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大井神社(鈴鹿市山辺町)〈延喜式内社 大井神社二座(をほゐの かみのやしろ)〉
大井神社(おおいじんじゃ)は 西に約400mの所に゛山辺の御井(やまべのみい)゛もあり 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 大井神社二座(をほゐの かみのやしろ ふたくら)の論社となっています 明治44年(1911)川神社(鈴鹿市河田町)に合祀〈神社合祀令〉された後 地元の熱意によつて昭和26年(1951)3月に再興されました
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江神社(亀山市下庄町)〈二つの延喜式内社の論社①大井神社二座②江神社〉
江神社(えのじんじゃ)は 雨を司る神として 社伝には゛当地は天名川〈中の川〉が流れ 上流は闇淵(くらふち)と称する大沼があって龍神が住んでいた゛と云い 社名を「鈴の宮」〈上社〉と呼び 又 下社もあったとされ これを延喜式内社 大井神社二座としていたと伝わります 又 江神社ともされ 二つの式内社の論社となっています
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加和良神社(鈴鹿市稲生塩屋)〈延喜式内社 加和良神社(かわらの かみのやしろ)〉
加和良神社(かわらじんじゃ)は 創祀は不詳ですが『大安寺資料帳〈天平年間(729~749年)〉』に「高良社」と見え 既にこの頃には祀られており 『延喜式神名帳(927年に成立)』に所載 伊勢國 奄藝郡 加和良神社(かわらの かみのやしろ)とされます 大正11年(1922)゛花の木の宮゛〈古社地〉より現在地に遷座しました
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三宅神社(鈴鹿市国府町)〈延喜式内社・伊勢國總社〉
三宅神社(みやけじんじゃ)は 鎮座地が゛國司の宅址゛であり゛屯倉(ミヤケ)の跡地゛と伝わるので 式内社〈①伊勢國 鈴鹿郡三宅神社②伊勢國 河曲郡 大鹿三宅神社〉の論社とされ゛伊勢國總社゛とも呼ばれます 更に 明治41年(1908)に式内社③江神社の論社゛樫木大明神゛を合祀しましたので 現在は 三つの式内社の論社です
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三宅神社(鈴鹿市三宅町)〈三つの式内社①加和良神社②三宅神社③大鹿三宅神社の論社〉
三宅神社(みやけじんじゃ)は 鎮座地の地域は 中の川沿岸にあり 鈴鹿の屯倉(みやけ)〈国司宮所在の地〉が置かれた所であるとされています このことから地名も゛三宅の号あり゛と伝わり 〈①三宅神社②大鹿三宅神社〉の論社となっています 又 式内社〈③加和良神社〉とする説もあり 三つの式内社の論社となっています
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大鹿三宅神社(鈴鹿市池田町)〈延喜式内社の論社〉
大鹿三宅神社(おおかみやけじんじゃ )は 社伝によれば゛久安三年(一一四七)伊勢国河曲郡一ノ宮村大字池田へ建立゛と伝へるのみです 当社所蔵の棟札の記載から式内社 大鹿三宅神社(おほかの みやけの かみのやしろ)の論社とされますが この棟札については ゛偽造なる事著し明なれは 信受し難し゛ との説もあります
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神館飯野高市本多神社〈神戸宗社〉(鈴鹿市神戸)
神館飯野高市本多神社(こうたつ いいの たかいち ほんだじんじゃ)は 第十一代垂仁天皇の御代 皇女倭姫命が皇大神宮〈内宮〉を伊勢の五十鈴川の川上にお定めになられる時 神戸にしばらく滞留せられて御宮所としたのが 神社創建と伝えられ その後 神館神明神社に飯野神社・高市神社・本多神社が合祀され 俗に神戸宗社と呼ばれます
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飯野神社(鈴鹿市三日市)〈二つの式内社〈①高市神社②飯野神社の論社〉
飯野神社(いいのじんじゃ)は 弘治元年(1555)式内社 高市神社を合殿(あいどの)に奉斎し 二つの式内社〈①高市神社(たかいちの かみのやしろ)②飯野神社(いゐのの かみのやしろ)〉の論社です 明治39年(1906)明細帳に飯野高市両神社と社名を記し 大正13年(1924)社名を変更し飯野神社と単称するに至っています
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飯野神社(鈴鹿市長太旭町)〈三つの式内社①飯野神社②都波岐神社③大木神社の論社〉
飯野神社(いいのじんじゃ)は 長太(なご)〈穏やかな海面・豊かな漁場の意を持つ地名〉に鎮座します 鈴鹿市無形民俗文化財「長太の鯨船行事」〈昔 伊勢湾に迷い込んだ鯨を銛で仕留める古式鯨漁法を模して 神に様々な祈願を行う祭事〉があります 三つの式内社〈伊勢國 河曲郡①飯野神社②都波岐神社③大木神社〉の論社となっています
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亀山神社(亀山市西丸町)〈合祀 式内論社・片岡大明神・眞木尾神社・天満神社〉
亀山神社(かめやまじんじゃ)は かつては真澂神社(ますみじんじゃ)として亀山城内に鎮座していました 明治41年(1908)延喜式内社の論社であった・眞木尾神社(阿野田町)・天満神社(天神町)・志婆加支神社〈江戸時代には片岡明神〉や亀山皇太神社・境内の稲荷社・幸神社・天神地祇社等を合祀して亀山神社と改称されています
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比佐豆知神社(鈴鹿市寺家)〈延喜式内社 奄藝郡 比佐豆知神社の論社〉
比佐豆知神社(ひさずちじんじゃ)は 社伝によると創祀並に由緒は゛聖武天皇天平勝宝年間(749~757年)旧刹たる白子山子安観音寺と神域を共にし観音寺南側に位し 往昔は萱葦の神祀六宇に鎮り座し東面した゛と伝えます 延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 比佐豆知神社(ひさつちの かみのやしろ)の論社です
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明神社(津市芸濃町楠原)〈延喜式内社 志婆加支神社・比佐豆知神社の論社〉
明神社(あきらじんじゃ)は 旧鎮座地は現在の愛宕山の西方に広がる丘の上でした 天正年中(1573~1591)荒廃し現在地へ奉遷 式内社 伊勢國 鈴鹿郡 志婆加支神社(しはかきのかみのやしろ)の論社とされ 又 御巫 清直〈江戸時代末期の国学者〉の説では 式内社 奄藝郡 比佐豆知神社(ひさつちのかみのやしろ)とされます
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奈具志理神社跡(亀山市田村町)〈延喜式内社 那久志里神社の旧鎮座地〉
奈具志理神社跡(なくしりじんじゃあと)は 明治41年(1908)能褒野神社に合祀された奈具志理神社〈延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 那久志里神社(なくしりの かみのやしろ)の論社〉の旧鎮座地でした 現在跡地には 奈久志里神社跡 東荒寺跡と刻まれた石碑が建照られています
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能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉
能褒野神社(のぼのじんじゃ)は 「川崎村名越字女ヶ坂」の丁子塚(一名 王塚)〈明治12年(1879)宮内省が『延喜式』に記す日本武尊の御陵「能褒野墓」と治定〉その御霊を斎き祀る神社として御鎮座 明治41年(1908)には 村内の40余社〈式内社3社〈縣主神社・那久志里神社・志婆加支神社〉を含む〉が合祀されました
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縣主神社&椿護国神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社 境内〉
縣主神社(あがたぬしじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 縣主神社(あかたぬしの かみのやしろ)の論社です 元々は川崎村〈亀山市川崎町〉に鎮座していた 俗称 縣大明神〈穗落大神社〉が 明治41年(1908)能褒野神社に合祀され 平成10年(1998)椿大神社 境内 椿護国神社の社地に遷座したものです
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椿岸神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社境内 別宮〉
椿岸神社(つばききしじんじゃ)は 椿大神社境内の別宮 椿岸神社です 元々は 旧三重郡 椿尾山にあったが 毎年椿社祭祀の日に 神輿をその社頭まで昇って行く例でしたが 一里餘の遠程であったので ここに遷座したと云う 延喜式内社 伊勢國 三重郡 椿岸神社(つはききしの かみのやしろ)の論社てす
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椿岸神社〈七郷の総社〉(四日市市智積町)〈延喜式内社 論社〉
椿岸神社(つばききしじんじゃ)は 昔は「七郷の総社」と呼ばれていて 七つの郷とは〔旧村の佐倉村(桜)・智積村・一色村・森村(菰野町神森)・赤津村(赤水・海老原村(上海老・下海老)・平尾村〕この七村の総氏神様という意味です 延喜式内社 伊勢國 三重郡 椿岸神社(つはききしの かみのやしろ)の論社です
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石神社(亀山市三寺町)〈延喜式神名帳所載 論社〉
石神社(いしじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 石神社(いはの かみのやしろ)の論社です 一般には 巨岩を神体とする石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)を推していますが 三寺町の石神社も゛広大な社地で樹木が鬱そうと茂りその地の岩を避け割ったようだ゛との通り参道は この岩の避け割った谷をの上り下りして進みます
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石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)〈古代から信仰の対象 巌岩〉
石大神(しゃくだいじん)は 鈴鹿山脈の断層によって形成された断層微地形「ケルンバット」(分離丘陵)で 急峻で錘状岩柱形の岩峯(がんぽう)地形の自然景観は 古代から信仰の対象となっており 社殿はありませんが巨岩を神体とする 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 石神社(いはの かみのやしろ)の論社とされています 敏達天皇が行幸されたという言い伝えもあります
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〈伊勢國一之宮〉椿大神社(鈴鹿市山本町)〈地祇猿田彦大本宮〉
椿大神社(つばきおおかみやしろ)は 社伝には 垂仁天皇二十七年 倭姫命の御神託により御船磐座の邉に 伊勢開拓神として猿田彦命を奉斎のため社殿を創建 神主は 代々山本家の世襲で 山本家は猿田彦大神の神裔とされます 社殿は瓊瓊杵尊が船でここに到着された場所「土公神陵」は猿田彦大神の古墳だと伝える 由緒ある伊勢国一之宮です