土師尾神社(はじおじんじゃ)は 上賀茂神社の本殿廻廊の内庭に鎭座する小祠で 延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂波爾神社(かものはにの かみのやしろ)の論社です 社名の゛土師(はじお)゛とは 上古に陵墓管理 土器や埴輪 (はにわ) の製作をした人を云い 鴨縣主と同祖 鴨建玉依彦命の後裔である「西泥土部」が 祖神を祀った社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
土師尾神社(Hajio shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市北区上賀茂本山339(上賀茂神社境内)
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》賀茂玉依比古命(かもたまよりひこのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
・当初の鎮座地・創建年代ともに不詳
※社名の゛土師(はじお)゛とは 上古に陵墓管理 土器や埴輪 (はにわ) の製作などをした人を云う
『新撰姓氏録』山城國神別には 鴨縣主と同祖 鴨建玉依彦命の後裔である「西泥土部」が登載され この氏族が 祖神を祀った神社と云う
【由 緒 (History)】
末社 土師尾社(はじおのやしろ)
祭神 賀茂玉依比古命
賀茂角身命の御子で神饌用祭器具を製作した神様。
重要文化財建造物である。
現地立札より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
土師尾神社は 上賀茂神社の本殿中門廻廊内に鎭座します
〈一般参拝不可であり 中門を入って廻廊内 右(東)の小祠〉
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉については別の記事を参照してください
・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 賀茂波尓神社
[ふ り が な ](かもはにの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kamohani no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂波爾神社(かものはにの かみのやしろ)の論社
・賀茂波爾神社(京都市左京区高野上竹屋町)〈下鴨神社 境外摂社〉
・土師尾社(京都市北区上賀茂本山)
〈上賀茂神社 境内社〉(中門内 一般不可)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
上賀茂神社の本殿中門廻廊内に鎭座します
〈一般参拝不可であり 中門を入って廻廊内庭 右(東)の小祠〉
土師尾神社(京都市北区上賀茂本山)に参着
両手を合わせ祈ります
特別参拝を申し出れば 見学は出来ますが 撮影などは禁止です
特別参拝については 公式HPより
https://www.kamigamojinja.jp/sanpai/tokubetsu/
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 賀茂波爾神社について 所在は゛中古 廃亡して 在所詳ならず゛と記していますが
諸説として 二つの説を挙げています
゛山城志云、山口波爾久我末刀神社混ニ雑下賀茂小祠゛〈現 賀茂波爾神社〈赤ノ宮〉(京都市左京区高野上竹屋町)〉
゛考証云、今上賀茂摂社土師尾社゛〈現 土師尾社(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社 境内社〉〉
【抜粋意訳】
賀茂波尓神社
賀茂は前に同じ、』波爾は假字也、
○祭神詳ならず、〔伴信友云、玉依彦命〕
○在所詳ならず
○姓氏録、〔山城國神別〕西泥部、鴨縣主同祖、鴨建玉依彦命之後也、
山城志云、山口波爾久我末刀神社混ニ雑下賀茂小祠、今不可考、」
考証云、今上賀茂摂社土師尾社、』
〔連胤〕按るに、波爾は元より地名なる事、一代要記に、嵯峨天皇 弘仁元年十月二十七日、御禊、山城國愛宕郡小野郷埴河松崎瀬、〔類聚國史 同日の處には、禊ニ於松崎川、縁ニ大嘗曾事也、〕
また寛仁二年十一月二十二日太政官符、〔愛宕郡捌簡郷奉寄賀茂大神宮事の條〕云々、勅旨 涅沱埴川(ミソロイケハニカハ)氷室揺丁陵戸等田、〔下略〕拾芥抄、〔禁河部〕埴河、〔印本埴作埴非〕夏供鮎、〔此外諸書にも埴川の事見えたり〕
百練抄云、保安四年七月十八日、天台衆従、為先ニ神輿、欲乱ニ入京中、公家遣ニ武士、相ニ禦于埴川辺之間、舜ニ御輿退散、など見えたれば、名勝志に、埴川八瀬川也、今俗曰ニ高野川といへるが如くなるべし、さて此埴ならば、小野郷ノ内にして、必別電社に隷べきに、今御祖社の末社に混乱すといふをおもふに、必西泥部の氏神にこそあらめ、今も御祖社の被官に、西泥部氏の存在すれば、中古廃亡の時、其仕奉れる御祖社の社地などに移せしが、竟に其由緒志れず成たるなるべし、抑当社を御祖社末社に混乱すといふに據ておもへば、波爾の地に坐し神を、爰にも祭れるなるべし、さてはそれを分むために、賀茂の名を冠らせしにで、今も御祖社の被官なる西泥部の氏社とせしが、竟に社壇は荒廃せしにもやあらん、猶考ふべし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 賀茂波爾神社について 所在は゛今 高野川の東 新田村にあり、赤宮と云ふ、即ち是也゛〈現 賀茂波爾神社〈赤ノ宮〉(京都市左京区高野上竹屋町)〉と記しています
【抜粋意訳】
賀茂波尓神社
今 高野川の東 新田村にあり、赤宮と云ふ、即ち是也、〔泉亭氏所蔵古圖、賀茂波尓神社考、〕〔〇按 山城名勝志に 埴河 今俗に 高野川と云とみえ、小右記 寛元二年十一月官符に、湿地埴河などとある、証すへし〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 賀茂波爾神社について 所在は 諸説として 二つの説を挙げています
゛此社は高野河の東なる新田村に赤宮と云ふ是なり゛〈現 賀茂波爾神社〈赤ノ宮〉(京都市左京区高野上竹屋町)〉
゛帳考云 今上賀茂攝社なりと 是別雷神社廻廊の内に鎮坐せる土師尾神社を指せるなるべし゛〈現 土師尾社(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社 境内社〉〉
【抜粋意訳】
賀茂波尓(カモノハニノ)神社
社格 村社(高野川原にあり)
所在 (明治十年五月京都府の伺へ 十一年二月八日書面 賀茂波爾神社之儀は 新田村鎮座 赤宮と可想得と御指令有之候)
今按 京郡府式内考證に波爾は元より地名なり 一代要記に嵯峨天皇 弘仁元年十月二十七日御禊 山城國愛宕郡小野郷 埴(ハム)河松崎ノ瀬 又寛仁二年十一目二十二日太政官符云々勅皆 湿地埴川 氷室(ヒムロ)遙丁陵戸等田〔下略〕拾芥〔禁河部〕埴河夏供鮎
百錬鈔 保安四年七月十八日 天台衆徒先神輿乱入京中公家遣ニ武士相禦于埴川邊之間 棄ニ神輿退散など見えたる 其證なり 然れば波爾神社は此地の邊に鎮座せしが 此地 今 指定むベき神社なし帳考云 今上賀茂攝社なりと 是別雷神社廻廊の内に鎮坐せる土師尾神社を指せるなるべし 此社 小祠なれど別雷神社舊記に健保年中 今の地に遷座する由を載たれば 蓋力の波爾の地より此に移せるか 尚能考べしと云て
詳かならぬを岡本經春が考に 此社は高野河の東なる新田村に赤宮と云ふ是なり 其證は御祖神社の舊神官 泉亭俊彦が蔵る古圖にハニ社今赤宮と云るは古傳ありて記せるなるべし 而るを土師尾社を當社ならんと云る説も聞ゆるは採るに足らずと云る
據あるに似たれど 猶よく考て後に定むべきなり
【原文参照】