赤司八幡神社(あかじはちまんじんじゃ)は 延長二年(924)十一月鎭座と云い 神社に伝わる『止誉咩(とよひめ)神社本跡縁起』には はじめ゛筑紫中津宮゛と呼ばれ 後に 延喜式内社として゛ 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)゛になったとあります 止誉比咩は゛豊姫゛とも表記し神功皇后の妹ともされます 戦国時代に社号を八幡宮となり現在に至ります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
八幡神社(Hachiman shrine)
【通称名(Common name)】
赤司八幡神社(あかじはちまんじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
福岡県久留米市北野町赤司1765
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》応神天皇(おうじんてんのう)
《配》住吉大神(すみよしのおほかみ)
高良大神(こうらのおほかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
御井郡惣廟 赤司八幡宮
御祭神(祭神三座・相殿十一神)
左 與止比咩命 高良大神
中 道主貴 止與比咩命 八幡大神
右 (三女神) 息長足姫命 住吉大神御神徳 鎮護国家(日本の国を守る大神様)
由緒
創祀は天照大神様の神勅「汝三神、宜しく道中に降居して天孫を助け奉り天孫の為に祭かれよ」を受けて、筑紫の道中(筑紫平野の中心部)、御井郡河北の地に天降りした、天照大神様の御子神、道主貴(三女神)を祭る。祠官はこの地方の古代豪族水沼君等と言われる。「御井郡惣廟を称し延喜式内名神大社 豊比咩神社の本跡」を伝える当社は、高良社の源所とも思われ、この地は古代より筑後国の統治の中心地であり、邪馬台国御井郡説の最有力地でもある。
現地石碑文より
【由 緒 (History)】
『福岡県神社誌』中巻〈昭和20年〉に記される内容
【抜粋意訳】
村社 八幡神社
三井郡大城村大字赤司字城小路
祭神 應神天皇、武内宿禰、住吉大神
由緖 延長二年十一月鎭座、明治六年三月十四日村社に定めらる。社説に赤司城主の崇敬厚く新築修繕其他奉納ありしが、度々の災禍に遇ひたりと。
例祭日 舊暦十一月 初卯日
神饌幣帛料供進指定 昭和九年四月二十一日主なる建造物 本殿、幣殿・拜殿、社務所
境内坪数 千百四坪
氏子區域及戸数 百四十七戸境内神社
大三輪神社 (大己貴命 ) 天満神社 (菅原大神 ) 水神社 (岡象女命 ) 少彦名神社 (少彦名命 ) 祇園社 (素戔男命 )
【原文参照】
赤司八幡宮(あかじはちまんぐう)
赤司八幡宮は、平安時代時の延長(えんちょう)2年(924)御井郡惣廟として創建されたといわれます。神社の『止誉比咩(とよひめ)神社本跡縁起』によると、はじめは『筑後中津宮』と呼ばれていましたが、その後、延喜式内社の『豊比咩(とよひめ)神社』(高良の神と並んで名神大社とされる)になったと伝えています。戦国時代に八幡宮と社号を変え、現在に至っています。
社地に赤司城が築かれたことを考えても、赤司氏をはじめ、草野氏や大友氏、田中氏などの多くの豪族から深い崇敬を寄せられていたことがうかがわれます。
毎年9月15日の放生会の花火は、昔ながらに盛大な祭りとして多くの参拝者を集めています。
赤司城(あかじじょう)跡
赤司城がいつつくられたか、詳しくはわかっていませんが、はじめて文献上に「赤司城」が登場するのは興国(こうこく)元年(1340)ですから、鎌倉時代につくられたと考えられます。川や堀をめぐらせた平城で、赤司氏によって築かれたと伝えられています。
戦国時代には、大友氏•赤司氏•筑紫氏・秋月氏などの豪族により、戦略の拠点として争奪がくりかえされました。特に、大友氏は筑後進出に伴い立花(戸次 べっき)道雪などの重臣を城主や城代に任じ、統治させました。
慶長(けいちょう)6年(1601)、田中吉政が筑後領主となり、弟の左馬允清政を赤司城主にしました。清正は赤司八幡宮の社地に城を修築整備しました。元和(げんな)7年(1621)、有馬豊氏が久留未藩主になると一国一城の令により廃城となっていた赤司城の石垣を久留米城の修築のために使用しました。
現在では、わずかに堀のあとが当時の面影を偲ばせています。
2008年3月31日改訂 久留米市
現地案内板より
赤司(あかじ)の歴史(れきし)
赤司の歴史は古く、2500年前にはじまります。良積遺跡や定格遺跡から、その時代の遺物や遺構がみつかりました。2 0 0 0年前になると、多くの人々が赤司周辺に住みはじめます。良積遺跡がより大きな村となり、まわりに餅田遺跡や赤司一区公民館遺跡など新しい村ができはじめます。
9世紀後半、この地で筑後国司(ちくごのこくし)御酉(みとり)が暗殺されるという事件が起こったと伝わっています。その墓として、良積石が残っていますが、詳しいことはわかっていません。このころ、赤司の中心となる赤司八幡宮が創建されます。縁起によれば、最初に出てくる年号は924年ですが、神社のはじまりはもっと古いと考えられます。鎌倉時代(1192~1335)、赤司城が築かれます。このころから赤司の村は現在の形になりはじめます。完成するのは、田中左馬允が赤司城主になったときです。城は江戸時代になると取り壊され、現在は地名として名残を・・・・赤司の主な史跡
①良積遺跡・・・
②良積石・・・
③赤司八幡宮 元の名前を「豊比咩神社(とよひめじんじゃ)」といいます。延喜式に出てくる式内社の一つ。
④赤司城跡・・・
⑤田中左馬允清政の墓・・・
⑥定格遺跡・・・
⑦赤司一区公民館遺跡・・・現地案内板より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・天満宮・境内末社合祀殿
・境内末社合祀殿の中
〈少彦名神社、大三輪神社、池王神社、天満神社、祇園神社〉
・えびすさま像と猿田彦神〈西側入口〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
高良玉垂命名神と豐比咩(トヨヒメノ)神に封戸 並びに位田が充てられています
【抜粋意訳】
卷九 天安元年(八五七)冬十月丁卯〈三〉
○丁卯 在に筑後國に從三位 高良玉垂命名神 從五位下豐比咩(トヨヒメノ)神等 充封戸(フツフゴ)并位田を 又請ふ僧六十人を於冷然院に限て三ケ日を轉に讀 大般若經
【原文参照】
天安元年(857)5月に豊比咩神社の社殿を焼失した際 高良玉垂宮にも被害があった記録が記されています
【抜粋意訳】
卷十 天安二年(八五八)夏五月甲戌〈十四〉
○甲戌 雨終夜不止 先是より 高良玉垂神 及び 比咩神 等の正殿遇く失火 位記皆被に燒損 仍今日勘て舊文を案 更に令書之 玉垂〔但彦〕神 本位從三位 今授に正三位を 比咩神本位從五位下 今授に從四位下を 又同神殊に授くに封廿七戸を
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
豐比咩神が 官社に列したことが記されています
【抜粋意訳】
卷三 貞觀元年(八五九)秋七月七日庚申
○七日庚申 筑後國 從四位下 豐比咩神 列を於官社に
【原文参照】
高良玉垂命名神と豐比咩(トヨヒメノ)神に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷九 貞觀六年(八六四)七月廿七日〈辛亥〉
○廿七日辛亥 勅曰 去年七月(フミツキ)廿五日 頒下五畿并に伊賀 伊勢 志摩 遠江 相摸 上総等國に云 鎭護國家を消伏す災害を 尤も是れ敬ひ神祇を 欽むの祭禮を之所なり致す也 是を以て格制頻り下し 警告慇懃なり 今諸國の牧宰不愼制旨を 專任て神主禰宜祝等に 令神社を破損し 祭禮疎慢なら 神明由て其發し祟を 國家以て此を招く災を 今欲す令に諸社を一時に新たに加んと華餝し 而經月を踰て年を 未有に修造 宜早く加に修餝を勿る致す重怠を
進に筑後國 從二位 高良玉垂命の神階を加に正二位を 從四位下 豐比咩神に從四位上を 武藏國 從五位下 若雷神に從五位上 右京の人無位民の首(ヲフト)方永に賜姓を眞野臣と 天足彦國忍人命之後也
【原文参照】
高良玉垂命名神と豐比咩(トヨヒメノ)神に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷十六 貞觀十一年(八六九)三月廿二日庚辰
○廿二日庚辰 進に筑後國 正二位 高良玉垂命の神階を加に從一位を 授に從四位上 豐比神に正四位下 但馬國從五位上養神 石見國從五位上物部神並正五位下 豐後國无位西寒多神從五位下 令に下総國非違使を帶劔を把笏を
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・豊比咩神社 一座 巳上 筑後國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑後國 4座(大2座・小2座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)三井郡 3座(大2座・小1座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 豊比咩神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](とよひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Toyohime no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 筑後國 三井郡 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)の論社について
・豊姫神社〈天満宮境内〉(久留米市)
・豊比咩神社(久留米市北野町)
・赤司八幡宮(久留米市北野町)
・高良大社(久留米市)に合祀
〈昭和11年(1936)豊比咩神社は廃社 高良大社本殿に合祀〉
・新開宝満神社(高田町北新開)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
西鉄甘木線 大城駅から県道740号経由で北上 約850m 車5分程度
社頭は西を向いています
赤司八幡宮(久留米市北野町赤司)に参着
一の鳥居 二の鳥居 注連縄柱とくぐり抜けると境内で
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が一体となった社殿です
社殿に一礼をして参道を戻ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 豊比咩神社について 祭神・所在は不明と記しています
久留米志の説として三説を挙げています
一、今は廃絶している
一、御井郡上津荒木村有に小祠 乙姫社
一、御原郡塚島有に石蒙 豊比咩
【抜粋意訳】
豊比咩神社
豊は 登與と訓べし、比咩は假字なり、
〇祭神 明か也
〇在所詳ならず久留米志云、古昔天子數授に位 豊比咩神、或充に封戸、或更、書記等、文徳實錄、三代實錄所載皆謂に此神也、今廃に失其地、或云、御井郡上津荒木村有に小祠、稱に乙姫社、是其神、或又云、御原郡塚島有に石蒙、稱に豊比咩、即此、未知に是否、〔考証云、豊玉姫命乎、郡名 三井坐に與井同訓、蓋以に三神坐名地歟、此三坐前後海神陰神、而中日陽神也、此表に水中含陽生物云々例の論に足らず泥むべからず、〕
類社
豊前國 田河郡 豊比咩命神社神位
古文書、〔同前〕嘉祥三年十二月廿九日、奉授に從五位下、
文德實錄、天安二年五月甲戌、先是、高良玉垂神、及比咩神等正殿遇に失火、位記皆被に燒損、仍祐今日勘に舊文案更令書之、〔中略〕比咩神本位從五位下、今授に從四位下、
三代實錄、貞観六年七月廿七日辛亥、奉授に筑後國從四位下 豊比咩神從四位上、〔但 貞観正廿七にも見ゆ、今古文書に據る〕、同十一年三月廿二日庚辰、授に從四位上豊比咩神正四位下、古文書、〔同前〕寬平九年十二月三日、奉授に正四位上、官社
三代實錄、貞観元年七月七日庚申、筑後國從四位下 豊比咩神列に於官社、封戸 位田
文徳實錄、天安元年十月丁卯、在に筑後國 從五位下 豊比咩神、充に封戸並位田、同二年五月甲戌、同神殊授に封廿七戸、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 豊比咩神社について 高良の御手洗山にあり と記しています
この高良の御手洗山とは・高良大社(久留米市)に合祀〈昭和11年(1936)豊比咩神社は廃社 高良大社本殿に合祀〉のことです
【抜粋意訳】
豊比咩(トヨヒメノ)神社
今 高良の御手洗山にあり、〔筑後神社改正調べ〕 豊比咩命一名淀姫と申す、蓋 海神 豊玉姫神を祀る、〔肥前風土記、神名帳頭注、土人口碑、〕
文德天皇 嘉祥三年十二月壬す、蓋海神豊玉姫神を祀る、〔筑後國神名帳〕
天安元年十月丁卯、封戸位田を充奉り、〔文徳実録〕二年五月甲戌、從四位下を加へ、〔文徳実録、筑後國神名帳〕
清和天皇 貞観元年七月庚申、官社に預り、〔三代実録〕六年七月辛亥、從四位上を給ひ、〔〇按 三代實錄、本年正月甲申、既に此叙位を載る者、恐らくは桁也、今筑後國神名帳に據て之を削る、〕十一年三月庚辰、正四位下を授け、〔三代實錄、筑後國神名帳〕、
醍醐天皇 寬平九年十二月甲辰、正四位上に叙され、〔筑後國神名帳〕、
延喜の制、名神大社に列る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 豊比咩神社について 高良神社同域内 (三井郡御井町高良玉垂神社域内 )〈現 高良大社(久留米市)に合祀〈昭和11年(1936)豊比咩神社は廃社 高良大社本殿に合祀〉〉と記しています
【抜粋意訳】
豊比咩神社 名神大
祭神 豊比咩神
今按 社傳に海神の女豊玉姫命を祀るとあれと豊前國田川郡豊比咩神社 肥前國佐喜郡與止日女神社とみえ 肥前風土記に此川上在 石神名謂世田姫海神之長女也とあれと 必ずしも豊玉姫命と云へき證もあらねば式の神名によりて 豊比咩神」と記すそ正しかるへき故今社傳に從はす
神位
仁明天皇 嘉祥三年十二月廿九日奉授從五位下〔天慶七年解文〕
文德天皇 天安二年五月辛酉朔甲戌 雨終夜不止先是 高良玉垂神 及 比咩神等正殿遇失火位記皆被焼損仍今日勘舊文案更令書云々 比咩神本位從五位下 今授從五位上 貞観元年七月七日庚申 筑後國從四位下 豊比咩神列於官社 同六年七月廿七日辛亥奉授 筑後國從四位下 豊比咩神從四位上 同十一年三月廿二日庚辰 授從四位上 豊比咩神 正四位下 寬平九年十二月三日奉授正四位上〔寬平以下天慶七年解文〕祭神
社格(縣社)所在 高良神社同域内 (三井郡御井町高良玉垂神社域内 )
今按 神社明細帳本社遺跡や詳ならすされと鎭坐地は高良山中なりし事は天安二年玉垂命神社及び比咩神等の正殿火災ありて位記みな焼損すと古文書に見えたる如く 神社同く火災にかかり 又 今現存する神位記も」紙に記されたるにても知られ 長保五年の十講念縁起文に両宮権現九王子とある両宮そ卽 玉垂命と當社にはおはしける 又 足利家の判物に當社姫神とあるも同し御事にて其頃まては疑はしき事もなかりしものと見えたり さて此姫神 今何處に坐すそと云んに高良社の相殿にます 八幡宮其御正體なる事知へし 其八幡と云故は 中古以來 此神を八幡の御叔母とも御妹とも云説あるよりの事なる事疑なし 故に今假に山中の新清水の地を祓清めて祭奠を修むと云る如くなるへし
【原文参照】