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田上大水神社〈御同座 田上大水御前神社〉〈豊受大神宮(外宮)摂社〉
田上大水神社(たのえおおみずじんじゃ)・御同座 田上大水御前(たのえおおみずみまえ)神社は 『止由気宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』に記載ある古社ですが 中世に頽廃してしまい 権禰宜 出口延良が承応元年(1652)度会四門の氏人らとともに現地に再建したものです 寛文三年の再興では取り上げられず 明治四年の神宮御改正までは氏人により社殿の造替えが続けられました
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上宮古神社(玉城町宮古)
上宮古神社(かみみやこじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 奈良波良神社(ならはらの かみのやしろ)の旧鎮座地とする説があります 江戸時代末期の国学者 御巫清直(みかなぎ きよなお)〈1812~1894年生没〉は 廣泰寺寺地を比定地としています
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奈良波良神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
奈良波良神社(ならはらじんじゃ)は 『皇太神宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』゛楢原神社 大水上の兒 那良原比女(ナラハラヒメ)命を祀る 倭姫命の祝ひ定め給ふ所゛と記される古社です 中世に頽廃しますが 寛文3年(1663)大宮司 大中臣精長によって再興されました 延喜式内社 伊勢國 度會郡 奈良波良神社(ならはらの かみのやしろ)の論社です
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麻續神社(明和町中海)
麻續神社(おおみじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 麻續神社(をみの かみのやしろ)の論社であった豊城入彦命を祀る中麻續神社に明治45年(1912)村内の佐賀茂神社・田中神社・粟須美神社・美里神社・宇気比神社・須賀神社の6社が合祀され その際に麻續神社と改称されたものです
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八尋殿・神麻續機殿神社(松阪市井口中町)〈皇大神宮(内宮)所管社〉
神麻續機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)所管社〉は 八尋殿(やひろでん)の守護神゛神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののまもりのかみ)゛を祀り〈機殿〉八尋殿で奉織した荒妙(あらたえ)(麻)の神衣は 神御衣祭(かむみそさい)で皇大神宮・荒祭宮に供進されます
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八尋殿・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)〈皇大神宮(内宮)所管社〉
神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)は 八尋殿(やひろでん)の守護神を祀り〈機殿〉八尋殿で奉織した和妙(にぎたえ)の神衣は 神御衣祭(かむみそさい)で皇大神宮・荒祭宮に供進されます 起源は『倭姫命世記』垂仁天皇22年機屋を作り 25年磯宮に服織社を建て 五十鈴川上に御鎭座の時 大宮の傍に八尋の機屋〈宇治の機殿〉を建て 清寧天皇3年(482)服織社の地に移ったとします
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御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
御食神社(みけじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 『倭姫命世紀』には 倭姫命が皇大神宮御遷幸の時 鷲取老翁(わしとりのをきな)が清水を奉り その功績を賞し 水饗社(みけのやしろ)を定めたと起源を傳えている 中世に廃絶しますが 寛文3年(1663)現社地で再興されました 延喜式内社 伊勢國 度會郡 御食神社(みけの かみのやしろ)とされます
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河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
河原淵神社(かわらぶちじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)に比定される古社です 中世に社地が湮滅し 寛文三年(1663)船江町檜尻(ひのきじり)の檜尻社の境内に再興されました この檜尻社が 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社になっています 明治十一年(1878)現社地に遷座しました
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船江上社(伊勢市船江)
船江上社(ふなえかみのやしろ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地であったとする説を度会延賢〈享保3年(1718)『二十二社参詣記』著者の渡会延賢〉が唱え 以来これが通説となり 明治11年(1878)当社域内に外宮摂社 河原淵神社が遷座されてきました
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箕曲神社(伊勢市小木町)
箕曲神社(みのわじんじゃ)は 明治39年 3社を合祀〈小木社・曽祢社・今田社〉明治41~42年〈大口神社・日和神社・馬瀬神社〉を移遷合祀 新たな神社名を箕曲神社と称したものです 昭和時代に大口神社・日和神社の2社は旧鎮座地に分祀遷座しました 合祀の曽祢社は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の論社となっています
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河原神社〈御同座 毛理神社〉〈豊受大神宮(外宮)摂社〉
河原神社(かわらじんじゃ)〈御同座 毛理神社(もりじんじゃ)〉は どちらも『延曆儀式帳(804年成立)』に川原社(かはらのやしろ)毛理社(もりのやしろ)と記載される千年以上の古社 川原社は寛文三年に当地に再興された『延喜式神名帳(927年)』所載の伊勢國 度會郡 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社 毛理社は明治三年(1870)に御同座御再興されて 今日に至ります
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大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)
大口神社(おおくちじんじゃ)は 明応7年(1498)大地震の津波のために流出した式内社〈往古 水郷の守り神として 勾村字 三津社に河原大社・水饗社・河原饗社という三社の水神あり〉この内 水饗社を竹ヶ鼻に遷座させた小祠の後継神社です 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社とされます
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度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
度会国御神社(わたらい くにみ じんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)宮域内に鎮座する摂社です しかし かつての鎭座地は宮域外とされ『度會元長の内外宮諸社記』に 室町時代の文明(1469~1487)の頃までは 豊受大神宮の神域より堀を隔てた所〈現在の山田工作場の辺り〉と記載があり その後頽廃して社地を失い 正保二年(1645)に禰宜 常晨が その位置に再興したが 古今その旧社地には諸説があり定まっていません
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粟皇子神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉& 土宮神社(鳥羽市小浜町)
粟皇子神社(あわみこじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 元祿五年(1692)大宮司 河邊長春が現在地に再興しました 創建は垂仁天皇の御宇 倭姫命が 皇大神を伊勢に鎮座の明年 御贄所を定めるため志摩國にいでまし御帰途 淡良伎(アハラキ)之島を經て 伊氣浦(イケノウラ)に至り ここで御贄を奉られた神を淡海子(アハミコノ)神と名付けて社を定めたと伝わります
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江神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉& 栄野神社(伊勢市二見町江)
江神社(えじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 皇大神〈天照大神〉を倭姫命(やまとひめのみこと)が奉遷され 当地の海岸に着船 出迎えた゛佐見都比古命(さみつひこのみこと)゛に土地の名前を尋ねたのちに江社を定められたと伝わります 栄野神社(えいのじんじゃ)にも同様の言い伝えがあります
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大水神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 川相神社・熊淵神社〉
大水神社(おおみずじんじゃ)は 皇大神宮(内宮)の摂社で 皇大神宮(内宮)末社の2社〈・細川水神〈川相神社(かわあいじんじゃ)・多支大刀自神〈熊淵神社(くまぶちじんじゃ)〉が御同座します 3社ともに垂仁天皇の御代 倭姫命によって御鎭祭されたと伝わります
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津長神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 新川神社・石井神社〉
津長神社(つながじんじゃ)〉は 皇大神宮(内宮)の摂社です 鎮座地の古地名を「津長原止」と云い 倭姫命が上陸したと伝えらる 五十鈴川を遡上した船の留場〈津〉でした 水神の栖長比賣命を祀る津長神社には 皇大神宮(内宮)の末社〈新川神社〉新川比賣命・〈石井神社〉高水上命が御同座しています
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朽羅神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
朽羅神社(くちらじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 倭姫命が祝い定めたとされ 水田の中いかにも神が坐します雰囲気の゛宮田森゛に鎮座します 社名は゛朽羅(くちら)とも久麻良比(くまらひ)゛とも云い 共に゛籠(こもる)゛の転訛りで゛神の籠る森゛であるという意味とのことです 延喜式内社 伊勢國 度会郡 朽羅神社(くちらの かみのやしろ)とされます
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園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
園相神社(そないじんじゃ)は ゛園作神〈曽奈比比古命〉゛が皇大神に御園を奉り これを祝い 倭姫命が社を定めたと伝わる古社 皇大神宮(内宮)摂社の27社中 第3位と格式高い神社ですが 中世には頽廃して社地も不明となり 寛文3年(1663)河邊精長が度会郡積良村に再興 この再興地に疑義があり 元禄七年(1694)大中臣長春が津村を旧社地と定め 現在地へ遷座しました
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神村神社 社地跡(伊勢市御薗町高向)
神村神社 社地跡(かぶらじんじゃ しゃちあと)は 明治41年(1908)に高向大社に合祀された゛神村社(かぶらのやしろ)〈加牟良社・鏑社神とも〉゛の社地跡です 高向区の御頭神事は現在でも゛大社(かみ)さん゛゛神村社(かぶら)さん゛の二社の御頭(おかしら)によって神事が催行されています 延喜式内社 伊勢國 度會郡 雷電神社(いかつちの かみのやしろ)の論社です