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『出雲國風土記』楯縫郡(tatenui no kori)条 所載の神社 28社

『出雲國風土記』楯縫郡(tatenui no kori)条 所載の神社の数は「28社」です
「 9社」 神祇官社(jingikan sha)=『延喜式神名帳』所載社
「19社」 不在神祇官社(fuzai jingikan sha)

『出雲國風土記』楯縫郡【不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)】19社

『出雲國風土記』楯縫郡【不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)】19社は 写本の順番で並んでいます

『出雲國風土記』楯縫郡【神祇官社(jingikan no yashiro )】9社

『出雲國風土記』楯縫郡【神祇官社(jingikan no yashiro )】9社は 写本の順番で並んでいます

『出雲國風土記』秋鹿郡【不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)】16社

『出雲國風土記』秋鹿郡【不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)】16社は 写本の順番で並んでいます

『出雲國風土記』秋鹿郡(aika no kori)条 所載の神社 26社

『出雲國風土記』秋鹿郡(aika no kori)条 所載の神社の数は「26社」です 
 「10社」 神祇官社(jingikan sha)=『延喜式神名帳』所載社
 「16社」 不在神祇官社(fuzai jingikan sha)

『出雲國風土記』秋鹿郡【神祇官社(jingikan no yashiro )】10社

『出雲國風土記』秋鹿郡【神祇官社(jingikan no yashiro )】10社は 写本の順番で並んでいます

『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)』733年(天平5年)について

『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』は 733年(天平5年)出雲国造「出雲臣広島(izumo no omi hiroshima)」の監修の下 秋鹿(aika)郡の人「神宅臣金太理(kanyake no omi kanatari)」の手によって編纂されました

『出雲國風土記』意宇郡【不在神祇官社】19社

意宇郡【不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)】は 19社が所載されています このページには写本の順番で並んでいます

『出雲國風土記』意宇郡【神祇官社(jingikan no yashiro )】48社

意宇郡【神祇官社(jingikan no yashiro )】48社は 写本の順番で並んでいます

『出雲國風土記』意宇郡(ou no kori)条 所載の神社 67社

  『出雲國風土記』意宇郡(ou no kori)条 所載の神社の数は「67社」です 
 「48社」 神祇官社(jingikan sha)=『延喜式神名帳』所載社
 「19社」 不在神祇官社(fuzai jingikan sha)

惠曇神社(鹿島町佐陀本郷畑垣)&畑垣神社〈惠曇神社に合祀〉

惠曇神社(えともじんじゃ)は 磐坂日子命(いわさかひこのみこと)を御祭神としています 神名の「磐坂」は「磐境(いわさか)」と同義とされ 「座王さん」と呼ばれる当社境内に鎮座する磐座を神名として象徴化したものと考えられています 『出雲國風土記 733AD』所載の「恵杼毛社 (えとも)のやしろ」「毛之社 (もし)のやしろ」の論社とされています

惠曇神社(鹿島町恵曇)

恵曇神社(えともじんじゃ)は 磐坂日子命〈須佐能乎命(すさのをのみこと)の御子〉を祀り 『出雲國風土記 733 AD』所載の神祇官社「惠杼毛社(えとも)のやしろ」の論社です また境外社の恵曇海辺神社は『出雲國風土記』所載の不在神祇官社 二ヶ所の論社となっています

垂水社〈国司神社に合祀〉&國司神社(松江市西長江町)

國司神社(くにしじんじゃ)は 慶長年間(1596~1615)に旧社地 本国司より 現今の社地へ奉遷しました 垂水社〈国司神社に合祀〉については 明治41~42年(1908~1909)に往時 垂水社(式内社)を合祀してある西長江の新宮 東長江の姫二所 日御碕 天森の四社がこれに合祀された

御井神社〈秋鹿神社に合祀〉の旧鎮座地(松江市秋鹿町)

御井神社〈秋鹿神社に合祀〉の旧鎮座地は 現在の秋鹿神社の南方 約100m程の位置に神井があったと伝承があります〈現在は民家が建つ〉

秋鹿神社(松江市秋鹿町)& 御井神社〈秋鹿神社に合祀〉

秋鹿神社(あいかじんじゃ)& 御井神社〈秋鹿神社に合祀〉は 御祭神の秋鹿日女命(あいかひめのみこと)の名から『出雲國風土記(733年)』の秋鹿郷の名の由来とされています 所載社として「秋鹿社(あきか)のやしろ」と〈秋鹿神社に合祀〉の「御井社(みい)のやしろ」の二つの論社とされます

手間天神社(松江市竹矢町)〈少彦名神の神廟〉

手間天神社(てまてんじんしゃ)は 少彦名神の神廟と伝えられます 社名の手間天神とは 記紀神話にある「神産巣日神の手の指の間から落ちた天神」の名を冠します 733 AD出雲國風土記に所載の不在神祇官社「米那為社(まない)のやしろ」の論社とされています

八重垣神社(松江市佐草町)

八重垣神社(やえがきじんじゃ)は 八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)伝説 ゆかりの地です スサノヲノミコトと国の乙女の花と歌われた櫛名田比売命(クシナダヒメ)の夫婦が御祭神で 恋愛成就の大神として知られる聖地です

佐久多神社・韓國伊太弖神社〈来待本宮に合祀〉&来待本宮(松江市宍道町)

来待本宮(きまちもとみや)は 月夜見神を祀ります 勧請創立年代は 後奈良天皇の天文年中(1532~1555)とされ 明治41年(1908)配祀神の上来待 佐久多(佐久良=佐倉)に鎮座の佐久多神社と同社坐韓國伊太弖神社を本社に合祀しました

三崎神社〈氷川神社(宍道町)に合祀〉

三崎神社〈氷川神社(宍道町)に合祀〉は 出雲国風土記 延喜式には見えないが元祇園社と称し 貞観18年(876)この地方に流行した悪病の平癒を祈願して京都より勧請 祇園社を氷川神社と改称し 明治7年 猪道山にあった三崎神社(完道社)及び町内にあった客社 恵美須社焼火社を合祀して宍道町の氏神となった

比婆山久米神社(安来市伯太町)

比婆山久米神社(ひばやまくめじんじゃ)は 古事記に「かれその神避りし伊弉那美の神は 出雲の国と伯伎の国(伯耆の国)の堺 比婆の山に葬りき」と 国生みの母神〈伊弉那美の神〉は比婆山の山頂に埋葬されたと記されていて 今でも 御神陵と言い伝えられる古い塚があり 山頂の奥宮と麓の里宮が鎮座します 

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