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長柄神社跡(八尾市)
長柄神社跡(ながらじんじゃ あと)は 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に『河内国若江郡 長柄神社(鍬)』とある祈年祭に鍬一口を加えられた由緒ある式内社ですが 明治40年(1907)10月神社統合令で「矢作神社(八尾市)」に合祀されました
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都夫久美神社(八尾市)
都夫久美神社(つぶくみじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に 河内国高安郡 都夫久美神社とある式内社ですが 明治40年(1907)12月 神社統合で 玉祖神社(八尾市)に合祀されました その後 昭和49年(1974)10月 65年ぶりに社殿を新築して 元の鎮座地に復興しました
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御祖神社跡(八尾市)
御祖神社跡(みおやじんじゃ あと)は 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に『河内国高安郡 御祖神社』とある式内社ですが 明治41年2月「玉祖神社(八尾市)」に合祀されました 現地(旧鎮座地)には昭和13年5月に建立された「式内御祖神社跡」という碑が残されています
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玉祖神社(八尾市神立)
玉祖神社(たまのおやじんじゃ)は 和銅3年(710)周防国一之宮「玉祖神社」から分霊を勧請したもので 御祭神は櫛明玉命です 通称「高安明神」とも呼ばれていて 高安11ヶ村の氏神です 鎮座地は 生駒・信貴連山の中腹の高台にあり 社頭にある「大楠」から一望する 河内平野は絶景です
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加茂神社跡(八尾市)
加茂神社跡(かもじんじゃあと)は 『延喜式神名帳』に『河内国 高安郡 鴨神社』とある式内社ですが 明治40年(1907)「玉祖神社(八尾市)」に合祀されました その後 大正12年 大竹地区の氏子が 旧社地に小祠を建て 御分神を奉祀して 現在にいたっています
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伊古奈比咩命神社〈白浜神社〉(下田市白浜)
伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)は 三嶋大社の元宮とされ 神社の縁起に「この神 三宅島よりここに遷り 後更に 三島に遷座す」とあります 鎮座地 白浜海岸にある丘陵「火達山(ひたちやま)」は 古代から 伊豆半島から伊豆諸島に向けて神に祈り祀る祭祀遺跡で 祭神は伊豆諸島の開拓神「御島神=三嶋神」と その后神「伊古奈比咩命」が祀られます
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左内神社(三島市中島)〈『延喜式』文梨神社・阿米都瀬氣多知命神社〉
左内神社(さないじんじゃ)は 三嶋大社の御門の守護神として 右内神社とともに下田街道の左右に祀られていました その旧鎮座地は゛手無゛と云い 手無にある「手無地蔵」は「式内社・文梨神社」の旧社地とも伝わり 更に通称名は「天地宮(あめつちみや)」と呼ばれ「式内社・阿米都瀬氣多知命神社」の論社との説もあります
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右内神社(三島市梅名)〈『延喜式』伊波氐別命神社・阿米都瀬氣多知命神社〉
右内神社(うないじんじゃ)は 下田街道の左右に「左内神社」とともに 三嶋大社の御門守護神として 鎮座していたと伝わります 源頼朝公が伊豆に配流されていた頃 源氏再興を願い三嶋大社への参拝途上で 度々参詣したといわれています 『延喜式』伊波氐別命神社・阿米都瀬氣多知命神社の二つの式内社の論社となっています
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浅間神社(伊豆国二之宮)
浅間神社(せんげんじんじゃ)は 伊豆国二之宮とされています 古くは三嶋大社の摂社「八所別宮」でした 富士講が賑わいを見せた当時は 富士登山をする三島・伊豆方面の者は 必ず立ち寄り 安全を祈願して出発した と伝えられています 同じ境内敷地内に祀られる「芝岡神社」は 世古本陣から遷座されました
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廣瀬神社(伊豆国四之宮)〈楽寿園 内〉
廣瀬神社(楽寿園内)(ひろせじんじゃ)(らくじゅえんない)は 三嶋大社が 現在地(三島にあったとされる伊豆国の国府の傍)に遷座した時に 伊豆国府から国守が 廣瀨瀬神社を遥拝するために設けた遥拝所との説もあります 三嶋大社の元摂社で「伊豆国四之宮」とされています 一時は 隣接地の浅間神社(伊豆国二之宮)境内に遷座しましたが 昭和27年(1952)に楽寿園が公営公園となった際に園内に再建されました
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楊原神社〈伊豆国三之宮〉(三島市北田町)〈『延喜式』名神大社 楊原神社〉
楊原神社(やなぎはらじんじゃ)は 伊豆国三之宮とされる名社 かつて伊豆国の国府があった場所の付近に鎮座します この地から 沼津に鎮座する楊原神社を国司が遥拝する為の遥拝所とした説や 国境が変わったので遷座したのであろうとの説もある 『延喜式』伊豆國 田方郡 楊原神社(名神大)(やなきはらの かみのやしろ)の論社です
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日子坐命御陵墓(伊波乃西神社 旧鎮座地)
日子坐命御陵墓(ひこいますのみことごりょうぼ)は 第9代「開化天皇」の第三皇子「日子坐王(hikoimasu no kimi)」の王陵として 宮内省より 明治8年(1875)に「日子坐王陵」と認定されました その為 この地に鎮座していた「伊波乃西神社」は 現在の鎮座地である 清水山の麓に遷宮しました この地は 伊波乃西神社の旧鎮座地となります
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深江神社(壱岐市芦辺町深江栄触)
深江神社(ふかえじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に所載される 壱岐島24座の一座「與(与)神社(yo no kamino yashiro)」の論社とされています 社前には 弥生時代(紀元前10世紀頃~紀元後3世紀中頃)からの「深江田原(fukae tabaru)」と呼ばれる田園が広がっています かつて ここは大きな湿地帯(沼湖)であって ここから壱岐の王宮へ渡る処にある宮という意味から 「渡の宮(とのみや)」と呼ばれていたと伝わります
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葛城一言主神社(御所市大字森脇)
葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)は 「葛城之一言主大神」を祀ります 境内には 推定樹齢1,200年の大イチョウがあり 古社であることが見事にわかります 里人は どの様な願い事でも 一言の願いならば叶う「一言さん(いちごんさん)」と信仰し続けています 『記紀神話』の伝承によれぱ 一言主神は 第21代雄略天皇の条に 雄略天皇と葛城山で狩りを競われた神として記され 大和朝廷の中心で大王家と対等ともされた最大の古代豪族「葛城氏」が 一極集中に向かう大王家(雄略天皇)との対立構図のように描かれているとも窺えます 『続日本紀』天平宝字8年( 764年)条では 雄略天皇と狩りを競った「高鴨神」が土佐国に流されていたが 天平宝字8年に元の地に祀ったとあります
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鳴無神社(須崎市浦ノ内)
鳴無神社(おとなし じんじゃ)は 土佐神社(土佐国一之宮)の元宮とされています 伝説によれば 土佐に流されて浦ノ内湾に漂着した「一言主命」を奉斎したのが鳴無神社の始りです ここから祀り変える地を選ぶために「一言主命」が投げた大石が 落ちた所が 土佐神社境内の礫石と伝わります
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住吉 大鳥 両大社 宿院頓宮 (住吉大社・大鳥大社 両大社の御旅所)
住吉 大鳥 両大社宿院頓宮(sumiyoshi ohotori ryotaisha shukuintongu)は 摂津国一之宮「住吉大社」と和泉国一之宮「大鳥神社」の両大社(両社ともに 一之宮)の御旅所とされています 1つの社殿に・住吉大社に所縁のある「波除住吉神社」・大鳥大社に所縁のある「大鳥井瀬神社」が 両大社に所縁ある神社として祀られています 境内の飯匙堀(iigaibori)は 水のない空堀ですが 住吉大社の神功皇后にまつわる伝説などがあります
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大鳥羽衣濱神社(高石市羽衣)
大鳥羽衣濱神社(おおとりはごろもはまじんじゃ)は 羽衣をまとう天女を連想させるような神社名を持ちます 御祭神は 大鳥大社に祀られている「日本武尊」の后神で 仲哀天皇の皇太后となる「両道入姫皇女」が祀られています また 当社は江戸時代には 井戸守明神といわれていて 社殿前にある井戸から上がる水は神水として尊ばれたと伝わります
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穴門山神社(倉敷市真備町妹)
穴門山神社(あなとやまじんじゃ)は 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃「穴門武媛命(anato takehime nomikoto)」を御祭神としています 古代 児島半島の北側に広がる岡山平野にかつて存在した海「吉備の穴海」を「高山(koyama)」の頂上から見守り続けていたのでしょうか?
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大鳥北濱神社(堺市)
大鳥北浜神社(おおとりきたはまじんじゃ)は 大鳥五社とも呼ばれる いずれも「大鳥(otori)」を冠している五つの神社の1社です 和泉国大鳥郡(大阪府堺市周辺)の式内社で ご祭神は「日本武尊(yamato takeru no mikoto)」の后神の一柱「吉備穴戸武媛命(kibino anato takehime no mikoto)」を祀ります
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国神社 古社地(堺市 南区 鉢ヶ峯寺)
国神社(くにじんじゃ)古社地は 「垂仁天皇8年 天照大神が 鳳凰に化して この襲峯(おいそのみね)に降りました」との伝承をもち 現在の「大鳥美波比神社」の古社地ともされています