鈴鹿市御薗町)
・服織神社(河芸町久知野)
・酒井神社(鈴鹿市郡山町)
〈酒井神社に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり〉
※江戸時代の諸書には 郡山村 酒井神社境内の服織神社を称えるものが多かった
②延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)
・服織神社(浜松市東区豊町)
③延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)
・服織田神社(牧之原市静波)
・白羽神社(御前崎市白羽)
・駒形神社(御前崎市御前崎)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
伊勢鉄道 伊勢上野駅から県道651号経由で西へ約750m 徒歩11分程度
久知野公民館の前に参道があります
参道の正面には 福徳寺があります
そのすぐ西側
服織神社(河芸町久知野)に参着
石灯籠と石鳥居が建ちます
一礼をして鳥居をくぐり境内へすすみます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の後ろには 鎮守の杜があります
この鎮守の杜の中に 本殿が鎮まっています
社殿に一礼をして 境内を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 服織神社について
所在は郡山村に在す〈現 酒井神社(鈴鹿市郡山町)に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり〉と記しています
【抜粋意訳】
服織神社
服織は八止利と訓べし、和名鈔、郷名部、服織、假字上の如し
○祭神 織姫、俚諺
○郡山村に在す、同上
○日本紀、雄略天皇十四年正月丙寅朔戊寅、身狭村主 青等共、呉國使、將呉所献手末才伎漢織呉織及衣縫兄媛弟媛等、泊於住吉津、中略 漢織、呉織、衣縫、是飛鳥衣縫部、伊勢衣縫之先也、類社
大和國 城下郡 服部神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 服織神社について
所在は御園村八幡山にあり〈現 服織神社(鈴鹿市御薗町)〉と記しています
【抜粋意訳】
服織(ハトリノ)神社
今 御園村八幡山にあり、舊村内一宮森 舊名 波止利森 にありしを、後 今地に遷す、本社所蔵 大永八年記文、三重縣神社調、
栲幡千々姫命を祭る、大永八年記文 凡毎年八月十五日祭を行ふ、三重縣神社調、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 服織神社について 所在は三ヶ所あると詳細を記しています
①其一は 御園村にあり〈現 服織神社(鈴鹿市御薗町)〉
゛式社たらむ事を願ふは盲味の造意論するに及はす゛
②其一は 久知野村にあり〈現 服織神社(河芸町久知野)〉
゛是亦 式社には判定しがたし゛
③其一は 郡山村にあり郡山神社の境内の西にある祠を云ふ
〈現 酒井神社(鈴鹿市郡山町)に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり〉
゛本社服織に確證なし未定とす゛
三ヶ所の何れも 証拠に確証がなく 決めがたいと記しています
【抜粋意訳】
服織神社
祭日
社格
所在
今按この社所在の村三所あり其一は御園村にありて 本村日吉神社修覆の時 古書一通を得たり 其文に波止里(ハトリノ)神社 千々姫ノ命 服部ノ御園神明田米三石麻五斤両太神宮御衣献之森・東西二百間余有之盜人殺人ヲ,故産神八幡宮古席え移ス神明ヲ也道、自西十間木森残志餘は切拂ヒ畠に成すー之宮之森は日吉八王子之命也、大永八戊子年正月清成山春性寺樂藏主書 北川平七ドノへとあるを以て證とすれと紙墨新くして大永のものに非す 其社頭を檢るに從古在來れる八幡社正中にあり 其左に神明の小祠あるを本社服織に塡つる也 殿内の棟札を一覧するに永仁三年三月田三所 寄進の記あり剝落して讀むベからねど仁王講田 毎月十五日云云 放生會田云云など見ゆれば 八幡社の記文なる事著也 延寶五年に其古札の写札あり端書の所を削て服部神社と改書し紀州大納言樣より社頭 波止里神明に寄附の八字を加筆し 又爲 服部禅社修覆令寄附候畢の十二字をも挽入す 又 永和四年十一月の札に伊勢國清成名八幡宮爲一新改め永録七年十二月の札に奉再興勢州安藝郡御園清成村八幡古廟事とある八幡の上へ入墨して服織と改め 元和八年の札に八幡大菩薩とある上へ入墨して服織大菩薩に易へたるなと拙劣の所爲 一目撃して真偽を辨せらるるを固執して 式社たらむ事を願ふは盲味の造意論するに及はす
其一は 久知野村にありと云て 社殿もなきを新地に急に造立し 明治七年十月廃社地へ記杭を建むとして地を堀しに土中より表に式内 羽織社 大日孁貴 裏に服部郷久知野と彫れる石を堀得たりと云ふを證とすれと 其字體 新しくて百年にも満たさるへき程のものなり 又舊くより別当福德寺に在りたりと云ふ神像は 所謂 両實童子の佛師作の彩色形なり 俗に天照大神の御影と 謂ふを以て 石に大日孁貴と彫れるに符合すべく 巧める狡意の所作なり 又煽畷扇神等を以て 本社の拜所とすれど 扇は奄藝の音便読にて 奄藝郡奄藝郷の考証には 備ふべし服織社に開係する事に非ず 是亦 式社には判定しがたし
其一は 郡山村にあり郡山神社の境内の西にある祠を云ふ さるは其四五町郷南に 羽止利跡と云 貮畝步斗りの舊址あり 其所より遷せリと云ふ 傍を衣織谷と云ふあり 又 郡山 中瀬古 秋永の三村を染野三郷と字するも服部に由あり 又 社蔵の文書に一栗眞莊内 郡山大明神 羽止里神社 於ニ 右二社 者夫役用途事以ニ別儀可被閣候恐々謹言九月十五日氏光「花押」豊川法橋殿とあるを稱とすれど 今在る文書は後人書換へて本書を隠埋せしかとも 享保に写したる本書の文には 栗眞庄内土御前稲生大明神 郡山大明神於三社者夫役用途事以別儀可被閣候とあれば 羽止理神社の證文とはなし難し 又 羽止利跡といふ地も里俗は富士権現と呼へは 垢離かきて富士を遥拝せし遺跡なり 又 衣織谷の字あり 衣手山の古歌ありなど證すれど 都て服織に附會せるのみ慥なる事なし 又 染野三郷の字をも證とすれど 假字書にシメノとあり されは標野(シメノ)の假借にて本社の證には備ふへからす 況や郡山大明神の西宮は稲生神社の勧請にて 西宮地主姫神たる事 瞭然たれは 本社服織に確證なし未定とす
其余 考診に福徳村案内記に白子服得天王久居藩明細帳に鈴鹿郡安知本村等にも配せれど 何れも明徴ある事なし 猶他に覓むべきにや
【原文参照】
服織神社(河芸町久知野)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)