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羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)
羽束師坐高御産日神社(はづかしにます たかみむすひじんじゃ)は 社伝によれば 創建〈雄略天皇21年丁己(477)〉と伝わり 京都でも古社となります 高皇産霊神(たかみむすひのかみ)を祀る 延喜式内社 山城國 乙訓郡 羽束師坐高御産日神社(大月次新嘗)(はつかしにますたかみむすひの かみのやしろ)です
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國常神社〈妙見宮〉(朝来市生野町円山)
國常神社(くにのとこじんじや)は 北辰信仰の妙見宮(みょうけんぐう)とも呼ばれ 国常立尊(くにのとこたちのみこと)を祀ります この地は 式内社 倭文神社〈鮭の宮〉(ここから500m程の 円山川の下流)の旧鎮座地 円山字鹽谷であると伝わります
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倭文神社〈鮭の宮〉(朝来市生野町円山)〈延喜式内社論社〉
倭文神社(しどりじんじゃ)は 和銅5年(712年)創建された 延喜式内社 但馬國 朝來郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)と伝わります 正徳3年(1713年)遷宮の時 偶然下流から鮭が遡上し 村人達は めでたい前兆として喜び〈鮭の宮〉と呼ぶようになったと伝わります
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倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)〈上野國九之宮〉
倭文神社(しとりじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御代の創建と伝えられ 貞観元年(859)には官社に列せられています 上野国九之宮とされる 式内社 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です 利根川北岸に鎮座し 南岸に鎮座する式内社 火雷神社(上野国八之宮 下之宮)に対して「上之宮(うえのみや)」と称されます
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火雷神社(佐波郡玉村町大字下之宮)〈上野國八之宮〉
火雷神社(からいじんじゃ)は 延喜式内社 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)です 社伝によると 崇神天皇元年の鎮座 火雷宮と号したと伝え 桓武天皇 延暦十五年(796)には官社に預り 上野国八之宮とされ 利根川南岸に鎮座し 北岸に鎮座する倭文神社(上野国九之宮 上之宮)に対して「下之宮(しものみや)」と称されます
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熊野神社 & 出雲社〈熊野神社境内〉(防府市上右田)
熊野神社(くまのじんじゃ) は 明徳三年(1392)大内義弘公は 将軍 足利義満から和泉(いずみ)・紀伊(きい)の両国を与えられた時 野上修理亮に命じて 紀伊の国の熊野権現宮より御分霊を移し この地に熊野権現を創建したと伝わり 境内社 出雲社(いずもしゃ)は 延喜式内社との伝承もあります
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出雲神社(山口市徳地堀)
出雲神社(いづもじんじゃ)は 第44代 元正天皇 霊亀元年(715)鎮座と伝えら 周防国二之宮です その起源はさらに古く 大古 出雲種族の佐波川流域への膨張発展に伴い その祖神を鎮祭したものと考えられています 式内社 周防國 佐波郡 出雲神社二座(イツモノカミノヤシロ フタクラ)とされています
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御田八幡神社(港区三田)
御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年〈三田八幡宮 古跡石碑〉に遷座し 寛永五年(1628)現在地に鎮座したとあり 古くは稗田神社とも云われたと伝わり 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社となっています
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薭田神社(大田区蒲田)
薭田神社(ひえだじんじゃ)は 社伝によると和銅2年(709)僧行基が天照・八幡・春日の三体神を造り本社に安置し その後 弘安5年(1282)この三体は日蓮によって開眼されたと伝わっています 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とされています
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生根神社(大阪市住吉区住吉)
生根神社(いくねじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 社伝では「住吉大社が当地に御鎮座の以前より奉祀せられて居り 古伝によれば少彦名命は造酒の祖神であり 神功皇后も当社で酒を造り住吉三神に献ぜられた」とあり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 摂津國 住吉郡 生根神社(大月次新嘗)(いくねの かみのやしろ)とされています
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丹生官省符神社(九度山町慈尊院)
丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)は 一宮~四宮は 北の方宮の橋といふ地にあったが 天文年中(1532~)の洪水により 慈尊院に遷座した 此の時 三社宮も遷座して神通寺七社明神となる 近代には丹生七社大明神 丹生神社と呼ばれ 昭和21年(1946)現在の社号となっています 或説に 式内社 小田神社とも云われます
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小田神社(橋本市高野口町)
小田神社(おだじんじゃ)は 建立は1,400年前で 神領も多く朝野ともに尊敬の深かった式内社 紀伊国 伊都郡 小田神社(をたの かみのやしろ)と伝えられます その後の数々の兵乱に合い 社地も衰廃し 祠は焼失してしまいました 紀伊藩主 徳川頼宣公が元和年間(1615~1624)に旧境内本殿跡に石の宝殿を建て「小田神社」と刻し ご神体として後世に伝えさせ 現在に至っています
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丹生都比賣神社(かつらぎ町上天野)紀伊国一之宮
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)は 創建は古く 少なくとも今から千七百年前のことと伝えられます 神功皇后の三韓征伐の時 丹生都比売大神の託宣によって 衣服・武具・船に朱砂〈丹〉を塗り戦勝されたので 応神天皇が 社殿と広大な神領を寄進されたとする 式内社であり 紀伊国一之宮でもあります
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忍坂坐生根神社(桜井市忍阪)
忍坂坐生根神社(おっさかにいますいくねじんじゃ)は 忍坂山(外鎌山)を神体山として遥拝する古い祭祀様式で 本殿を持ちません 天平二年(730)正倉院文書『大倭國正税帳(やまとのくにしょうぜいちょう)』の記録には「生根神」として載る古社で 式内社 大和國 城上郡 忍坂坐生根神社(大月次新嘗)(をしさかにゐます いくねの かみのやしろ)に比定されています
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住吉大社(大阪市住吉区住吉)・境内外・摂社・末社について
住吉大社(すみよしたいしゃ)の・境内・境外・摂社・末社と要所について
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船玉神社〈住吉大社境内摂社〉(大阪市住吉区)
船玉神社(ふなたまじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の時 船に祀った守護神とされ 由緒には「船玉(船魂)とは 船舶そのものの神霊で 住吉大神とは表裏一体の関係として尊崇され 時には住吉大神の荒魂とされる」とあり 住吉大社の境内摂社ですが 元々は第四本宮〈神功皇后〉の前 海に向かって 4つの本宮の先頭に鎮座していたと伝わっています
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大歳神社〈住吉大社 境外摂社〉(大阪市住吉区住吉)
大歳神社(おおとしじんしゃ)は 住吉大社の「はったつさん」と呼ばれる゛初辰まいり゛〈商売や家庭の発達繁栄を祈るお参り〉の四社の締めくくりに参拝する習わしのある境外摂社です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 摂津国 住吉郡 草津大歳神社(鍬靫)(くさつをほとしの かみのやしろ)の論社ともされています
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式内社 努能太比賣命神社 社跡(大阪市住吉区杉本)
式内社 努能太比賣命神社 社跡(しきないしゃ ぬのたひめのみことじんじゃ やしろあと)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 摂津国 住吉郡 努能太比賣命神社(ぬのたひめのみことの かみのやしろ)の社跡とされます 明治40年(1907)大依羅神社に合祀されました
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式内 草津大歳神社趾(大阪市住吉区苅田)
式内 草津大歳神社趾(しきない くさつおおとしじんじゃあと)は 明治40年(1907)大依羅神社に合祀された 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 摂津国 住吉郡 草津大歳神社(鍬靫)(くさつをほとしの かみのやしろ)の旧鎮座地です 創建・由緒など不明ですが 跡地に残る大楠が御神木であったことを彷彿させます
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大依羅神社(大阪市住吉区庭井)
大依羅神社(おおよさみじんじゃ)は 神功皇后が新羅征討の際 住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の神託により戦勝と航海の無事を祈り「依羅吾彦男垂見(よさみのあびこをたるみ)」が住吉三神を祭る祭主を務めたことが『日本書紀』に記載されるのが起源とされている 式内社 大依羅神社 四座(おほよさみの かみのやしろ しくら)(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)に比定される古社です