延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)

井椋塚(秩父市下吉田)〈吉田 椋神社の旧鎮座地〉

井椋塚(いくらづか)〈吉田 椋神社の旧鎮座地〉は 永禄十二年(1569)の兵火〈武田勢の侵入による秩父谷の社寺焼打ち〉で吉田 椋神社の社殿が消失する迄の旧社地とされます 天正三年(1575)に鉢形城主 北条氏邦が五宇あった神殿を一宇に改めて現在地に再建したと伝わります

吉田 椋神社(秩父市下吉田)

吉田 椋神社(よしだ むくじんじゃ)は 日本武尊が道に迷われ時 鉾の先から一条の光が走り大きな椋の木の根元近くに猿田彦大神が顕われ導かれた この鉾を神体として大神を祀ったのが創始とされ 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の有力論社とされます

野巻 椋神社(皆野町野巻)

野巻 椋神社(のまき むくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました「野巻」という地名は「野牧」とも書かれ 昔 当地に牧〈大和朝廷の牧場〉があったとされます

上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

上蒔田 椋神社(かみまいた むくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました 日本武尊が 当地の椋の大樹の根元に 大己貴命を奉祭し 椋大神と称したと伝わります

中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

中蒔田 椋神社(なかまいた むくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました 祭神は秩父国造の祖である天下春命を主祭神として大己貴命・猿田彦命を祀ります

皆野 椋神社(皆野町皆野)

皆野 椋神社(みなのむくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 社記には 景行天皇四十年日本武尊が知知夫国を巡見した折 この地に至り御矛を立て猿田彦命・大己貴命・ 八意思兼命を鎮祭したことを創祀としています

麻氐良布神社 奥宮(朝倉市杷木志波)

麻氐良布神社 奥宮(まてらふじんじゃ おくのみや)は 麻氐良山の山頂に鎮座します この山は『日本書紀』斉明天皇の条にある゛朝倉山゛とされ 『日本三代実録』元慶元年(八七七)九月廿五日の条に゛眞天良布神゛と記される古社で 『延喜式神名帳927 AD.』所載 筑前国 上座郡 麻氐良布神社(まてらふの かみのやしろ)です

麻氐良布神社 下宮(朝倉市杷木志波)

麻氐良布神社 下宮(まてらふじんじゃ しものみや)は 『日本書紀』斉明天皇の条にある゛朝倉の社゛とされ 『日本三代実録』元慶元年(八七七)九月廿五日の条には゛眞天良布神゛と記され 『延喜式神名帳927 AD.』所載 筑前国 上座郡 麻氐良布神社(まてらふの かみのやしろ)の里宮です

羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)

羽束師坐高御産日神社(はづかしにます たかみむすひじんじゃ)は 社伝によれば 創建〈雄略天皇21年丁己(477)〉と伝わり 京都でも古社となります 高皇産霊神(たかみむすひのかみ)を祀る 延喜式内社 山城國 乙訓郡 羽束師坐高御産日神社(大月次新嘗)(はつかしにますたかみむすひの かみのやしろ)です

國常神社〈妙見宮〉(朝来市生野町円山)

國常神社(くにのとこじんじや)は 北辰信仰の妙見宮(みょうけんぐう)とも呼ばれ 国常立尊(くにのとこたちのみこと)を祀ります この地は 式内社 倭文神社〈鮭の宮〉(ここから500m程の 円山川の下流)の旧鎮座地 円山字鹽谷であると伝わります

倭文神社〈鮭の宮〉(朝来市生野町円山)〈延喜式内社論社〉

倭文神社(しどりじんじゃ)は 和銅5年(712年)創建された 延喜式内社 但馬國 朝來郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)と伝わります 正徳3年(1713年)遷宮の時 偶然下流から鮭が遡上し 村人達は めでたい前兆として喜び〈鮭の宮〉と呼ぶようになったと伝わります

倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)〈上野國九之宮〉

倭文神社(しとりじんじゃ)は  第十一代 垂仁天皇の御代の創建と伝えられ 貞観元年(859)には官社に列せられています 上野国九之宮とされる 式内社 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です 利根川北岸に鎮座し 南岸に鎮座する式内社 火雷神社(上野国八之宮 下之宮)に対して「上之宮(うえのみや)」と称されます

火雷神社(佐波郡玉村町大字下之宮)〈上野國八之宮〉

火雷神社(からいじんじゃ)は 延喜式内社 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)です 社伝によると 崇神天皇元年の鎮座 火雷宮と号したと伝え 桓武天皇 延暦十五年(796)には官社に預り 上野国八之宮とされ 利根川南岸に鎮座し 北岸に鎮座する倭文神社(上野国九之宮 上之宮)に対して「下之宮(しものみや)」と称されます

熊野神社 & 出雲社〈熊野神社境内〉(防府市上右田)

熊野神社(くまのじんじゃ) は 明徳三年(1392)大内義弘公は 将軍 足利義満から和泉(いずみ)・紀伊(きい)の両国を与えられた時 野上修理亮に命じて 紀伊の国の熊野権現宮より御分霊を移し この地に熊野権現を創建したと伝わり 境内社 出雲社(いずもしゃ)は 延喜式内社との伝承もあります

出雲神社(山口市徳地堀)

出雲神社(いづもじんじゃ)は 第44代 元正天皇 霊亀元年(715)鎮座と伝えら 周防国二之宮です その起源はさらに古く 大古 出雲種族の佐波川流域への膨張発展に伴い その祖神を鎮祭したものと考えられています 式内社 周防國 佐波郡 出雲神社二座(イツモノカミノヤシロ フタクラ)とされています

御田八幡神社(港区三田)

御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年〈三田八幡宮 古跡石碑〉に遷座し 寛永五年(1628)現在地に鎮座したとあり 古くは稗田神社とも云われたと伝わり 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社となっています

薭田神社(大田区蒲田)

薭田神社(ひえだじんじゃ)は 社伝によると和銅2年(709)僧行基が天照・八幡・春日の三体神を造り本社に安置し その後 弘安5年(1282)この三体は日蓮によって開眼されたと伝わっています 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とされています

生根神社(大阪市住吉区住吉)

生根神社(いくねじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 社伝では「住吉大社が当地に御鎮座の以前より奉祀せられて居り 古伝によれば少彦名命は造酒の祖神であり 神功皇后も当社で酒を造り住吉三神に献ぜられた」とあり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 摂津國 住吉郡 生根神社(大月次新嘗)(いくねの かみのやしろ)とされています

丹生官省符神社(九度山町慈尊院)

丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)は 一宮~四宮は 北の方宮の橋といふ地にあったが 天文年中(1532~)の洪水により 慈尊院に遷座した 此の時 三社宮も遷座して神通寺七社明神となる 近代には丹生七社大明神 丹生神社と呼ばれ 昭和21年(1946)現在の社号となっています 或説に 式内社 小田神社とも云われます

小田神社(橋本市高野口町)

小田神社(おだじんじゃ)は 建立は1,400年前で 神領も多く朝野ともに尊敬の深かった式内社 紀伊国 伊都郡 小田神社(をたの かみのやしろ)と伝えられます その後の数々の兵乱に合い 社地も衰廃し 祠は焼失してしまいました 紀伊藩主 徳川頼宣公が元和年間(1615~1624)に旧境内本殿跡に石の宝殿を建て「小田神社」と刻し ご神体として後世に伝えさせ 現在に至っています

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