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孫若御子神社(名古屋市熱田区神宮)〈熱田神宮の境内摂社〉
孫若御子神社(ひこわかみこじんじゃ)は もと鎭皇門內 御田社の西に鎮座したが 明治七年(1874)現在地に遷坐 延喜式内社 尾張國 愛智郡 孫若御子神社(名神大)(ひこ わかみこの かみのやしろ)の論社で 祭神については 遷座頃までは 稚武彦王(ワカタケヒコノキミ)〔日本武尊の第七男 母は弟橘姫命〕とされていました
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日割御子神社(名古屋市熱田区神宮)〈熱田神宮の境内摂社〉
日割御子神社(ひさきみこじんじゃ)は 祭神は・熱田大神(天照大神)の御子神 天忍穂耳尊とも・日本武尊の御子神 武鼓王とも・日本武尊を焼津で救った火打石の霊とも諸説あり 鎮座地は 熱田神宮境内の熱田丘陵の先端に当り 太古には水際に張り出た洲崎の名残で 干崎(ひさき)と云われていた 延喜式では名神大社とされます
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天神社(名古屋市緑区鳴海町)〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉
天神社(てんじんしゃ)は 現今「城」と呼ぶ鳴海駅北の高台で 太古は鳴海潟の波打ち際で 日本武尊がこの地にお立ちになり 対岸の火高丘陵(現 大高)の尾張氏館〈宮簀媛命〉へと渡られた地であり 是を由縁とし 天武天皇 朱鳥元年(686)尊の御東征の旗頭であった建稻種命と宮簀媛命を祀り この所に創建された〈成海神社創祠の地〉
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成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)〈日本武尊ゆかりの延喜式内社〉
成海神社(なるみじんじゃ)は 日本武尊が 東征からの帰還の際 鳴海潟(現 鳴海駅北)から対岸の宮簀媛命の居住する火高丘陵〈建稲種命の館〉(現 氷上姉子神社)まで船で渡ったと伝わる地に 天武天皇の朱鳥元年(686)草薙神剣が熱田に還座の時に鎮座しました 延喜式内社 尾張國 愛智郡 成海神社(なるみの かみのやしろ)です
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幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)〈延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社〉
幡頭神社(はずじんじゃ)は 日本武尊の東征の際 旗頭であり 大功を立てた建稲種命は 帰途海上で御薨去 御遺骸が この岬に着かれたのをお祀りしたのが本神社で 大宝二年(702)文武天皇が勅して 社殿を建て官社に列せられたと伝えられる 延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ) です
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旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町)〈内々神社 当初の鎮座地〉
旧妙見宮奥之院(きゅう みょうけんぐう おくのいん)は 内々神社(うつつじんじゃ)〈延喜式内社 尾張國 春日部郡 内内神社(うちうちの かみのやしろ)〉の当初の鎮座地とされ 内々神社から山道を登り 断崖岩の絶壁の割れ目にお堂〈巌屋神社〉があり 今は鉄の階段ですが かつては梯子や鎖で登ったと云う゛奥の院゛です
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内々神社(春日井市内津町上町)〈日本武尊 東征の副将軍 建稻種命を祀る〉
内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う
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播州糀屋稲荷神社(多可郡多可町中区糀屋)〈創建は推古2年(594)〉
糀屋稲荷神社(こうじやいなりじんじゃ)は 創建は推古2年(594)に字「土井の後」に鎮座 天平時代 称徳天皇の崇敬厚く 慶雲3年(706)社殿の建立となり勅使を使わせられ 神託により天安元年(857)現在地に移ったと伝えられます 延喜式内社 播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社です
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村檜神社(栃木市岩舟町小野寺)〈第36代 孝徳天皇 大化二年(646)創建と伝〉
村檜神社(むらひじんじゃ)は 創建は 第36代 孝徳天皇 大化二年(646)熊野大神 大山咋命の二柱を祀り のち第51代 平城天皇 大同二年(807)皆川村小野口に鎮座の八幡宮を当社に合祀し主祭神と仰いだ 佐野庄小野寺十郷の総鎮守として崇敬された 延喜式内社 下野國 都賀郡 村檜神社(むらひの かみのやしろ)の論社です
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氷上姉子神社 元宮(名古屋市緑区大高町火上山)〈尾張国造 乎止與命の館跡〉
氷上姉子神社 元宮(ひかみあねごじんしゃ もとみや)は 御祭神 宮簀媛命の父で尾張国造 乎止與命(おとよのみこと)の館跡に 元宮(もとみや)として仲哀天皇四年(195)に創建されたと云う その後 持統天皇四年(690)に現在地に遷座されたと伝わる 延喜式内社 尾張國 愛智郡 火上姉子(ほのかみあねこ)神社の元宮です
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氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町火上山)〈熱田神宮の元宮〉
氷上姉子神社(ひかみあねごじんしゃ)は 『寛平熱田縁起』によれば 日本武尊を 建稲種(たけいなだね)命が火上(ほかみ)(現大高町)にお迎えした時 妹の宮簀媛を妃とされ 東征の帰途にも立寄られ 草薙劔を留められたと云う 仲哀天皇四年 館跡に社殿を設けて媛を祀ったのが起源で 持統天皇四年(690)に現在地に移ったと云う
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丹生川上神社〈上社〉(吉野郡川上村大字迫)〈龍神総本宮〉
丹生川上神社〈上社〉(にうかわかみじんじゃ かみしゃ)は 天武天皇の御代白鳳四年(六七五)「人の声も聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬き祀らば天下(あめのした)のため甘雨(うましあめ)を降らし霖雨(ながきあめ)を止めむ」の神宣により 御社殿を建立奉祀されました それ以降 祈雨・止雨の神として崇敬されました
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丹生川上神社〈下社〉(吉野郡下市町長谷)〈延喜式内社 名神大社〉
丹生川上神社〈下社〉(にうかわかみじんじゃ しもしゃ)は 天武天皇白鳳四年(六七六)「人声の聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば 天下のために甘雨を降らし 霖雨を止めむ」との御神誨に因り創建と伝 朝廷の尊崇篤く 天平宝字七年(七六三)幣帛の外 黒毛の馬を奉献され その後 祈雨には黒馬 祈晴には白馬を献ずることが恒例とされた
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丹生神社(本宮)〈中社の旧跡〉(吉野郡東吉野村小)
丹生神社(にうじんじゃ)は 丹生川上神社〈中社〉の旧跡とされ゛本宮゛と呼ばれています 現在は〈中社〉の摂社となっています 祭られた初めは何時代か分からぬ位古く 日本最古の水神とされる 水神総本社です 恐らく神武天皇の頃には この辺りに神籬(ヒモロギ)式の神として祭られていたとされ 天武天皇の時に社を建てたと伝わります
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丹生川上神社 中社(吉野郡東吉野村大字小)〈延喜式内社 名神大社〉
丹生川上神社〈中社〉(にゅうかわかみじんじゃ)は 白鳳4年(675)に創祀され 雨師明神・水神宗社として 雨乞いには黒馬を 雨止めには白馬又は赤馬が献上された 延喜式内社 大和國 吉野郡 丹生川上神社(貞・名神大 月次 新嘗)(にふの かはすみの かみのやしろ)で 下社・上社・中社の三つの論社の内 中社(なかしゃ)です
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久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)〈゛興我萬代繼神゛六国史『三代実録』〉
久我神社(こがじんじゃ)は 創建について 神社の旧記には゛桓武天皇が山背長岡に遷都された延暦3年頃(784)王城の艮角の守護神として御鎮座゛とあり 一説には往古 山背久我国造として 北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神 興我(こが)萬代繼神を祀ったとされる 延喜式内社 山城國 乙訓郡 久何神社(くかの かみのやしろ)です
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氷鉋諏訪神社(長野市稲里町大字下氷鉋字入村)
氷鉋諏訪神社(ひがのすわじんしゃ)は 下氷鉋に鎮座する諏訪神社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社or諏方社と称したとあり 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)に関係があるのでしょう
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穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)〈上高地の聖地 明神池のほとりに鎮座〉
穗高神社 奥宮(ほたかじんじゃ おくのみや)は 上高地 明神池のほとりに祀られています 上高地明神付近は古くから〈神合地 神垣内 神河内〉(上高地)とも呼ばれ 神々を祀るにふさわしい神聖な場所とされてきました 嶺宮は 安曇族の神・穂高大明神が降臨されたと云う 穂高連峰の最高点・奥穂高岳の頂上に祀られています
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玉依比賣命神社(長野市松代町東条字内田)〈阿曇氏が祀った延喜式内社〉
玉依比賣命神社(たまよりひめのみことじんじゃ)は 勧請は 上世で年曆悠遠 その時代を詳かには出来ないが 社記及び地方古記録 村老等の旧聞によれば゛崇神天皇の御宇 科野國造の祖、武五百建命の創祭せし所なりと云ふ゛太古に阿曇氏が祀った 延喜式内社 信濃國 埴科郡 玉依比賣命神社(たまよりひめのみこと かみのやしろ)です
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氷鉋神社(長野市稲里町中央)〈式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉の分祀〉
氷鉋神社(ひがのじんじゃ)は 中氷鉋に鎮座した諏訪社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 氷銫斗賣神社と称したとあります 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の分祀と考えられます