福長神社(ふくながじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 宮中神 神祇官西院坐 座摩巫祭神(イカスリノミカンナキノマツルカミ)5座大の内2座の合殿 元々は 一条猪熊の神祇官西院に祀られていましたが 豊臣秀吉公の聚楽第の造営の時より 2座合殿となり 現在の地に遷されたと伝わります 天明の大火(1788年)で焼失の後 現在は小祠となっていますが 宮中の井水を守る大変に由緒ある神社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
福長神社(Fukunaga Shrine)
(ふくながじんじゃ)
[通称名(Common name)]
福長稲荷(ふくながいなり)
【鎮座地 (Location) 】
京都市上京区室町通武者小路下ル福長町538
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》福井神(Sakui no kami)
綱長井神(Tsunagai no kami)
《合》稲荷神(Inari no kami)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・我国唯一無二の水神なり
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社 大社
【創 建 (Beginning of history)】
平安京大内裏内の神祇官西院に祀られていた宮中神の坐摩巫祭神5座(・生井神・福井神・綱長井神・波比伎神・阿須波神)のうちの2座
【由 緒 (History)】
福長(ふくなが)神社
本社は福井神(さくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)、稲荷神を祭神として祀る。社名は、福井、綱長井の二神を合祀することによるが、稲荷神も合祀することから「福長稲荷(あくながいなり)」とも呼ばれた。福井神と綱長井神は、平安京大内裏内の神祇官西院(じんぎかんさいいん)(現在の大宮竹屋町辺り)に祀られていた延喜式内社(えんぎはきないしゃ)、宮中神(きゅうちゅうのかみ)の座摩巫祭神(いかすりのみかんなぎのまつるかみ)五座(生井神(いくいのかみ)、福井神(ふくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)、波比祇神(はひきのかみ)、阿須波神(あすはのかみ))のうちの二座である。
現在の地に遷された経緯については、社伝によると天正(てんしょう)年間、豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)造営、あるいは廃城の際と伝えられるが、天正2年(1574)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられる洛中外図屏風(狩野永徳筆)には、すでに現在地に福長神社が描かれている。
天明(てんめい)の大火(1788)で焼失した後は小さな祠となったが、明治時代以降も「水の神」(屋敷内の井戸や泉の神)として地元の人々から篤く信仰されている。
京都市現地案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「御巫条・座摩巫条」の条
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『御巫条・座摩巫条』の条には 「御巫等」〈神祇官の神殿で天皇あるいは朝廷守護に直接関わるような神々を祭る女性神職〉は
座摩巫(イカスリノミカンナギ)呼ばれる御巫にのみ「都下の国造の氏の童女の七歳以上の者を取りて充てよ」という任用規定が記されています
しかしながら他の御巫には 童女でなければならないという規定は記されていません
【原文参照】
「御巫等の遷り替わるときに神に供ふ装束について」の記載
10世紀に記された『延喜式』には 御巫等が祭る神々は 神殿の設備があったこと 神々には 男神女神の神衣が用意されていたとされ このことから人格神的に祭られていたのではないかともされます
一方で 御巫等が祭る神々の神座には 鏡や剣や玉といった神体を象ったものではなく 古い祭祀の形態を司っていたとされます
【意訳】
御巫等の遷り替わるときに神に供ふ装束
神殿各一宇(長さ一1丈7尺、広さ1丈2尺5寸)
男神の衣4領 被4領の領に緋吊8疋 汗杉4領・袴4腰の料に吊2疋
女神の衣4領・裾4腰の料に紫吊5疋2丈 裾の腰の料に緑の吊2丈 汗杉4領の料に吊1疋2丈・綿54屯(中略)右、御巫の遷り替る毎に神殿以下を改め換えよ
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
福長神社は 宮中神 座摩巫祭神5座の内 2座の合殿となっています
①福井神
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)宮中 36座…大(預月次新嘗)30・小6)
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)神祇官西院坐 御巫等祭神 23座(並大)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)御巫祭神 8座(並大 月次新嘗・中宮東宮御巫亦同)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 福井神
[ふ り が な ](さくい の かみ)
[Old Shrine name](Sakui no kami)
➁綱長井神
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)宮中 36座…大(預月次新嘗)30・小6)
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)神祇官西院坐 御巫等祭神 23座(並大)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)御巫祭神 8座(並大 月次新嘗・中宮東宮御巫亦同)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 綱長井神
[ふ り が な ](つなかい の かみ)
[Old Shrine name](Tsunakai no kami)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
座摩巫祭神(イカスリノミカンナキノマツルカミ)5座大が 祀られていた神祇官西院について
神祇官西院は 平安時代の宮中(平安京大内裏)の東南に位置していました
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の官社(式内社)の筆頭として
宮中神の「神祇官西院坐 御巫等祭神23座」が次の順に挙げられています
・御巫祭神 8座(並大月次新嘗・中宮東宮御巫亦同)
・座摩巫祭神 5座(並大月次新嘗)
・御門巫祭神 8座(並大月次新嘗)
・生島巫祭神 2座(並大月次新嘗)
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
神祇官西院について
平安時代の宮中(平安京大内裏)にあった神祇官西院は
「御巫(みかんなぎ)」と呼ばれた女性神職〈大御巫2人(のち3人)・座摩巫1人・御門巫1人・生島巫1人〉により重要な神々が奉斎されていました
最重要視されたのが 大御巫8神を祀る八神殿で 東向きで祀られていて
他の座摩巫5神・御門巫8神・生島巫2神は 北庁内に南向きで祀られたとされます
(写真Wikipediaより)
座摩神(イカスリノカミ)5座は この座摩巫(イカスリノミカンナギ)によって祀られた神々とされます
生井神・福井神・綱長井神は井戸の神々で 井泉をもって宮殿の象徴とされていたようです
『大内裏図考証』〈寛政9年(1797)完成〉には 井舎図が描かれています
国立公文書館デジタルアーカイブ
寛政9年(1797)完成『大内裏図考証』著者:裏松光世 数量 65冊 写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000009983&ID=M2019051016401159643&TYPE=&NO=
宮中に鎮座する 36座『延喜式神名帳』の所載一覧
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
今出川駅から烏丸通を南下して180m 徒歩2分程度
京都御所の西 室町通りを今出川から南下すると 道の東側に鎮座します
住宅に挟まれた小さな境内地に 立派な石垣と門かぶりの松のように松があり 木製の白木の鳥居 福長神社と染められた幟旗が風にたなびいています
福長神社(Fukunaga Shrine)に参着
一礼をして 白木の鳥居をくぐり抜けるとすぐ先に 拝殿が建っています
境内は狭いですが 砂利が敷かれ 参道には石畳みが敷かれ とても綺麗に清掃されていて気持ちが良く 境内の入口直ぐに左手には手水舎もあります
井戸の神様なので 手押しのポンプの井戸が残っていて安らぎます
拝殿にすすみます 瓦屋根の拝殿があり 奉斎会によって 御神札とご朱印を授与して頂けます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の金網越しに ご本殿を仰げます
参道を戻り 鳥居を抜けて 振り返り一礼をします
境内の前 直ぐ左手の お地蔵様にも お詣りをします
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)〉に記される伝承
天平9年(737)は 疫病〈天然痘〉の大流行が起こり 藤原4兄弟など政府高官の多くが病死するという惨事に見舞われた年で 多くの人々が亡くなり 国家有験の神に幣帛を捧げていて 坐摩御巫も記されています
【意訳】
天平9年(737)8月13日(甲寅)の条
詔(みことのり)曰く 朕君臨宇内稍歴多年 而風化尚擁 黎庶未安 通旦忘寐 憂労在茲 又自春已来災気遽発 天下百姓死亡実多 百官人等闕卒不少 良由朕之不徳致此災殃 仰天慚惶 不敢寧所 故可優復百姓使得存済 免天下今年租賦及百姓宿負公私稲 公稲限八年以前 私稲七年以前
其在諸国能起風雨為 国家有験神 未預幣帛者 悉入供幣之例 給大宮主御巫 坐摩御巫 生島御巫 及 諸神祝部等爵〈天皇は その詔で「天下百姓 死亡実多く 百官人等、 闕卒(欠勤)不少である」と 農民の死亡数と役人の闘病による欠勤者の多さを嘆き「免天下今年租賦及百姓宿負公私稲、公稲限八年以前、私稲七年以前」と この年の租税や農民の公・私稲(すいこ)〈収穫期に借りた種もみ分に利子米を付け納める〉ことを免除して 民間の活力の回復を促す政策に転じる内容〉を載せ 国家有験の神に幣帛を捧げていて 坐摩御巫も記されています
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』〈延喜元年(901年)成立〉に記される伝承
日本全国の諸神267社に神位の進階と新叙を載せていて 宮中の神祇官西院坐御巫等祭神の5座とともに 福井神 綱長井神として 無位から従4位上へと奉り授く と記されています
【意訳】
貞観元年(859)正月27日甲申の条
京畿七道の諸神に進階 及 新叙する 惣267社 奉り授くに
淡路国 無品勲八等 伊佐奈岐命一品
備中国 三品 吉備都彦命二品
神祇官 無位 神産日神 高御産日神 玉積産日神 生産日神 足産日神
並びに従1位
無位 生井神 福井神 綱長井神 波比祇神 阿須波神 櫛石窓神 豊石窓神 生島神 足島神 並びに従4位上
宮内省 従三位 園神 韓神 並びに正3位大膳職 正四位下 御食津神 従3位
左京職 従5位上 太祝詞神 久慈真智神 並びに正5位下
大膳職 従5位下 火雷神
大炊寮 従5位下 大八島竈神八前 斎火武主比命神
内膳司 従5位下 庭火皇神
造酒司 従5位下 大戸自神等 並びに従5位上 無位 酒殿神 従5位下
・・・・云々
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
福長神社(Fukunaga Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)