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大穴持神社(霧島市国分広瀬)
大穴持神社(おおなむぢじんじゃ)は 天平宝字8年(764)噴火によって3島が出現した時 噴火で島を造った神の名は「大穴持神」とされ 宝亀9年(778)官社となりました『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載社〈式内社〉です 大己貴命がマムシに咬まれ忌み嫌ったので この地区にはマムシがおらず まむし除けの信仰の社としても有名です
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東別府神社(熊谷市東別府)
東別府神社(ひがしべっぶじんじゃ) は 創建年代等は不詳です 鎮座地 別府の地名由来は 平安末期頃 国府の支庁である別府が置かれていた為 又は 別府小太郎清重の在名から名付けられた地名とも云われ 居城の東別府城には 別府氏(藤原氏)の氏神 奈良の春日大社から分祀し 天正18年(1590)の落城まで 城の鎮守であったと伝わります 跡地には 明治42年に埋鳥の村社 榛名神社を合祀して 東別府神社と改称しました『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社とされています
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白髪神社(熊谷市妻沼)
白髪神社(しらかみじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社です 社伝によれば「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社」とあります 又 第22代 清寧天皇〈即位480~484年頃〉の白髪部との係わりがあるとされます
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知形大神社(深谷市田中)
知形大神社(ちかたじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「武蔵国 幡羅郡 田中神社」の3つの論社のひとつです 『大日本地名辞書』〈明治40年(1907)〉には 鎮座地の田中の地名について 知形明神が式内社の田中神社なので 田中という村名となっていると記しています
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三ヶ尻八幡神社(熊谷市三ケ尻)
三ヶ尻八幡神社(みかじりはちまんじんじゃ)は 天喜4年(1056)に鎮守府将軍 源頼義と嫡男 八幡太郎義家が 奥州出陣〈前9年の役〉にあたり 戦勝祈願したとされる古社です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 田中神社」の論社とも云われています
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八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)
八幡塚旧跡は 井椋神社に合祀された 字栗坪にあった祠「白旗八幡社」の旧鎮座地の跡になります 従って『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社の跡地ですが 延喜式の時代(927年)には 当地に鎮座していたことになります
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塚田三嶋神社(寄居町赤浜)
塚田三嶋神社(つかだみしまじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 稲乃賣神社」の論社です 神社に伝わる鰐口は「武藏国男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口 応永2年(1395)乙亥3月27日」とあり 塚田は中世に鋳物業が盛んであったと伝えられ この鰐口も地元在住の鋳物師によって造られたものと考えられています
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稲乃比売神社(寄居町鉢形)
稲乃比賣神社(いなのひめじんじゃ)は 天正18年(1590)鉢形城が落城した際 兵火により 社記録など焼失し 由緒不詳ですが 神職家の「相馬家」が「天長元年(824)6月28日相馬清太輔宗満祠官となる」以降も1200年相当に渡り 現在も代々継承されているようです『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 稲乃賣神社」の論社です 江戸時代には 氷川社と呼ばれていたと記されています
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白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)
白旗八幡社(しらはたはちまんしゃ)は 寄居町赤浜に遷座した出雲之伊波比神社〈白旗八幡社〉の元宮になります 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 白旗八幡社が 住民と共に赤浜に遷座した後も 畠山の氏子等は ここに祠を立てて祭りを続けたとされます その後 明治39年の勅令に基いて 明治41年に字栗坪の白幡八幡社を井椋神社の境内に遷座し 現在に至ります
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井椋神社(深谷市畠山)〈境内社の白旗八幡社は式内社〉
井椋神社(いぐらじんじゃ)は 男衾郡 畠山の地に進出した 秩父郡吉田(旧・吉田町、現・秩父市)を本拠地とする秩父氏の嫡流の畠山氏が 守護神として祀っていた 井椋五所宮〈現 秩父市下吉田にある椋神社(式内社)〉を 秩父権守 重綱公が 畠山の地に勧請(分祀)したのが始まりと伝えられています 又 境内社「白旗八幡社」は 式内社「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社にもなっています
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出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)
出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 天喜年中(1053~58)源頼義が 奥州征伐の途 当社に白旗を献じて戦勝を祈願し「白旗八幡社」と称し 荒川沿いの赤濱村に鎮座しましたが 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 住民と共に現在地に遷座します 江戸時代までは「八幡さま」と呼称されますが 明治になって『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社として 現在の社号に変更しました
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出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)
出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 江戸期までは 出雲ノ神を祀る氷川社と呼ばれていました 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社です しかし何故か 現在の祭神は 出雲の神ではなく 鹿島の神を祀っています
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熊野大神社(深谷市東方)
熊野大神社(くまのだいじんじゃ)は 深谷市東方(ヒガシガタ)に鎮座します この地域は7世紀後半から10世紀前半まで武蔵国(ムサシノクニ)幡羅郡(ハラノコオリ)の郡衙(郡役所)が存在した地域です さらに古代には その地名の由来として「伝説に、日本武尊が東征に際し、当地を過ぎる時、里人に東の方は何れに当たるかと尋ねられ、東方の地名になった」とあります 延喜式内社「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社でもあります
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虎狛神社(調布市佐須町)
虎狛神社(こはくじんじゃ)は 今から1430年以上前の崇峻天皇2年(589年)8月に創建され 農業の神様である大歳御祖神(オオトシミオヤノカミ)がお祀りされ祭事が始まったと伝えられています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 虎柏神社(とらかしはの かみのやしろ)」の論社の一つです
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虎柏神社(青梅市根ヶ布)
虎柏神社(とらかしわじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 虎柏神社」の論社です 社伝によれば 第10代 崇神天皇の御代に勅祭され これを創建とします 天慶3年(940)に平将門征伐の源経基が 相殿に諏訪神社を勧請し 天正18年(1590)木村常陸介 浅野弾正少弼が 当社の由来を記したとされます
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對馬嶋 式内社 29座(大6座・小23座)について
對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています
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田中神社(熊谷市三ケ尻)
田中神社(たなかじんじゃ)は 『延喜式神名帳』所載「武蔵国 幡羅郡 田中神社(たなかのかみのやしろ)」の論社です 地名「三ヶ尻(みかじり)」は 古くは「甕尻(みかじり)」で 祭神は「甕尻」の祖神として 明治初期頃までは 建甕尻命(タケミカジリノミコト)〈別名 建甕槌命〉との説でした その後 当神社にある要石が 有名な鹿島神宮の要石との付会なのか 現在の祭神は 鹿島神「武甕槌命(タケミカヅチノミコト)」 天神である少彦名命と天穂日命の3柱となっています
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出雲神社(亀岡市本梅町)〈延喜式内社 名神大社〉
出雲神社(いずもじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが『延喜式』(927年)所載 丹波國 出雲神社(名神大社)の論社で 境内に巨岩が磐座として祀られ 最古の祭祀形態を現存させます かつては磐座横に出雲大明神の祠が祀られたが 昭和3年(1928)現在の社殿・鳥居・石段などが整備され 磐座の横の祠から遷座したと伝わります
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出雲大神宮(亀岡市千歳町出雲無番地)〈丹波國一之宮〉
出雲大神宮(いずもだいじんぐう)は 社伝によれば〈出雲大社の元宮〉「元出雲の社」と伝わり 古来より元出雲の信仰があります 『丹波国風土記』逸文にも「奈良朝のはじめ元明天皇 和銅年中 大国主命 御一柱のみを島根の杵築の地に遷す すなわち今の出雲大社これなり」とあります
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建部大社(大津市)近江国一之宮
建部大社(たけべたいしゃ)は 近江国一之宮です 神社の東側では 近江国庁跡も発掘されています 社伝によれば 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の妃・布多遅比売命(フタジヒメノミコト)が神勅により 日本武尊を「建部大神」として 神崎郡 建部郷 千草嶽(現・東近江市の箕作山)に祀ったのが始まりとされ 天武天皇4年(675)近江の守護神として 現在地の栗太郡 勢多へ遷座しました