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勝日高守神社(安来市広瀬町富田)
勝日高守神社(かつひたかもりじんじゃ)は 月山山頂の富田城の本丸跡の奥に鎮座し 城の守護神社として歴代城主の信仰が厚く 特に尼子氏はたいへん熱心でした 「古事記」にも記載があると伝えられ 築城以前から所在していて 里宮(富田八幡宮)に対して山頂の奥宮とされています
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大山代神社(松江市西津田町)
大山代神社(おおやましろじんじゃ)は 西津田に古くからあった2つの神社(大山代神社と大山神社)が それぞれ鷹日神社に合祀された後 昭和48年に統合され 現在の場所に新社殿が建てられました 出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社の「山代社(やましろ)のやしろ」の論社ともされています
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剣神社(松江市八雲町)
剣神社〈劔神社〉(つるぎじんじゃ)は 男神イザナギノミコトが黄泉の国から剣を抜き打ち振って この地まで逃れたという言い伝えから 鎮座地を「剣山」と呼びます 本殿南側斜面の山中には黄泉坂への穴があり 入った人は帰ってこないと言われています 出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社の「詔門社(のりと)のやしろ」の論社です
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福富神社(松江市乃木福富町)
福富神社(ふくとみじんじゃ)は 鳥居松に御鎮座あったのを永享年中、社地替をしたといわれ 其後 正保元年(1644)雷火により現地社殿が焼け旧記録等も焼失して以前のことは口伝による以外には知ることが出来ません 出雲風土記に御当社とおぼしき社名が載っていて 当時すでに御鎮座あったことがうかがわれます
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野白神社(松江市乃白町)
野白神社(のしらじんじゃ)は もともとは 舳田山(現・田和山)に鎮座しましたが 毛利氏と尼子氏の戦で焼失し 宝物などすべてを失います 慶長十六年(1611)に現社地に遷座したと伝わります
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野代神社(松江市浜乃木)
野代神社(のしろじんじゃ)は 『雲陽志(unyo shi)』によれば 妙見と記されていて 里俗濱の宮と云う 妙見島とも云う とあり かつては 離れ小島であったことが記されています 出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)には 野代社が二ヶ所掲載されていて その内の一か所の論社となっています
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宇波神社(安来市)
宇波神社(うなみじんじゃ)は 『出雲國風土記』の布辧社(fube no) yashiroの参考論社として紹介します 『雲陽志(unyo shi)』能義郡 宇波にある 現在の「宇波神社(unami jinja)」が「二所大明神(nisho daimyojin)」として記されて 布部村 二所大明神と同躰なり」とあります
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石宮神社(松江市宍道町)
石宮神社(いしのみやじんじゃ)は 出雲國風土記(天平5年(733)編纂)に「大国主命が猪狩りに出掛けた時 2匹の猪が現れ 犬を使い追い詰めたところ 犬と2匹の猪は石となったので このあたりは“猪の道=宍道”と呼ばれるようになった」と逸話が記述されています この犬と猪が化した石が“宍道社”と呼ばれた石宮神社の境内にあります
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佐久多神社(宍道町上来待)
佐久多神社(さくたじんじゃ)は 出雲國風土記に所載の「佐久多社(さくた)のやしろ」が2社あり 双方の論社とされています 延喜式神名帳では・佐久多神社 さくたのかみのやしろ と合祀の「同社坐韓国伊太弖神社 おなじきやしろにます からくにいたて の かみのやしろ」が該当します
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鷹日神社(松江市)
鷹日神社(たかひじんじゃ)は 延喜式に鷹日神社 出雲風土記に多加比社とあり 古文書に天智天皇の7年(白雉7年 西661)9月11日 天照大神の御神霊をお祀りになった とされます
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意多伎神社(安来市飯生町)
意多伎神社(おたきじんじゃ)は 遠く神代の創建と伝わり 古く由緒ある歴史を持ちます 『出雲國風土記(733年)』に所載される4つの社の論社①意陀支社➁御譯神社〈意多伎神社に合祀〉➂食師社〈意多伎神社に合祀〉④食師神〈意多伎神社の境内社 稲荷神社〉が祀られています
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勝日神社〈富田八幡宮 境内社〉& 富田八幡宮
勝日神社〈富田八幡宮 境内社〉は 古くは富田月山 頂上の勝日高守神社の里宮として山腹に鎮座していました〈『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )』にも『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』にも記載されて由緒も古く〉その後 富田八幡宮 境内社となり 現在に至ります
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多賀神社(三島市谷田)
多賀神社(たがじんじゃ)は もと三嶋大社 摂社の一つで 田川神社とも田河とも称された 2つの式内社「① 石徳髙神社(いはとくのたかの かみのやしろ)➁ 劔刀乎夜尓命神社(けむとをやにのみことの かみのやしろ)」の論社です
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岩徳高神社(伊豆市徳永)
岩徳高神社(いわとくたかじんじゃ)は 境内に昭和50年頃まで樹齢約500年の年輪を数えたスギの大木があったという 昔から八軒の世襲の鍵取が決まっていて 当番の鍵取はその年一年は 毎月1日15日に献饌などの奉仕をし 氏子は蒜(ヒル)を栽培すると災いがおきるとの禁忌があり 今もその伝えは守られている
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豆塚神社(伊豆の国市北江間)
豆塚神社(まめづかじんじゃ)は かつて石徳高命が降られたという雄徳山に式内社「石徳高神社」が祀られていました その後 狩野川が流路を西に変え 郷(依馬郷)が 江間と北條に二分されたので 鎮守も二社(当社と守山八幡宮)に分祀されたものと伝わります
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守山八幡宮(伊豆の国市寺家)
守山八幡宮(もりやまはちまんぐう)は 1180年(治承4年)源頼朝公が 源氏再興を祈願して挙兵した時に本陣を張った北條郷の地で 辺りには北条氏の屋敷があり 源頼朝公は 襲い討った山木判官平兼隆の屋敷から火の手が上がるのをこの辺りから見たとされます
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聖神社(伊豆市月ヶ瀬)
聖神社(ひじりじんじゃ)は 聖ヶ森に鎮座していた聖宮大明神を明治9年(1876)この社殿に合祀し主神として祀ったものです 最古の上梁文に永正9年(1512)のものがあり 村名に「槻瀬村」とあり 現在の地名『月ヶ瀬』の由来を示す者とされています
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小坂神社(伊豆の国市)
小坂神社(おさかじんじゃ)は 明治6年(1873) に 地区内各所に祀られていた17の神社が合祀されました その中の一祠は 古来から葛城山の山頂に鎮座し 合祀当時は 山麓の寺に遷されて小祠として祀られていた「葛城神社」〈式内社「倭文神社(しとりの かみのやしろ)」の論社〉です
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鍬戸神社(三島市長伏)
鍬戸神社(くわとじんじゃ)は 江戸期には 鍬手明神と云われていました 同じ境内地の中に 同じく延喜式内社の高橋神社〈東北東向き〉と背中合わせに 鍬戸神社の本殿〈南南東向き〉が並び建てらけて お祀りされています
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倭文神社(伊豆市大野)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 伊豆市大野にある倭文山の山頂に鎮座する『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 式内社゛倭文神社(しとりの かみのやしろ)゛の論社です 縄文遺跡もあり この地が古くから 渡来文化(機織技術など)で開けていたことを示すものとされています