銀山神社(対馬 樫根) - Shrine-heritager

銀山神社(対馬 樫根)

銀山神社(ぎんざんじんじゃ)の住所表記 かつて佐須郷 樫根村でした 『日本書紀』第40代 天武天皇 即位3年(674)の条には 対馬の国守から 銀が産出したとの報告 と 佐須銀山は 日本で最初に銀が発掘された地 記されています

目次 [非表示]

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

銀山神社(Ginzan Shrine)
(ぎんざんじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

長崎県対馬市厳原町大字樫根281-1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》諸黒神Mokuro no kami)

《合》地祇神Chigi no kami)
   諸黒神Mokuro no kami)

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋

鉱山の神  モロクロガミ

【日本神話】
鉱山の神は金山彦・金山姫ですが、イザナギの嘔吐物から誕生したと伝わるほか、ほとんど活躍は描かれません。

【対馬の伝承・異伝】
 対馬は 日本で最初に銀が発掘された地(日本書紀、674年)で、鉱脈の分布と関連しているのか、主に厳原町の西部に鉱山の神を祭る神社があり、樫根には古代鉱山の坑道が残っています。
モロクロガミ(諸黒神)は 対馬固有の神で、坑道の漆黒の闇を意味する、あるいは矢立山の別称・室黒岳に由来するとされています。「異国からやってきた神」という伝承もあり、朝鮮半島系の鉱山の技術者が安全祈願のために祭ったか、あるいは坑道の闇で誕生した神なのかもしれません。
奈良時代から平安時代にかけて 対馬で産出する銀は 大宰府に納められましたが、地下を掘り進んで鉱石を採掘する作業は、落盤や出水、酸欠など常に危険と隣りあわせで、落盤事故なども記録されています。江戸時代には 対馬藩により銀山の開発が行われ、朝鮮貿易の代価として藩の財政を支えました。

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋1
〈一般社団法人 対馬観光物産協会 2017/3出版〉
https://www.tsushima-net.org/wp-content/uploads/2020/08/tsushima_shrine_guidebook.pdf

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

・不詳

【由  (History)】

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋

ぎんざんじんじゃ
銀山神社

神社のプロフィール
式内社「銀山上神社」「銀山神社」の論社です。鎌倉時代の元寇において、元軍の目的は銀鉱山だったとも言われており、佐須地区は大きな被害を受けます。境内に宗家初代・宗 助国(P32)の太刀塚があります。

周辺の雰囲気・環境など
厳原町樫根は、佐須川流域に位置する集落で、古代の坑道が残されています。近くには国指定史跡の矢立山古墳群(7世紀後半)があり、鉱山との関係が指摘されています。集落奥の法清寺には、千手観音像や木像仏が安置され、この地が古い時代から栄えていたことを感じさせます。

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋2
〈一般社団法人 対馬観光物産協会 2017/3出版〉
https://www.tsushima-net.org/wp-content/uploads/2020/08/tsushima_shrine_guidebook.pdf

【境内社 (Other deities within the precincts)】

・金比羅神社〈本殿向かって左脇に鎮座〉

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・宋助国(資国)公の太刀塚

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元寇 文永の役 文永11(1274)年10月5日申刻(午後4時頃)で 対馬 守護代の宋助国(ソウスケクニ)公の戦いにより 大宰府に蒙古襲来が伝達されます これにより鎌倉幕府が元の到来を知り始動します

元寇の古戦場(佐須浦)
文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)と2度にわたる蒙古襲来(元寇)で対馬・壱岐は、酸鼻を極める惨状を呈していたといわれている。
文永11年10月5日、蒙古元帥忽敦(こつとん)は兵3万、軍船900艘で対馬の西海岸一帯を侵略した。各地で激しい戦いがあり、宗家の一族がそれぞれの任地で討死している。
守護代 宗助国(そうすけくに)は、自ら親兵80余騎を従えて、府中(厳原)から佐須に討って出、この地、小茂田の海岸に近い「ひじきだん」に陣を備えたという。
700年前の佐須浦は 現在の地形と異なり、川筋に沿ってかなり浦深い入江であった。従って、戦場は今の金田小学校付近と想定されるが、諸説ある。
10月6日寅の刻(午前4時頃)戦いは始まり、助国らは奮戦したが、辰の下刻(午前9時頃)乱軍の中に武将たちは戦没した。
宗助国の墓と伝えられる「お首塚」が下原(しもばる)に、「お胴塚」が樫根にあり、一軍の首将の墓がバラバラであるのも、その最期の壮絶さを物語っている。助国はこの時、68歳の老将であった。・・・・・・
小茂田浜神社の境内案内板より

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

当神社「銀山神社(対馬 樫根)」は 複数(2つ)の式内社の論社とされています


[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)県郡 13座(大4座・小9座)

[名神大 大 小] 式内

[旧 神社 名称 ] 銀山神社
[ふ り が な ]かなやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kanayama no kamino yashiro)


[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)県郡 13座(大4座・小9座)

[名神大 大 小] 式内

[旧 神社 名称 ] 銀山上神社
[ふ り が な ]しろかねこかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Shirokanekokamino kaminoyashiro)

【原文参照】

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の
「對馬嶋 下縣郡 銀山上神社
「對馬嶋 下縣郡 銀山神社(貞)の2つの論社について

この2つの式内社は 「銀山神」として 混同されていて
現在は 論社が2社あり 2社がともに ①式内社・銀山上神社 と②式内社・銀山神社(貞)の論社とされていて比定が出来ていません

・銀山上神社(対馬 久根田舎)

・銀山神社(対馬 樫根)

第11代 垂仁天皇の皇后 狭穂姫(サホヒメ)の伝承〈矢立山古墳

対馬の異伝として 矢立山は 第11代 垂仁天皇の皇后「狭穂姫(サホヒメ)」が隠れたまわれた所なので 元矢立 あるいは 矢干山の元山 と称すると伝承が残ります
場所は 対馬市立金田小学校のすぐ側

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矢立山古墳(ヤタテヤマコフン)狭穂姫(サホヒメ)の伝承について

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矢立山古墳(ヤタテヤマコフン)の特徴として 九州では類を見ない 中央官人(カンジン)の最新墓制だった方形段築墳の採用や・・副葬品(フクソウヒン)から 中央政権との深い歴史的関係が窺(ウカガ)える終末古墳群である と記されていて 第11代 垂仁天皇の皇后「狭穂姫(サホヒメ)」が隠れたまわれた所と云う 対馬の伝承と一致していることに非常に興味が湧きます

史跡 矢立山古墳群(やたてやまこふんぐん)
国指定 昭和51年12月27日
平成17年7月14日(一部解除及び追加並びに名称の変更)

ここから約38m(比高)登った大隈山(おおぐまやま)中腹の地蔵壇(じぞうだん)と呼ばれる広い平坦地にある。
東西に山の支脈が延び、眼下の佐須川(さすがわ)を挟んだ南に金田山(かんだやま)が聳(そび)える立地選定には、いわゆる「蔵風得水(ぞうふうとくすい)の地」と呼ばれる風水思想が深く関わっていると考えられる。
昭和23(1948)年の東亜考古学会による学術調査以降、一、二号墳は円墳とされてきたが、平成12(2000)年に始まった厳原町と福岡大学による調査で、九州では類のない積石方形段築墳(つみいしほうけいだんちくふん)であることが明らかになった。
また北に見つかった三号墳が横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を内部主体とする積石塚(つみいしづか)長方形墳であることも分かった。二号墳の石室は平面がT字形をなす全国的にも珍しい古墳である。
中央官人(かんじん)の最新墓制だった方形段築墳の採用や、金銅装太刀(こんどうそうたち)、銅鋺(どうわん)といった政権(せいけん)からの下賜品(かしひん)とみられる副葬品(ふくそうひん)の存在から、7世紀代の東アジア情勢を背景とした大和(やまと)政権との深い歴史的関係が窺(うかが)える終末期古墳群である。  対馬市教育委員会

現地案内板より

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矢立山古墳群保存整備事業報告書 2015 対馬市教育委員会 より抜粋
(史跡等・登録記念物・歴史の道保存整備事業)

序文
・・・・
それまで「狭穂姫」か眠る幕として言い伝えられていた神妙な塚が 初めて「古墳」として考古学な評価を得たのです・・・・

 

第1節 地理的環境
矢立山古墳群は対馬の南部西岸にある。行政上は対馬市厳原町下原字矢立5番ほかに所在する。・・・・・・・・・・・・・・・

第2説 歴史的環境
・・・・・・・・・
小茂田(佐須浦)は元寇上陸の地として有名である。また佐須は『日本書紀』天武天皇3年(674)3月条にみえる銀山の比定地で、樫根には式内社の銀山神社ずある。銀山については『三代実録』貞観7年(855)、『續日本紀』大宝元年(701) 3月21日条、『対馬国貢銀記』に関係の記述がある。・・・・・・

第3節 矢立山古墳群

第1項 研究史
・・・・
これを参照したものでであろうか.昭和3(1928)年7月刊行の『對馬島誌』にも第1編及び第2編で「矢干山の岩屋」と称して.触れらている。
佐須村に伝えられるところによると.「矢干山の岩屋」は「佐須村下原の小茂田境の路の上に」あって、「元矢立」と言い.狭穂姫という人物が隠棲していたところだという。一方で考古学者によれぱ古墳か発掘された跡だとされている、とも記している。
すると東亜考古学会が調査する20年ほど前には既に古墳という知見が共有されていたことになる。同時に「東方十数間を隔て殆ど同形の小丘あり未だ発掘せられざるが是亦古墳ならん」とあることから.2号墳の存在も知られていたことが分かる。第2編には1号墳について、「入口の広さ四尺高さ四五尺入口より奥まで丸尺石を積て壁となし大なる平石二枚を以って屋根となす」と、規模や形状についても詳しく言及されでいる。なお、記述から当時.矢立山は「干」の時を使っていたことも読み取れる。
参考までに『増訂 對馬島誌』「第二編」から該当箇所を引用する。

 矢立山の岩屋{やたてやまと読む}下原の小茂出境近く道路の直ぐ上に在り。元矢干と云ふ。山腹の畑中に小丘二あり西方の丘の側面に南向きにて入口の廣さ四尺高さ四五尺入口より奥まで九尺石を積みて壁となし大なる平石二枚を以て屋恨となす。

傳へ云昔 垂仁天皇の皇后、狭穂姫、兄狭穂彦の反に輿かり遁れて 此地に来り隠れ玉ひし處なり、後 久根なる矢干山に入り給ひしを以て 此處を元矢立 又は 矢干の元山と云ふと。

 附言 按に古墳なるべし。地形より考ふるに南方下の土を掘取り石鄙のー方露はれたるを以て 其の一方を除きて槨内の物を取去りしに非ずや考古學者の説概ね然り。
然れども 此處を 矢干の元山と称へ 古来霊山と称する矢干山に関係ある傅説は、必らず由て来る所非ざる可からず後考を待つ。

 又云 十数間を隔てたる束方の小丘にも石室あり前者より やや挾し之を是を発掘せば研究資料を得んか。
・・・・・

矢立山古墳群保存整備事業報告書 2015 対馬市教育委員会 より抜粋
(史跡等・登録記念物・歴史の道保存整備事業)
file:///C:/Users/USER/Downloads/65044_1_%E7%9F%A2%E7%AB%8B%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4%E4%BF%9D%E5%AD%98%E6%95%B4%E5%82%99%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

厳原フェリー港から 西へ県道44号経由 約11km 車16分程度
小茂田浜から 県道44号を進み 金田小学校を過ぎて 佐須川を渡ってすぐに「銀山神社(Ginzan Shrine)」の案内板が設置されています

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銀山神社(Ginzan Shrine)に参着
コンクリート製の真っ直ぐな参道に4連の鳥居が建っています
参道横には 整地された広場があります
一礼をして鳥居をくぐります

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木製の鳥居には 手書きで 石の鳥居には扁額に 各々「銀山神社」と記されています
参道は 最後の石の鳥居の先で 緩やかに右にカーブしながら 社へと通じています

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最後の石の鳥居に再度 一礼をして 神域に踏み入れます

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すぐ右手には
・宋助国(資国)公の太刀塚
元寇 文永の役 文永11(1274)年10月5日 元の大軍を 少数で迎え撃ち 対馬を守る戦に臨み 戦死された公の太刀が鎮まります

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何故か 阿吽の 阿の狛犬が 異様に明るいと感じてしまう

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拝殿にすすみます 

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拝殿内の扁額には「銀山神社」と金文字が刻まれています
その他の絵馬には 「赤穂浪士の松の廊下」や「僧侶 遍照」「紀貫之」の名と伴に和歌が記されているので 三十六歌仙サンジュウロッカセンだと思うのですが 何故掲げられているのかは不明です

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の横には 木製の鳥居が建ち境内社「金比羅神社」と記されています
鳥居をくぐると 境内社が本殿の横に並んで鎮座しています

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拝殿 幣殿 本殿と連なり 立派な社殿となっています

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境内社にてお詣りをしていると 急に風が吹いてきました
普段は本殿の傍では 動画は撮りませんが 少しだけ

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(Nihon Shoki)』養老4年(720)編纂に記される伝承

佐須の銀山は 古い歴史があり 第40代 天武天皇 即位3年(674)3月7日の条に 対馬の国守から 銀が産出したとの報告を受けたことが記されています

【意訳】

天武天皇 即位3年(674)37の条

対馬国司守(ツシマノクニノミコトモチノカミ)の忍海造大国(オシヌミノミヤツコオオクニ)が言いました
「この国〈対馬国〉で 初めて銀が出ましたので すぐ献上奉ります」
これによって大国に 小錦下位(ショウキン シモノクライ)を授けられました銀が 倭国に産出したのは このときが初めてです
それで 諸々の神祇〈すべての神々〉に奉りました
また 小錦(ショウキン)以上の大夫(マエツキミ)たちに同じように賜わられました

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省

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『続日本後紀(shoku nihon koki)』貞観11年(869)に記される伝承

対馬嶋の神々が 官社となったことを伝え
銀山神(カナヤマノカミ)と記されています

【意訳】

承和7年(840)11月 庚辰(8日)

對馬嶋(ツシマノシマ)の
和多都美御子神(ワタツミノミコノカミ)
波良波神(ハラハノカミ)
都都知神(ツツチノカミ)
銀山神(カナヤマノカミ)を 

並びに (カンシャ)に (アズ)く

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省

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『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承

大宰府(ダザイフ)が 銀鉱山の坑道維持についての苦労と費用について言上を記しています

【意訳】

貞観七年(865)八月十五日

大宰府言上す
対馬嶋の銀穴 下縣郡(シモツアガタノコオリ)に在り
高山の底より 厳(イワオ)を穿鑿(センサク)し〈穴をうがち掘り〉40丈ばかり掘り入る
白昼 炬〈かがり火〉を執り それにより 入ることを得る
年来 処々崩れ塞がり しばしば 人功を費す〈修繕を要す〉
去る夏の霖雨により 穴底に水溜り 其の功力を計るに たやすく穿開〈穴開け〉すること堪ふるべくもあらず
望請

延暦15年(796)の例を以て 彼の島の例挙す 大豆の遣〈残り〉百斛 併せ租地子穀百斛 それを以て其科に宛て 掘開せしめられんことを 詔して これを許さる

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫

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對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに 神階の昇叙が記されています
銀山神(カナヤマノカミ)と記されます

【意訳】

貞観12年(870)3月5日 丁巳の条

詔(ミコトノリ)を授(サズ)くに

對馬嶋(ツシマノシマ)の

正5位上 多久都神(タクツノカミ)に 従4位下

従5位上
和多都美神(ワタツミノカミ)
胡簶神(コロクノカミ)
御子神(ミコノカミ)
嶋大國魂上(シマオオクニタマノカミ)
高御魂神(タカミタマノカミ)
住吉神(スミヨシノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
太祝詞上(フトノリトノカミ)
平神(タイラノカミ)
並びに 正5位下

大吉刀神(オオヨシカタナノカミ)
天諸羽神(アマノモロハノカミ)
天多久都麻神(アマノタクツマノカミ)
宇努神(ウノノカミ)
吉刀神(キトノカミ)
小枚宿祢神(ヲヒラノスクネノカミ)
行相神(ユキアイノカミ)
奈蘇上金子神(ナソカミカネコノカミ)
嶋御子神(シマミコノカミ)
国本神(クニモトノカミ)
銀山神(カナヤマノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
敷嶋神(シキシマノカミ)
並びに 従5位上

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫

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『本草和名(Honzowamyo)』 延喜年間(918年)編纂 に記された伝承

対馬産の銀について 白銀(シロガネ) 和名は 志呂加祢(シロカネ)と 記されています

【意訳】

銀屑

一名を
白銀(シロガネ) 陶景注云う 銀名は 白銀
黄銀(コガネ) 蘇敬注云う 又 黄銀 本草に不載
銀屑(ギンセツ)者 月の精なり 和名 志呂加祢(シロカネ) 出 對馬国

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『本草和名』延喜年間(918年)編纂 選者:深江輔仁 刊本 ,寛政08年 , 聿修堂[旧蔵者]医学館

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

官社となったこと 対馬産の銀について 記されています

【意訳】

銀山上(シロカネカミノ)神社

神位 承和7年(840)11月 8日の条・官社(カンシャ)に預(アズ)く

日本書紀 天武天皇即位3年3月7日の条に対馬の国守から銀が産出との報告

本草和名 銀屑一名 白銀云々 志呂加祢(シロカネ) 出 対馬国

医心方 白銀云々 出 対馬 長門 飛騨国

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【意訳】

銀山(カナヤマノ)神社

神位 承和7年(840)11月 8日の条・官社(カンシャ)に預(アズ)く

〇上に 銀山上(シロカネカミノ)神社あり

〇佐須郷に在す

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承

式内社・銀山上神社は 久根村 矢立山麓に在す とあり 祭神を狭穂姫(サホヒメ)としています
矢立山の 狭穂姫(サホヒメ)の旧伝承として
狭穂姫(サホヒメ)は 対馬に落ち延びて この山におられたが 狩人が誤って 皇后を射抜いてしまった

矢立山には 神女〈狭穂姫(サホヒメ)〉が棲み 見たものは 狂人となって すぐに死ぬので 山頂には 人は登らない 狩りの犬でさえ怯えて 帰って来る それ程の霊山であり 第一の山であると 記しています

【意訳】

銀山上神社

銀山上は 之路加禰夜麻乃宇部(シロカネヤマノウヘ)と訓ずべし 
和名鈔 金 銀 類 仮字の如し
〇祭神 垂仁天皇 皇后 狭穂姫 古蹟集
〇佐須郷 久根村 矢立山麓に在す 又 大調神社と号す 今 五所明神と称す 古蹟集

〇当郡 銀山神社
古蹟集に
矢立山 又の名を 室黒岳 これ神女が棲む 州俗に女房神と云う 人 その神女を見る時 忽(タチマチ)狂者(キョウシャ)〈気の狂った人〉となる 不日(フジツ)〈日数をあまりへずに すぐに〉して死す 故に 山頂に登らず
麇(ノロ)鹿(シカ)を獲るに 狗(イヌ)敢(ア)えて 嶺上に入らず 霊場に至れば 耳を垂れ 尾を痩(ソウ)して 皈(カエシ)来る 云々

旧伝承に云う 女神の名は 狭穂姫(サホヒメ) 垂仁帝〈第11代 垂仁天皇〉の后なり 兄の狭穂彦(サホヒコ)謀反(ムホン)にて 稲城に籠る 城落ちて 兄弟逃げて津島に隠れる
佐須に居て 後に この山に移る 狩人(カリュウド)誤りて 后を射る
故に 妻隠しと云う 下縣中の高山 神氣の鐘(カネ)る

この処を第一とすと云えり

【原文参照】『神社覈録』1

式内社・銀山神社は 樫根村と記しています

【意訳】

銀山神社

銀山は 前に同じ

〇祭神 金山彦命 考証
〇佐須郷樫根村に在す 今 六所明神と称す 玉勝間
〇日本紀 天武天皇即位3年3月7日の条に対馬の国守から銀が産出との報告

神位 官社
續日本紀 承和7年(840)11月 8日の条・官社(カンシャ)に預(アズ)く

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』2 『神社覈録』3

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』明治9年(1876)に記される内容

式内社・銀山上神社は 久根田舎村
式内社・銀山神社は 樫根村 に所在と記しています

【意訳】

銀山上神社

祭神 金山彦命
祭日 4月15日
社格 村社
所在 久根田舎村 字 御所山

【原文参照】『特選神名牒』1

【意訳】

銀山神社

神位
仁明天皇 承和7年(840)11月 8日の条・官社(カンシャ)に預(アズ)く
清和天皇 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・従5位上

祭神 金山彦命
祭日 6月1日
社格 村社
所在 樫根村 字 大平段

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』2

銀山神社(Ginzan Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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